25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

また「明暗」

2015年09月27日 | 文学 思想

漱石の「明暗」をまた読んでいる。これで三度目である。一回目は二十歳の頃、大学内のキャンパスのベンチで読んだ覚えがある。この時は主人公は津田という男性だと思っていた。2013年に二度目読んだ。この時も、主人公は津田だと思って読んでいた。そして、水村早苗が果敢にも、絶筆となったこの小説の続きを買いた「続明暗」があるのを知った。

 今回三度目で、主人公は津田ではなく「お延」ではないかと思うようになった。そして水村早苗もそう考えたのではないか、そうであれば水村早苗の続編は納得のいく結末だったという気もする。津田は好きだった女性が突然ににべつの男のところに嫁っていき、その理由がわからず、いくばくかの未練ももっている男である。お延は自ら津田を愛し、自分が愛したのなら夫にも愛されることを至上と考える新しい女性である。この女性像は「三四郎」での「美揶子」や「虞美人草」での藤尾が混ざったような女性像である。漱石はその種の女性を実は嫌っている、ということは彼の書簡でもわかる。

 その漱石が「お延」を中心におき、夫である、どちらかというと、つまらぬインテリ性をもつ津田がそそのかされて、去ってしまった女清子が伊豆だったか、箱根だったか、温泉に長逗留をしていると聞き、お延に黙って、清子の様子を伺いにいき、機会がれば、自分から去った理由を聞き出しにいくのである。ここで、漱石は筆を折るのである。

 出てくる人間関係や心理は今と変わるところはない。ただ大きく違うのは、当時特殊だった「お延」のような女性像は今や当たり前になっていて、さらに強くなっていることだ。従って、現代風に「続明暗」を書くならば、お延はさっさと、現場に乗り込み、離婚届け出用紙を叩きつけ、慰謝料をもらい、次の恋愛に向かうことだろう。

  それにしても漱石の細かい心理の綾を表現する上手さには、感嘆する。