25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

視野

2015年06月27日 | 社会・経済・政治
 名古屋に来た。眼科医で知り合いでもある静岡の石川先生に、視野についてお話を聞いた。
 関心は視野の老化があるのか、あればそれに抗う手だてがあるのか、どうかだった。
 彼の解答は、視野をキープする方法はない。視野が狭くなるのは、
緑内障などの病気が考えられる。白内障でもあり得るし、脳の病気でもあり得るということだった。緑内障を完治できる治療法はまだないらしい。驚いたことには、自分が緑内障であると自覚し、眼圧をさげる目薬などをしているひとは、500万人中のわずか20%で、80%の人は治療をしていないのだそうだ。
 高齢者の視野検査をテレビで見た。視野検査をしてみると、多くの高齢者はびっくりしていた。自分の視野の狭さを知ったからだ。これはどういうことなのか、専門家に聞いてみたかったのである。
 警察では、視力の検査はあっても、視野の検査はない。反射神経もにぶり、なんらかの、原因による視野狭窄がある高齢者の車運転は危ない。殺しもするし、殺されもする。
 アンチエイジングが、大流行の中で、視野についてのアンチエイジング方法がないというのも、事実なのかもしれないが、なにか方法があるのではないか、と思ったりする。
 2012年7月の奈良市での交通事故の裁判が行われた。運転していた被告は網膜色素変性症に罹患していたものの、自分がその病気であることを知らなかったため、横断していた男性を発見できず事故は避けられなかったとの理由で、死亡事故にもかかわらず、無罪判決が出されたのである。
 僕の母の事故では加害者は糖尿病だった。事故日の翌日はインスリン注射の日だった。ぼくは事故日の日、加害者がバンソコウを肘やなどにいくつか貼ってあるのをみて、どうしたのかときいたら、フラフラして、転けたり、打ったりした、と言った。
 母をはねた時の彼の目薬は健常のものではないとおもったが、結局、糖尿病患者の運転は、事故の刑事裁判では、なんら関知されるものでもなかった。
 僕は本当はこういう人は運転してはならないと思う。

 石川先生はパソコンで、静止画も手術の動画も丁寧に見せてくれ、解説してくれた。
 水晶体の前にある筋肉(名前を忘れたので今は失礼して、後に加えます)は自律神経が司っているので、自分の意思で動かせないのだそうだ。この筋肉を我が意思で鍛えることはできないということなのだ。つまり目の老化は免れないのだ。鮭のように、食の相から性の相を終えると生を全うするようになっていない人間は、動物で最も大事な目と歯がを失っていってもなおも生きる。いかにも植物系に戻るようにして死んでいく。

 この目の世界にちょっと入るだけで、原因が未知の世界なのだ。

 
 

ビーチボーイズ

2015年06月27日 | 音楽
「The Beach boys」という1961年に結成されたバンドの歌と曲を初めて興味をもって聴いた。サーフィンロックと言えばいいのか、まあ、ロックンロールなのだろうけど、ハーモニーをつけて歌うグループサウンドである。「The Beatles」が1960年の発足だから1年後ということになる。ビーチボーイズはカリフォルニアを拠点として活動した。これまで売れに売れていたビーチボーイズの作曲・作詞はほぼブライアン・ウィルソンが行っていた。そのビーチボーイズが「 Pet Sounds」というアルバムを発表したのが1966年。ビートルズを刺戟したらしい。逆にブラインもビートルズを意識したのかもしれない。

 ビーチボーイズのハーモニーは独特で、以後、世界では彼らに影響を受けたグループが続々とでてきた。ファルセットが美しく、張り上げて歌うようなロックではない。軽いノリのものが初期の頃の歌だった。ところが「Pet Sounds」で大きく変わった。深く複雑になった。当初アメリカではそれほどヒットしなかったが、ヨーロッパで大ヒットし、ポールマッカートニーがブラインを訪ねたことがあったらしい。ブライアンは統合失調症だったらしく、ポールがわざわざブライアンの自宅に来たときもロッカーの中に隠れていたというエピソードがある。ブライアンはコンサート、作曲とやたら忙しく、やがて、コンサートにはでず、スタジオでプロヂュースと作曲だけを手がけるようになるが、スタジオミュージシャンのテクニックによって、自分ではできないベースラインができるようになり、曲の深みと幅も増していったが、精神にも異常をきたしていた。
 その後、20年ほどは精神的な病と格闘し、また復活を遂げる。2009年には米ビルボード誌のジャズ・アルバム・チャートで1位を獲得した。まだ新曲を作っている。今はソロ活動をやっているらしいが、年齢は73歳である。

 戦後、音楽はイギリス、アメリカを中心として大きく変わった。ビートルズやビーチボーイズ、ローリングストーンズなどが音楽を変えていった。ジャズにも影響を受けながら、全く違うジャンルとして確立されていった。
 ジャズはスウィング、ビーポップ、モダン、フリーとこれもまた変遷していった。
 1961年と言えば、僕はまだ11歳だった。1960年登場のビートルズも知らなかった。ヒットパレードでは外国の歌が翻訳されて流行していたが、まだ日本でのグループサウンズは登場していなかった。中学生の2年生か3年生ぐらいの頃、同級生のA君がいつも平凡パンチももって廊下を歩いていた。ビートルズが日本に来たのは1966年だから、僕はもう高校生になったいたが、すでにもう馴染めなかった。この頃は日本の下手な、どうしようもないグループサンズが真っ盛りであった。1972には矢沢永吉の「キャロル」がでてきて、1973年には山下達郎がでてきた。そしていよいよ我がサザンオールスターズが出てきたのは1978年である。竹内まりあも1978年である。この歌手が最もビーチボーイズっぽい。

 日本でロックが醸成されるまで10年以上かかったことになる。ジャズは戦前から入ってきていたが、地方の果てほうにいる僕なんかは、「ロッテ歌のアルバム」や「ヒットパレード」で聞くぐらいのものだった。
 高校3年生の時にはビートルズを真似するバンドも同級生たちが始めていた。やはりどこにでもこういうことに敏感に反応する人というのはいるのだ。

 この前「ベンチャーズ」コピーをやって楽しんでいるHさんとあったが、楽器演奏に歌をのせるという発想はなかったようだ。それだけ難しいのかもしれないが、その頃から50年以上が経った今、ハーモニーが流行っている。
 なにかが変わるというのはその先駆けの時代から長い、長い時間を要するものだと思う。