25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

三橋美智也を紹介した番組をみた

2018年06月06日 | 音楽
 氷川きよしが三田明の「美しい十代」を歌っていた。それがあまりにも下手だったので、やっぱり本家三田明の方が上手く、声の質も、歌い方も「美しい十代」は三田明のものなんだな、と思ったのだった。
 そんな歌をよく聞く。千昌夫が橋幸夫の「潮来笠」を歌ったがひどかった。石川さゆりが「Fall in love」を歌ったがこれもひどかった。やはり他人の持ち歌を歌うというのは難しいことなのだろう。
 逆もある。一青窈がユーミンの「飛行機雲」を歌った時、この歌は良い歌だと改めて感じたのだった。それは一青窈が陽水の「ジェラシー」を歌ったときにもそう感じた。〇〇が野口五郎の「いい女でいてくれよ」を歌ったときにも、なんといい歌かと思ったのだった。

 どうやらよく世間で流行り、歌手がなんどもテレビに出てきて歌わる、そんな歌は他の歌手が歌うのはイメージが定着しているから難しいことなのだろう。逆の場合は、その歌が「知らない歌」か「ちょっとだけ知っている歌」を上手い歌手が歌うからなのだろう。

 ぼくは三橋美智也という歌手を知ったのは高音の声も太くなった三橋美智也の晩期であった。懐メロで出ているのを見たのだろう。「達者でなァ」は矢野顕子が歌っている方を好んだ。
 ところが三橋美智也最盛期の頃の歌を当時の音源でテレビで紹介していた声を聞いて、上手な歌手だったんだなあ、と関心しまくってしまった。北海道の原野や遠くの山々にまで響くような不思議な声をしていた。出だしを高い音から始める作り手もよくよく三橋美智也の声の特質と出だしで聴く者の脳に入れこんでしまう手法を心がけているようであった。
 晩年、小椋佳に作曲を依頼したらしい。小椋佳が三橋美智也に作った曲はこの出だしスタートがよろしくなかった。つまり三橋美智也のいいところを引き出せない曲作りとなっていた。
 「惚れてエエエ、惚れてエエ・・」とか「わらにまみれてよオー」は気持ちがよかった。意外とテレビで紹介されたのは知っている歌ばかりだった。それほどヒットしたのだろうし、今でも歌われるのだろう。一億万枚のレコードを売ったというのだから、当時のスーパースターである。
 三橋美智也や春日八郎のあとに、橋幸夫が出て来て、舟木一夫が出て来た。当時の少年少女、学生の間で人気沸騰となった。安達明とか梶光男とかでてきたが、すぐに消えていった。
 橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦、三田明と時々テレビに出て来るが、代表的な歌しか歌わせてもらえない。なんとかならないものか、BSで一人二時間でも三時間でもやればいいのにと思う。ぼくは三田明の「赤い夕陽」とか「サロマ湖の空」は好きであるし、橋幸夫の「お譲吉ざ」や「青いセーター」が好きである、舟木一夫の歌でも、西郷輝彦の歌でも好きなものがある。西城秀樹や郷ひろみ、野口五郎などもやってほしいと思う。

 NHKの「Songs」では薬師丸ひろ子がすでに四回。桑田佳祐もすでに四回か五回やっている。何を基準に選ぶのか、知らないが、BSでいいから「三橋美智也」を扱ったような番組を要望したいものだ。

三度目の殺人  是枝監督

2018年06月06日 | 映画
 是枝裕和映画監督の作品「三度目の殺人」のDVDをレンタルして観た。脚本も是枝監督である。
 この映画はじっくりと観させるいかにもお金をかけずに中身の深さで勝負のようなカンヌ映画祭向きの作品であることはハリウッド映画と違ってしかたのないところである。

 初めから矛盾があって、それが最後まで違和感として残った。三度目の殺人をして捕まった男は過去に二人の人を殺し、三十年刑務所にいた男である。「自分はこの世に存在しているだけで人を傷つけてしまうような人間」だと思っている。「生まれてきてはいけない人間はいるのだ」「父、母、妻が先に死に自分のような人間が生きていると言うのは不条理だ」と思っている。この三隅という犯人役を役所広司が演じている。この作品の失敗といおうか、評価に欠ける部分はこの俳優選びと殺人犯に吐かせる言葉である。映画で見る限り、この男はまともで、きちんと挨拶もでき、論理的でもある。つまりインテリである。とても極悪非道な殺人を以前に犯しているとは思えない。

 福山雅裕の演技は「龍馬伝」の時と比べると格段によくなっていた。彼は重盛というリアルな弁護士である。三十年前の殺人事件の裁判で裁判長を務めたのは重盛の父だった。父は三隅のことを「獣みたいな人間」と言い表している。当時三隅を逮捕した刑事は「感情のない空っぽの器」と言っている。
「獣みたいな男」「感情のない空っぽの器」という言葉は三隅(役所広司)に合わないのである。

「人は人を裁けるか」というような永遠の命題も「真理」を追究しようとしない法曹界にも異議申し立てをしたそうな監督であるが、その説得力はなかった。役所広司を選んだからである。彼にはこの役は無理なのだ。獣と思わせるような人間であり、三度目の殺人では自分の娘と重ねてしまう被害者の娘が被害者である父に性的虐待をされていたことが公になることを恐れ、急に「自分は殺人をやってない」と三転して主張をひるがえすのである。それは被害者の娘への愛情もしくは親和感である。そうして三隅は愛情と知能のある人間に変わってしまっている。

 ぼくは違和感を抱きつつ、最後まで違和感をもってこの映画を観た。
 また言っておきたいことがある。

 「人間が生まれる」ということをやや浅い知識で言葉を吐かせていることである。受胎から誕生までの凄まじい生き残りの上で生まれるのが人間である。40億年の苛酷な生命の再現を行い、生まれてのなお歩くこともできない人間なのである。母がどうであろうと、父がどうであろうと、人間には「存在するだけでもつ倫理」があるのだ。母を責めても責めきれず、父を責めても責めきれない。社会を責めても、法を責めても、この「存在するだけでもつ倫理」は究極的に自分についてまわるものだ。生まれない方がよかった人間はあり得ないのだ。重盛の助手のような立場の弁護士がそういう三隅に異議を言う場面が一言あった。しかしそれは世間でよくいう「人間だれでも価値があるんだ」という風にぼくには聞こえたのだった。たぶんこの短い言葉に是枝監督の現在の思考の段階が現れたのだった。

 一方で、死刑よりも減刑されることを優先する重盛という人物には好感をもった。そこにリアルさとありそうな弁護士像をうまく演じる福山雅治がいたからである。作り笑いするでもなく、キザでも、えらそうでもなく、若干の感情を表して淡々と演じていた。
 賞をとるにはもう一歩だと感じた。しかし是枝監督は「万引き家族」で今年の第71回カンヌ国際映画祭で最高賞となるパルムドールを受賞した。彼はどのように変化したのか映画を見てみたいと思う。