っていうか働け

~誰からも愛されるエルニーニョ~

ファビョる(2)

2006-10-07 02:36:32 | Weblog
 「ちゃんと前を向け!」そう声を出しながら、私の方を向いた子供の右肩を私の左手で抑え、通常座るべき体勢での右肩の位置に押さえつけた。その瞬間、私の頭の後ろで衝撃が走った。
 「暴行だ!」片言の日本語でそう聞こえた。私は頭を抑えられ、首に腕を回され、動けない状態になっていた。すぐに電車は終着駅に到着した。「警察に突き出せ」片言の日本語でそう聞こえた。私は襟首をつかまれ、電車から下ろされた。体を押さえつけられたまま、駅舎へと歩かされた。私は駅員を呼び止め、駅員にしがみつきながらこう言った。「私の身柄は駅員が確保します。あなたは手を離してください。」ようやく、つかまれた襟首を解放され、私はひとりで歩くことができた。
 駅舎に着くなり、外国人家族は大声をあげた。「暴行だ」「息子はのどに病気がある」「あなたには子供がいないからわからない」。私は駅員にこれまでのいきさつを説明し、解決方法があるか聞いた。警察を呼ぶしかない、それが彼らの答えだった。警察が到着し、外国人家族と私はそれぞれ別の部屋で事情を聞くこととなった。
 私が簡単に事情を説明していると、相手方の話を聞いていた駅員が来てこう言った。「話し方で分かると思いますが、彼らは韓国人です。私の経験上、彼らはこのように激昂してしまうと、話が通じなくなります。教育を受けてきてないので彼らはわからないんです。ここはあなたが折れるしかないと思います。」
 警察はこう言った。「彼らはあなたが手を出したその一点だけを言っている。そこだけを取り上げれば、暴行罪であなたを逮捕することもできる。顔で笑って心で泣いて。ここで争ってもあなたには何の得もない。大人になって謝るべきだと思う。」
 私は悩んでこう言った。「何が社会正義なんですかね。」

 駅舎に着いてから30分は経っていると思うが、隣の部屋では韓国人夫妻の怒鳴り声がまだ続いている。私を拉致しここに連れてきたのは彼らであり、私から彼らへは何の要求もない。だが私が何をしたと言うんだ。電車内でマナーを守らなかった者に、少し強く苦情を言っただけだ。それに対する彼らの対応も正当な範囲を超えていると言える。そのことを全く意識せず、ほんの一部分の私の不適切な行動を、声を荒げて糾弾し続ける彼らに、どうして私は謝らなければならないんだろうか。
 確かに警察は私を暴行罪で逮捕することができる。警察には大きな裁量が認められており、極論すれば、手続きさえとれば、いつでも誰でも逮捕することができるといってもいい。逮捕はできる。しかし起訴はできないだろう。マナーを教えようとして手で体を押さえた者が暴行罪で有罪となる、そんな判決を望めるはずがない。勝ち目のない裁判は、検察はやらない。起訴はしないだろう。起訴にならなければ、裁判で私の正しさを訴えることもできないし、国家賠償法による補償もない。23日間拘束され、私が苦しむだけで終わる。
 しかしマスコミにリークすればどうだろう。「心の東京ルール」で他人の子どもでも叱ろうと言ったのは東京都だ。都知事が強く推していた施策だ。それを都の職員が実践し、都の警視庁がその職員を逮捕する、マスコミは面白可笑しく書き立てるだろう。都民はどう思うだろうか。コメントを求められて、都知事は警察と私のどちらの肩を持つのだろう。ここまでくれば私の勝ちだな、そう思ってしかし何か違うと感じた。私は何が欲しかったんだろう。

 その日は平凡な朝で、電車の座席に座れたことを感謝し、ゆっくりと、少しうとうとしながら通勤することが幸せだった。今朝の幸せは例の子供に奪われてしまったけど、また明日以降手にすればよい。
 私は社会人だから、組織が必要とするならいつでも頭を下げることができる。プライドなくいつでも頭を下げることができる。それが私のプライドでもある。しかし、今回頭を下げて得られるものは、この場を解放されることだけだ。失うものは、電車の中でマナーを守らなければきつく叱られるという社会常識だ。何が社会正義なんだろうか。私はどこまで体を張って社会正義を守るべきなのだろうか。どうする?どうすんのよ、オレ!つづーく。