金魚やメダカでも何らかの気配を感じると隠れ家に隠れる。ぼくの気配を感じて、餌が欲しいと集まる。たぶん金魚とメダカにとって僕は「安心感」があるのだろう。
母親の中にいる胎児は受精の瞬間から母親の気配を感じる。聴覚が発達してくると、母親と父親の会話や外の人の会話やザワザワした音なども聴き取るようになる。
母親の心臓の音。血流の音。母親の内面の思いが印画紙に写るように転写する。こころは母親、次に母親と父親の関係、兄弟姉妹の有無。そこに環境、例えば人の出入りが多い商売屋さんか、ひっそりと人の来ない家か、近所にどんな人がいるか。そんなところからこころは形成されていく。胎児期から乳児期。この時期に母親からのオキシトシンホルモン(愛情ホルモン)を十分で受けていれば、こころは丈夫に育ち上がる。
この時期に夫との関係がよくなく虐待を受ける、泣きくれ、怒りとか、経済的に苦しいとか、母親が病気であるとか、母親が自分中心過ぎるとか、両親がその上の父母に弱く、支配されているとかとあれば、こころの成長は歪なものになり、丈夫なものにならないと僕は推察している。この点では吉本隆明の「母型論」と三木成夫の「胎児の世界」を読んでから、今日まで思ってきたことだ。そして子育てにとって一番大切なことは「安心感」を与えることだ。
三島由紀夫は強権的な祖母、しかも梅毒という病でベッドに寝たきりになっている祖母に取られ、授乳の時に合図のチャイムで産みの母親を呼んだという異常な世界で乳児期を過ごしている。
太宰治は乳母に育てられ、母親とは離されて育っている。夏目漱石は四十を過ぎてから産んだ子だと世間体が悪いと他人に預けられ、路上の店の籠の中にいたという。
彼らの文学の源泉はそんな生い立ちにある。自分の育ちが悪いから、文学に傾倒していったのだろうと思える。さしずめ現代は自己表現手段が多々あるから、多くの人がある面、多々ある自己表現手段によって救われていると言っていいだろう。しかしある時期が来たら耐えきれず、「自死」してしまう人もいるというのも事実である。もちろん自死せず、生き抜く人もいるだろう。多くの三島由紀夫や太宰治がいてよいはずもない。
女性が活躍する社会では、女性が妊娠中から乳児を過ぎるまでの「安心」が担保されなければならないとぼくは考える。
さて、今の若者たちに安心感があると手を挙げて賛成できる人はどのくらいいるものだろう。この場合、胎内とは社会のことである。