Q 今日の君が代訴訟のですね、最高裁判決が出まして、教職員の起立斉唱を職務命令で出すということが合憲であるというふうな判断だったんですけど、まさにそういう条例案を出している知事にとって、見解とか感想とか…。
A 職務命令が合憲であるというのは、僕もそう思ってましたんでね。日弁連の弁護士会の会長声明では違憲だ違憲だって言ってますけども。入学式や卒業式で君が代を斉唱するときに起立を求める、そういうことは思想良心の侵害には当たらない、憲法違反ではないというところは、最高裁のきちっとした判断が出たというふうに思ってます。ただ、判決を見ますと、やはりこれは思想良心の自由にも、間接的にも影響しうるという、きちんとした最高裁の、司法の見解が出ていますので、教育委員会が、その教育現場で職務命令を出す際には、そこは慎重にね、この最高裁の判決が出たからといって、なにか金科玉条のごとく、何でもかんでも職務命令だというわけには、多分いかないと思います。間接的にも、影響があるということもしっかり踏まえて、教育委員会で現場の指導、マネジメントをしっかりやってもらいたいと思いますね。
Q 閉会日も控えていて、こういう判決が非常にタイムリーに出たことで、理解も得やすくなるというか、このへん影響はどういうふうにお考えですか。
A いや、これは逆じゃないですか。最高裁でこういう判断がしっかり出たんだから、もう職務命令でいいじゃないかと、条例まで作る必要ないじゃないかという議論になってくると思うし、おそらく世間も、最高裁もここまで言ったんだから、条例であえてやる必要ないじゃないの、という世間の流れに僕はなるというふうに思ってますけど。まあその世間の流れというのはメディアはじめ、コメンテーター、そういう人たちのロジックからいけばそうなるだろうし。そういう見解がいろいろ出ると、有権者の皆さんも、維新の会そこまでむきにならなくてもいいんじゃないのというような流れになるかと思いますね。
Q 知事としてはちょっと懸念されてるということですか。
A いや、懸念ということではなくて、そういう見解が出てきたときに、しっかり維新の会としては、それでも条例が必要な理由をね、しっかりと説明しなければいけないと思ってますね。最高裁のこの判決が出たから、だから条例が必要なんだというような、こういう短絡的なロジックを使うと、支持はなくなると思いますよ。かえってこの判決が出たがゆえに、条例までは必要ないじゃないかという有権者の素直な気持ちに対して、維新の会は、より条例の必要性について丁寧に説明しなきゃいけないと思ってますけどね。
Q その場合どういうふうな説明の仕方がですね、一番適切だとお考えですか。
A いや、それはもうこれまで繰り返し言ってますけれども、きちんとできてたら問題ないんです、これは。2002年に指導しはじめて、9年間、指導し続けた結果でも、まだその職務命令に違反する職員がいるということと、それから重要なことはね、職務命令はこれ合憲だっていうふうになりましたけど、職務命令を出すかどうかがすべて教育委員会サイド、特に教育委員会事務局の裁量に委ねられてるというところが問題なんですね。職務命令が合憲だから、だから今回の条例正しいんだって、そういうロジックじゃないです。職務命令が合憲である、そして慎重に内心の自由、思想良心の自由に間接的にも影響しうるということですから、そこは現場のマネジメントとして慎重にやらなきゃいけない部分もあるかと思いますが、そのような行政行為について、やっぱり政治が一定の規範を立てるというところが、今回の条例の一番重要なところでしてね。維新の会が制定を目指している条例によって、今度は教育委員会がその趣旨を踏まえて、この最高裁の判決の意見も踏まえて、現場のマネジメントをしていくという、それが僕は政治行政のあるべき姿だと思ってますから。そういう意味では条例は、なおさら必要だというふうに僕は思ってます。あとはもう、議会でも答弁しましたけどもね、先生に求められている、世の中から求められているものが、大きく今、変化しようとしているその時代認識を持つかどうかっていうところで、完全なる個人商店の職業から、組織性を、やっぱり今持っていかなければいけないこの教育現場に対して、君が代の起立斉唱の職務命令以外にね、君が代の起立斉唱の職務命令っていうのは職務命令の一態様ですけども、それ以外の職務命令にもしっかり教育現場はその職務命令を受けて、組織として動かなきゃいけないんだよという、そういう新しい教育現場の時代の変化の中では、この条例、今維新の会が提出している条例は必要ですね。だからそういうことをしっかり、丁寧に説明しないと、この判決が出たからただちにこの条例が必要なんだって、それは逆でしょうね。
Q 今のところ他会派はかなり反発というかですね、条例化する必要があるのかというような意見も多いですけど、維新単独でも可決すべきだっていうふうに知事はお考えですか。
A いや、それはもう議会の判断ですけども。だからこれは、そういう思想良心の自由とか、これまでの君が代の起立斉唱の、いろいろな教育現場とのトラブルといいますか、そういう問題ではなくてね、教育行政が今ここで大きく、時代の変化と共にね、今までの教育行政っていうものに変化が求められてるという、そういう時代認識を持つかどうかの話ですから。先生は先生で、全人格的な職業として、子どもと向き合って、個人商店的に全裁量をもって仕事にあたるっていうのは、かつてはそれで全然問題なかったんですけども、今の時代は、そういう全人格的な職業と共に、やっぱり一定の組織性をもつというところが、これからの時代必要になってくる、もうそこに尽きますね。そういう感覚をもつか、これまでの先生像、高度成長時代の教師像、全部自由なんだ、裁量なんだ、教育の現場っていうのはもうとにかく自由なんだと、それが教育なんだというような考え方に立つかどうか。そこだと思うんですね。そんな細かな話ではないと思いますよ。だから僕、教育行政についてはやっぱり一定の組織性を持たなきゃいけないっていう、そういう方向になれば、校長人事のやり方とか、校長にどういう権限を持たすのかとか、大きく教育現場がこれで変わっていくことになりますんでね。僕はやっぱり教育行政、教育現場、特に学校は一定の組織性を持っていかないといけないと思ってます。
Q 今回の規範的な条例とは別で、次の9月目指して、処分のほうの条例で、今判決の補足意見で、制裁手段としての懲戒処分を設ける方向っていうことも、必要性合理性が認められるっていう意見がある一方で、抑制的であるべきだっていう…
A そうですね。ですから、9月に、今度作らなければいけない条例というものは、君が代の起立斉唱に関する職務命令違反だけをターゲットにした条例ではありません。これは公務員全般、特に教員が、これからは一定の組織性を持たなければいけないというそういう大きなね、時代認識のもとに、教育現場に職務命令を、教育現場において職務命令にどれだけ重きをおかなければいけないのかっていう観点から、この処分の基準は定めていきますから、君が代の起立斉唱だけをターゲットに絞ったような、そういう枠にはしません。校長を中心に、学校マネジメントができるような、そういう大きな理念のもとでの条例ですから。君が代の起立斉唱だけの話ではないですから。だからそこは、職務命令に繰り返し違反する教員に対して、どういうステップを踏みながら、当然間に、研修指導っていうものも当然入れてくるとは思うんですけども、そういう研修指導っていうものを入れてもなおその職務命令に違反する場合には、それは内心の、思想良心の自由とは別にね、組織の体制を守るという観点から、しかるべき処分になると思いますよ。ですから、今回の最高裁の判決のとおり、思想良心の自由を間接的にもね、思想良心の自由に間接的にも影響があるんだというようなここは思いですから、その部分については十分協議したうえで、あくまでも、職務命令を繰り返し繰り返し違反して、研修指導をやったとしてもなお繰り返すっていうときには、これは最高裁の今回の判決の中でもね、内心の自由というところが外部に漏出した、まさに外部的な行為になった場合には、その外部的行為っていうものは一般の社会規範とね、抵触した場合にはそこは制約されるんだと、そちらの理屈で処分をしていくと。ですから、君が代のこの起立斉唱に関して職務命令を出す、だけどそれを繰り返し違反して研修指導を行ってもなお繰り返すっていうのは、もうその時点でね、内心の自由から離れて、一般の社会的な行為というところまできた場合にね、それが組織のルールに違反する場合には僕はしかるべき処分ができると思いますけど、そこはバランス取ってしっかりやっていきます。内心の、特に思想良心の自由に影響が及ばない仕組みをね、しっかり考えていきたいと思いますけどね。
Q 処分条例自身を、今議会に、日の丸だけには限らないってさっきおっしゃったんですけど、一緒に処分条例も、この議会に提出するっていう選択肢っていうのは、知事の頭の中では当初から…
A ないです、ないです。それはもう身分にかかわることですから。これはしっかり慎重に考えて、議会とも大いに議論しなければいけませんから。この短時間で勝負をしなければいけない今議会で出すってのは、そりゃもう横暴極まりないですからね。ですから、職務命令違反がね、社会行為として、社会的な外形的行為としてね、組織から退場してもらう、それはどういう場合なのかっていうのは、これは慎重に考えなければいけないですから。君が代の起立斉唱の問題とは全く切り離して、要は、組織の体をなしていない、組織の一員としてふさわしくない行為はどういうことなのかってことを、しっかりとこれは考えると。これは地方公務員法上、教員の場合には地教行法なんでしょうけど、処分については、戒告とか、停職とか、免職にできるっていうふうになってるだけでね、その基準が何もなく、行政の完全な自由裁量になってますから、そこに政治が一定の枠をはめるっていうのは、僕はこれは納税者として、納税者の思いとして、当然だと思いますけどもね。行政組織に、その処分すべて裁量に委ねるのではなくて、こういう一定の基準でやってくれよと、税金払って、そこで給料出てるその組織が、民主的なプロセスのもとで発せられた職務命令をね、繰り返し繰り返し違反する場合にはそれは税金払って給料払いたくないっていう納税者のほうが圧倒的に多いと思いますけどね。やっぱりこの職務命令ってものが民主的なプロセスに基づいてる職務命令だってところを、職務命令に違反する先生方はどう理解してるのかっていうね。内心、思想良心の自由だってことは言うのはいいんですけども、それは不起立で表現しなくてもね。デモをするなり、本を書くなり、ホームページに書くなり、それこそルールに基づいた政治活動で、公務員としていわゆる政治活動ってのはある程度の制限がありますけども、しかしそれは表現の自由のもとでね、いくらでもやったらいいんですよ。しかしそれを不起立っていう実力行使でやるっていうことはね、それは僕は表現の自由でもなんでもないと思ってますんで。そんなことを教育現場で許してしまったら子どもたちに、嫌なことは実力行使でやれってことを教えるようなことになってしまうんでね。もし嫌なことがあれば、世の中を動かしていくためにはそりゃ大変な労力があるけれども、表現で変えていくっていうね、そういうことをしっかり子どもたちに教えなきゃいけないですから。まあ、処分ルールについては、ここは慎重に、最高裁の理由が、非常に、やっぱり重みのある文章になってますから、思想良心の自由を間接的にでも影響を与えないようなかたちで、まあ間接的には影響を与えてしまうのかな、直接的に影響を与えないようなかたちでね、あくまでも組織の中での社会行為を規制するというようなかたちでの処分ルールを作っていきたいですね。