e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

1999年9月30日の臨界事故

2011年03月13日 | 自宅から東へ
1999年9月30日(木),茨城県東海村で臨界事故のあった日,
私は茨城県筑波市にいたのです。

@東海村のウラン加工施設で放射能漏れ、3人被曝(毎日新聞)
30日午前10時半ごろ、茨城県東海村の核燃料製造メーカー「ジェー・シー・オー東海事業所」のウラン加工施設で、施設から放射能が漏れ出す事故が発生。従業員3人が被ばくし、水戸市の国立水戸病院に搬送後、専門的医療の出来る千葉市の放射線医学総合研究所に移された。1人が重症、2人は軽症だという。
茨城県警ひたちなか西署の調べでは、被ばくしたのは常陸太田市山下町、JCO社員、大内久さん(35)▽日立市田尻町、同、篠原理人さん(39)▽ひたちなか市足崎、同、横川豊さん(54)――の3人。国立水戸病院によると、3人の意識は正常だが、うち2人は被ばく量が多いという。
同事業所によると、事故は核燃料を製造する施設「転換試験棟」で発生。容器から原料のウランが漏れ、青い火が出たという。転換試験棟にある放射線モニターが異常を感知し、警報が鳴って事故が判明した。同署によると、作業員3人はウラン溶液を蓄電槽に充てんする作業中に突然、倒れたという。
茨城県原子力安全対策課によると、事故直後、同棟の南西にある敷地境界で放射線レベルが通常の約4200倍に達した。また現場から南東約2キロの舟石川測定局で同約10倍、さらに那珂町の門部測定局では同7倍に上昇した。両測定局での放射線レベルは同10時38分には通常レベルに戻った。また同事業所が午前11時45分ごろ、隣接する道路で独自に測定したところ、放射線値は1万倍のレベルだったという。
東海村は周辺3世帯に避難勧告を出した。また現場周囲500メートルは立ち入り禁止で、県道常陸那珂港山方線の二軒茶屋交差点から那珂町にかけての3キロにわたり通行止めとなった。午後3時には同村が改めて、現場半径350メートル内の約50世帯の避難を決めた。
県は、臨界事故の可能性があるとみて、原子力安全対策課、公害技術センターの職員を派遣し、詳しい原因と周辺の放射能の影響の調査を急いでいる。
原子力資料情報室は「ウラン燃料を加工している工場で、臨界事故を招いたとしたら例がないのではないか。ウランを加工する際にはガスの状態から個体にする作業がされるが、臨界事故を招かないよう部屋の構造に工夫がされている。何らかの爆発かシステムに異変が起きたのではないか」と話している。
JCOは旧社名、日本核燃料コンバージョン。6フッ化ウランを原料に、二酸化ウランに転換、加工して電力会社に納入している。
この事故を受け、現場から1・5キロ離れた同村立石神小(茂木武幸校長、児童318人)は、体育の授業を取り止め、校内に児童を待機させる処置を取っている。この日の下校時間は3時半となっているが、同校長が中心になって情報収集に当たっている。
事故が起きたウラン加工施設のジェー・シー・オーは、六フッ化ウランを原料として、二酸化ウラン粉末に転換、加工のうえ、成型加工メーカーに納入。工場の許可能力としては、年に718トンウラン。
同事業所は、1969年に事業許可を得て、73年3月操業開始した。敷地内には、第1加工施設棟、第2同、転換棟、品質検査棟、製品保管棟、工作棟などがある。従業員は約120人。
東海村では1997年3月にも、動力炉・核燃料開発事業団(当時)の東海事業所再処理工場の「アスファルト固化処理施設」で火災と爆発が発生し、作業員37人が被ばくしている。固化処理施設は、使用済み核燃料の再処理の過程で発生する低レベル放射性廃液とアスファルトを混ぜて固めていた。
◇臨界事故◇ 一定量以上のウラン235などに中性子が衝突すると、核分裂反応が持続的に進行するようになる。この状態を「臨界」といい、これに伴う爆発などで発生した事故を臨界事故と呼ぶ。原発で使われる核燃料の核分裂性ウランの割合は3~5%以下と低く、この状態では自然に臨界状態には達しない。しかし核燃料の製造過程などで何らかのトラブルが発生し、核分裂性のウランが一定量以上集まると核分裂反応が急速に進む恐れがある。 原子力資料情報室は「ウラン燃料を加工している工場で、臨界事故を招いたとしたら例がないのではないか。ウランを加工する際にはガスの状態から固体にする作業がされるが、臨界事故を招かないよう部屋の構造に工夫がされている。何らかの爆発かシステムに異変が起きたのではないか」と話している。