25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

不規則性

2015年09月10日 | 文学 思想

 卵子と精子が合体してそこから細胞分裂が起こる。2個、4個、8個、16個と分裂していく。分裂した細胞はある程度(2百数十個)になるまで、自分が何になる細胞かがわからないらしい。周囲との関係性で「オレは骨になる、「オレは神経になる」 という風になっていくらしい。

 そんな本を読んでいて、いつも不思議に思っていたのは、オーケストラで、女性がユーフォニアとかチューバをやっていると、どうしてその女性はあんな重たそうなチューバ奏者を選んだのだろうと僕はいつも思うのだ。ファゴットにしてもである。その学期の音を聞いて、「ああいい音だ」と感じたのか。人間を1個の細胞に喩えれば、その集団の内部における関係性において、誰もやる人がいないから「じゃあチューバを私がするわ」とか「お前、チューバやれよ、ガタイも大きいし」とか言われて、「いやだなあ」とも言えないものがあったりするのだろう。

 私たちは毎日物を食べる。食べると私たちのタンパク質の死ぬべき物は死に、新たに作られるものは新たに生きる。今日の自分と昨日の自分は全く違うのに、自分であることを保っている。「これを動的平衡」という。人間は生き死にして流れるように生きて、それでバランスをとっている、ということだ。

「入り」と「出」を分子のレベルで見るのと、「食べる」と「排泄」するというのは同じように見える。当然出るべきものがでないとそれは「停滞」となる。停滞したものは内部で腐る。「停滞」は便や尿だけではない。血液や神経や筋膜にも停滞は起きるだろう。骨にも起きるはずである。

 食物から摂るたんぱく質は胃で消化され、十二指腸で消化され、アミノ酸となって小腸で吸収される。そこから肝臓へいきそのアミノ酸がビタミンやミネラルらと反応を起こして身体の各部に必要なたんぱく質となる。不要なものは排泄される。

 この動的平衡が僕について言えば、毎年のように崩れていく感覚がある。歯1本ないだけでその平衡はやや崩れる。顔の筋肉が緩み、たるむことだけでもやや崩れる。その身体の崩れは、そのまま心の崩れにも現れる。それでもなおも生きる。それは僕らが本質的に不規則にできているせいだ、と僕は考える。これを規則性と考えれば生きていくのは難しい。お腹が空いたら食べる。何も12時になったら本当は食べる必要もない、早寝早起きが人間としての規則性だと言えないのは、僕が不規則に生きている多くの人たちが長命でいる人も多いことでもわかる。人間は言語を獲得したことによって、それを口にだすことによって「不規則性」を同時に獲得したように思える。動的平衡というのはそういうあやういところで人間が生きていく流れのようなものだ。

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