25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

奥を見る

2017年11月27日 | 文学 思想

 友人はもうじき剣道八段への昇段審査である。彼は電話で、この頃見る位置について思うことがあるらしく、試しているのだ、と言っていた。

 ぼくは相手を見るという場合、目の奥、つまり頭の後頭部を見るようにすると、力がよく伝わるとエステをする女子たちに言ってきた。すると相撲力士の琴奨菊が大関に上がる前、大学の先生から、「あなたはビデオで見ていると相手を睨んでいる。これがよくない。相手を睨むと身体が緊張してこわばるから力がうまく伝わらない」と言われたことがある。眼力を抜いてみたら、たちまち大関になってしまった。そのあとは「運動神経」としかいいようがないが、琴奨菊はひとつの極意を得たのだった。

 肘を使って目の奥を見て押すのと、同じ肘を使って相手の目そのものを見て押すのとでは力の伝わり方は2倍にも3倍にもなる。剣道においても相手の後頭部を見ると筋肉が緩んで一瞬の動作に入りやすいだろうし、身体全体の動きがよく見えるのではないか、と電話のあとつらつらと考えている。胸を見る人、喉元を見る人、顔を見る人、いろいろいるのだろうが、本当のところはぼくは知らない。ただ押す場合には肘の力がもともと強いので、それを倍増するには目で奥を見ることだ。肘は手のひらを返すように開きながら肘のバネを使う。相撲はまさにそうである。

 マッサージをする場合、例えば背中でもよい、腹でもよい、上下肢でもいいのだが、深い力を届けようと思ったら、それらの表面は見ない。その奥を見るのである。奥にポイントを置いているから力は加速の真っ最中である。その時、足の立ち位置はT字型である。左足と右足は離れているわけだが、T になっているほうが断然力が強い。

 どうやらこれは人間との関係にも言えそうである。相手を目の奥を見て話すと威圧感のようなものはない。睨むということもないから、ぼんやりという風である。人間は自分というものがわからはずもなく、他人のこともわかるはずはないのだから、誤解などは当たり前のことだ。じっと、しっかり見て、なんていうのは可笑しいよ、と年を重ねてくるとわかってくる。無理してわからなくてもいいやい、おれがおれのこともわからないんだから、となる。

 目で物を言うというが、それはそれでいいのであるよ。