25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

失敗したときに個性が出る

2017年02月25日 | 文学 思想

 小説を書いていて、個性を描写するには失敗したり、間違いをおかすときである。人というのは間違いをした時こそ個性がでる。逆に言えば失敗しない人間というのは個性を発揮のをなるべく避けて、可もなく不可もないことを目指しているもかもしれない。あるいは「

失敗しない天才」というのもあり得るだろうが。

 神道には教義がない。仏教は庶民が読むには難し過ぎる。その点キリスト教の聖書やイスラム経典は平易に意味深いことを比喩も交えて書いてあるから、日本人よりは相当言語感覚が違うことだろう。好戦的なのも論戦が得意そうであるのも、国の歴史的背景や日常の背景が違うのだ。なみあみだぶつ、なんみょうほうれんげきょう、なんまいだ、と言ってもその意味すらわからず、ぼくらの祖先はいただろう。生き方を言葉をとうして模索してきたもが一神教の人々ではないか、とぼくは思う。

 今、安倍昭恵にも本当も個性が出始めている。安部首相も国会答弁で個性を発揮し始めた。論戦の下手な人は逃げるか、隠れるしかない。宗教や信条お自由の国なのだ。名誉校長として堂々と持論を述べればいいではないか。見つかったらすぐにホームページから削除し、記者にたしても無言で逃げる。不当に名前を利用だれたのなら訴えればいいではないか。

 こいうところいつまでたっても日本の弱いところである。何かをしでかした教員も自分は出てこない。逃げる、隠れる、匿ってもらう。きちんと説明しない。逆に責任は親にあるかもしれないのに、それを言えば世の親から大バッシングを受けると萎縮する。

 日本がかつてファシズムに陥ったのは、負けるぞ、と言えば、負けるなどと縁起でもないこと言うな、種類の同調圧力であった。

 人は間違ったときこそ個性があらわれる。学歴も地位や名誉も関係ない。奥の奥に潜んでいる随のところが出てくるのである。