25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

下町の太陽 昭和36年

2015年06月08日 | 映画
 日曜日の朝、1961年にヒットした歌謡曲を歌った倍賞千恵子の「下町の太陽」という映画を見た。ヒット曲を映画にするはしりの映画で1963年に制作されている。山田洋次監督の二作目の監督作品である。

 さすが山田洋次監督の才なのか、偶然なのか、1961年当時の日本の姿、風俗や時代の流れのようなものが結構克明に描かれている。
 墨田区のおばあさん、お爺さん連中は皆和服を着ているし、ご近所さんはいっぱいいるし、下町の空はすでにスモッグで覆われている。町子の勤める工場の昼休みはバレーボールや卓球が行われる。音楽はツイストが流行っていて、青山ミチがツイストの歌を歌っている。年配者はあきれている。郊外に団地が出来始め、その団地入居に当たるには200組に一組である。倍賞千恵子が演じる寺島町子の恋人は工場務めから本社の正社員になるための試験勉強をしている。資生堂が舞台のように思われる。団地に当選した友達は高い化粧品を毎日し、夫の帰りを待っている。あなた素顔のほうがきれいよ、と倍賞は言うが、夫は化粧をしろ、と言うらしい。背景にはコーヒーカップやインスタントコーヒーも出てくる。恋人は本社試験に失敗し、コネがあって、有能な同僚が合格する。一方北海道からやってきて製鉄工場で働いている男(勝呂誉)が積極的に交際を申し込んでくる。彼をある種の不良とみなしていた町子はビリヤードや居酒屋で食ったり飲んだりする「遊び」を経験させてくれる。女は結婚すれば仕事をやめると多くの女性は考えている。父親の世代は戦争経験者ばかりである。

 交通事故への対応のしかたでも、やられた方の不注意でと許してしまう人の良さも出てくる。加害者はコネで試験に合格した男(待田京介)で、上司といくばくかの賠償金をもってくるが、町子の恋人はその失敗を喜ぶ。出世競争のいやな面を見てしまう町子は「貧乏は嫌だね」などと父親に愚痴る。「寄らば大樹の陰」などと言って、サラリーマンの嫁になれ、と勧める。青空の見える郊外に住むことは若い人々の夢でもあった。
 町子の恋人も郊外に住めなきゃ町子を幸せにできない、と考えている。町子はどこか彼の愛情の表し方に違和感を覚える。

 今郊外団地の時代は核家族を生み、それもとうに過ぎて、やがて郊外一戸建て希望となった。ドーナツ現象を言われた。今はできりるだけ都心の近いところのマンションに住むようになり、郊外の団地や家も空き家化している。空き家は全国で820万戸あり、2030年には1000万戸を超えるといわれている。わずか50数年で日本人は土地や家に対する価値観は変わったのである。

 例えば僕の子供たちは尾鷲の家を維持し続けることを嫌がるかもしれない。固定資産税、管理、修理、さらには壊すという場合でもお金がかかる。家を買うことに一所懸命になる人が少なくなっているのではないか。

多摩川には鮎が戻ってきた。渋谷駅前にあった、スモッグの測定器もなくなった。時代は大きく変わり、今また転換点にきている。
 映画を見ていて、懐かしさのようなものがあんまりない。きっと僕はその頃は11歳で、東京も知らないし、尾鷲にいたからなのだろう。憶えているのは大人たちが野球をやっていたのと小学校の運動場でラジコンに興じていた上級生たちの風景である。この映画でも出てきたから地方にまですでに流行が行き渡っていたのだろう。しかし相変わらず山田洋次の映画はいつも風景を細部にまで大事にしているし、また人間にきよらかというものをいつも描いていて、感動することが多い。
 広告で、初めての監督作品「二階の他人」「愛の賛歌」「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」が紹介されていた。

森さん

2015年06月08日 | 日記
 尾鷲市に曽根という浦村がある。人口が百人もいない海沿いの集落である。海沿いの集落と言っても山までだんだんの傾斜になっていて、ここの人達は蜜柑やお茶を栽培している。昔は蚕生産もしていたそうだ。
 この曽根にいくと森さんという80歳になる男性がいて、僕は仲良くさせてもらっている。まあ、ここもイタリアやギリシャの田舎村と変わらない。イタリアやギリシャでは自家製ワインを作るように、森さんは自家製のほうじ茶を作る。彼はお茶を作る時期になるとなにもかもシャットアウトして、精根つめてお茶を摘み、干し、百回以上揉み、丁寧に煎る。森さんは鉄瓶でいつもお茶を作ってくれる。鉄瓶じゃないとだめだ、という。森さんの家に行くたびにこれが楽しみになってしまっている。本当に美味しいお茶なのだ。
 「曽根で一番だと思ってませんか」と聞くと、「へへ、そんなことはわからんけどな、揉む回数は違うわな。みな50回ぐらいでへたりよる。百回揉まなあかんで。それをやっとるのはウチだけやな」とやはり自慢気である。まあ、美味い。ほうじ茶を売りにしている販売店もネットでも多々あるが、これほど美味しいほうじ茶はないと思う。
 さて、森さんは曽根の夏みかんから「ママレード」も作る。これもこだわりのママレードで、一番美味しくみずみずしい中身を包む皮は取り去り、大きな皮と蜜柑の中身(なんというのはわからない)を砂糖を入れて煮詰めるらしい。これもまた美味しい。
 彼は東芝にいたので、電気のことにも明るく、パソコンも使いこなす。車は大きな贅沢な車を持っている。
 森さんの長男は青春の半ばで交通事故で死んだ。娘さんと奥さんは大阪にいるらしいが、そのことについて深く聞かない。奥さんが相当ショックだったらしい。森さんは全国を営業してまわっていたのだから、奥さんよりも息子と接する時間は少なかっただろう。
 僕はいつも森さんの家に行くと、亡き息子の写真の前で合掌したくなってくる。

 曽根でたったひとつの店を森さんは守っている。洗剤や電池や急になくなって困るものを置いてある。タバコも置いてある。線香も置いてある。森さんがいないと曽根の人は自分で物をとり、紙に書いて、お金を置いていく。
 森さんは書道も達者で、この頃は短歌も作っている。いつもそわそわしているように見えるが頼もしく、僕はくつろいでしまうが、彼は礼儀もしっかりしているので、こちらも礼儀はわきまえる。

 ところで、曽根、須野、甫母、二木島、遊木、新鹿、波田須という浦村を過ぎると磯崎というところがある。この磯崎を大泊から見ると実にイタリアである。あるいはギリシャのエーゲ海の島と言ってもいいくらいだ。海は透明に青く、家の色もイタリアっぽい。

 地のところで住み着くというのはイタリアもギリシャも曽根も同じで面倒なこともいろいろあるが、好き勝手に自分流にやれることでもある。ただ都会的な遊びができないだけのことである。ここまでの集落になると噂話のあれこれ、世間体のあれこれももう気にしなくてもすむ境地になるのかもしれない。

アルバイトの思い出

2015年06月08日 | 日記
学生の頃、よくアルバイトをした。なぜかわからないけど、家庭教師とか事務職のアルバイトを敬遠した。性格によるものだろうか。
 中学を卒業して、鈴鹿サーキットに三田明やいしだあゆみが来るというので、市内の缶詰工場でアルバイトをした。僕は記憶力が悪い。しかしそれぞれのアルバイトのことはよく憶えている。缶詰工場ではカキを燻製にする係員の助手をした。時々、イットウ缶(どんな字を書くのだろう。20kgの重さの缶だ)を積めた大きなトラックが入ってくると、それを冷凍庫に入れる作業を手伝う。これもしんどい温度差の作業だった。魚や貝の缶詰と果物の缶詰の工場があった。高校生の女子アルバイトはみな果物のほぅで、中卒の僕は魚と貝の担当にまわされた。日給も高校生は450円で僕は中卒なので、350円だった。これは大いに不公平というものだった。僕は蛆虫の掃除もしていた。サバを触るとかぶれて難儀した。中学校を卒業して高校に入るまでの日々なのに、とても一日が長く感じた。しかし歌謡ショーのためにはと黙々と仕事をしたのだった。

 高校に入って、夏休み、友達の兄さんが土木業をやっていた縁で、大台ケ原の小さな川に堤防を作るアルバイトをしないか、と誘われた。飯場暮らしをするという。この土方仕事はきつかった。削岩機も使ったので、
ギターを弾くこともできないくらい手がしびれた。山から山にセメントを運ぶためのロープを張るのも大変な重労働だった。優しいおじさんがいて、休日の夜、そのおじさんの一人住まいの家に誘われ、話をしたことがあった。
 盆がやってきて、その時期に台風が来た。作った堤防が流されてしまった。アルバイト料を楽しみにしていたが、友人の兄貴は払ってくれなかった。こんなことを親にも言えず、ただ大人というのはずるいものだな、と思ったのだった。今ではケツに火がついたらなんでもやるさ、ぐらいに思っているが。

  大学に入ると、靴磨き、皿洗い、ウエイター、野球場でのアイスクリーム売り、路上でのエロ映画の看板もち(サンドウイッチマン)などをした。
 宵越の金などはもたず、アルバイト代が入ってくると、さっさと美味しいものを食べたり、LPや本を買ったりした。地質調査の土のデータとりをしたこともある。レントゲン車の助手もしたことがある。ペンキ塗りもした。このペンキ塗りのアルバイトで時計を落としてダメにしてしまったが、ロンドンに行く旅費を稼いだのだった。
 総じて、一番いいのは皿洗いだった。単純で、あれこれ言われずに済む。どうやら僕は人からあれこれ言われるのに腹立たしい気持ちになる性分なんだと思う。
 ロンドンでは一切アルバイトはやらなかった。大学に戻ったときはもはや大学闘争の跡形もなく、華やいだ、ファッショナブルな学生たちが多くいた。僕は就活をすることもなく、本を読むことぐらいが楽しみの、まるで現実性のない男だった。
 以後、今日まで二度とアルバイトをしたことがない。また雇われ、使われたこともない。