e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

夢をかなえるゾウ

2012年08月12日 | 読書
写真は、大阪の通天閣で出逢った『夢をかなえるゾウ』。
『夢をかなえるゾウ』(ゆめをかなえるゾウ)とは、水野敬也の著作による書籍である。
飛鳥新社より2007年8月29日に刊行。
分類はビジネスマン向けの自己啓発本であるが、その内容からファンタジー小説と紹介されることもある。

主人公はどこにでもいる普通のサラリーマン。彼はこれまでにも自己啓発の本を読んだり、自らを変えようとしていたが、三日坊主の性格が災いして失敗し続けてきた。そして、会社の先輩の友人・カワシマ(実際には名刺交換しただけ)が開いたパーティーに出席した彼は、そこで有名人やアイドルの友達が談笑しているのを目の当たりにし、自分の住んでいる世界との差を痛感する。その夜、彼は泥酔したままインド旅行で買った置き物に「人生を変えたい」と泣き叫ぶと、次の朝、枕元に関西弁を話す謎の生物が。それは置き物から化けて出てきた神様・ガネーシャであった。主人公はガネーシャに振り回されながらも、夢を成すためにガネーシャの課題を行うことになる。

本書では「ガネーシャが与えた課題を実践し、身につくまで継続することが大切である。」 と謳っている。自分が変わることに期待しているうちはいいが、時間がたつと「自分は変われない」という考えになり、それがいつまでも続いていくのが変われない理由だとし、継続した実践の大切さを強調している。

ブック○○半額セール

2011年12月18日 | 読書
昨日、この冬に炬燵で読む本を探しにブック○○へ行って驚いた!
駐車場がいっぱい、店内が凄い人!
なんと・・・この日だけの“半額セール実施中”!
私も、日頃買えない値段(105円コーナー以外)の本を買って帰りました。
これだけ買って約1500円。

ガラガラ福引きは3回やって、全部ハズレやったけど、
年末に得した気分になれました。

翔ぶが如く

2011年12月17日 | 読書
これから“司馬遼太郎”を探しに、
ブック○○に出かける予定。
まだ読んでない本に出会えるとええなぁ~
寒い冬は、お炬燵で読書や・・・

空港読書

2011年12月02日 | 読書
鹿児島への旅。
あの日は,列車や空港バスの乗り継ぎが上手くいきすぎ,予定より伊丹(空港)に早く着きすぎた。
時間潰しに展望デッキに上ることにした。

展望デッキには,小さな子どもを遊ばす若い母親。
出発を待つ人。
見送りに来た人 etc・・・
天気が良かったので,私はひとり“空港読書”。


ガラスのうさぎ

2011年11月20日 | 読書
この夏のこと、ゴミ置き場で“ガラスのうさぎ”を見かけた。
誰かが燃えないゴミ(ビン類?)に出したのが、なぜか回収されずに残された様子。
“ガラスのうさぎ” 、“ガラスのうさぎ”・・・
“ガラスのうさぎ”って、なにかあったよなぁ~
@ガラスのうさぎ
児童文学作家・高木敏子によるノンフィクション文学である。作者自身の経験を元に執筆され、戦争で家族を失った少女を描いている。
大東亜戦争(太平洋戦争)末期、東京を標的としたアメリカ軍による大規模な無差別爆撃が繰り返し行われたが、本作では1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲(東京・下町に対する大規模な空襲)が扱われている。
主人公である敏子の母と妹を奪った空襲の焼跡には、ガラス工場を営んでいた父が作ってくれたガラス細工のウサギが歪んだ形でありながら残っていた。そして、その父も疎開途中の神奈川県二宮町で、アメリカ軍機「P51ムスタング」の機銃掃射に遭って、敏子の目の前で命を落としてしまう。

大津皇子の歌

2011年10月30日 | 読書
・万葉集巻第2 105~106番(姉の大来皇女に会うために伊勢神宮に下向した時に大来皇女が作った歌)
o わが背子を大和に遣るとさ夜深けて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし
o 二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ
・万葉集巻第2 107~109番(石川郎女との相聞歌)
o あしひきの山のしづくに妹待つと 我立ち濡れぬ山のしづくに
o 吾を待つと君が濡れけむあしひきの 山のしづくにならましものを
o 大船の津守の占に告らむとは まさしく知りて我が二人寝し
・万葉集巻第2 163~164番(処刑後、大来皇女が退下・帰京途上で作った歌)
o 神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに
o 見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに

・万葉集巻第2 165~166番(二上山に移葬されたとき、大来皇女が作った歌)
o うつそみの人なる我(われ)や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む
o 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに

コロコロコミック発売中!

2010年10月06日 | 読書
1969年12月、小学館の学習雑誌(『よいこ』『幼稚園』『小学一年生』~『小学四年生』)にて連載開始。
1977年にはドラえもんをメインに創刊されたコロコロコミックでも大々的に連載が始まる。
長年に渡ってドラえもんはコロコロ誌上でも破格の扱いを受け、劇場版新作長編アニメが上映される前になるとその原作となる漫画(大長編ドラえもん)も掲載していたほどであった。
1996年に原作者の藤子・F・不二雄が逝去したため、真の最終回が描かれないままとなってしまった未完作品である。

お~い! ドラえもん
私,夢が欲しいなぁ~!

司馬遼太郎『街道をゆく1』

2010年08月30日 | 読書
今日も雨。



午後から義母の見舞いに出かけた。



私は,セカンドバッグに本を1冊入れて出かけることにした。



司馬遼太郎『菜の花の沖』をやっとのことで読み終えたので,新しい本を探した。



買いだめてあった本から選んだのが,司馬遼太郎『街道をゆく1』。



義母と家人がいろいろ話している横で読み始めて驚いた!



タイトルが「甲州街道 長州路ほか」となっていたので気づかなかったけど,



P43からは「竹内街道」について書かれてあり,



「大和石上へ」「布留の里」「海柘榴市」「三輪山」と,



自宅から義母が入院している所までの道中にある地名が並んでる!



今,それら前を車で通ってきたとこ!



さらに後半には,「葛城山」「竹内越」。



昨日までのブログに登場していた二上山や當麻のごく近くのことが書かれてる!



すべて私の興味・関心ある場所ばかり・・・



夢中になって読みふけった。



義母は,本を読む私を見て,



「本が好きやったんやねぇ~」って感心してた。



「写真;二上山と蕎麦の花」




大和豊年 米食わず

2010年08月30日 | 読書
明日,田植えなので,奈良盆地に多い「ため池」のことをブログに書こうと,ネット検索してたら,高校時代の恩師の文に出会った。

恩師には,部活顧問としていろいろお世話になった。

高校1年では,夏山合宿で剣岳・立山に同行してくださった。

高校2年の3月,奥吉野の山(弥山→大峰山;奥駆道)に登って突然の豪雪に遭ったとき,先生は心配して山麓まで来て下さった。

恩師は高校を退職後,県内の大学で教えておられたのだ 。

今日は,恩師の文を載せようと思う。

【ため池のある風景-それは大和の風物詩の一つでもあり ます。海なし県の大和で、満々と水を蓄えたため池の水面に、こもりくの青垣の山々がその影をおとす光景は潤いのある癒しの空間を演出しています。

ご承知のとおり、奈良盆地では古くから米作りが盛んに行われてきましたが、元来、米作りには豊富な日照と灌漑用水が欠かせません。米作りに必要な降水量は1800ミリ以上といわれますが、寡雨地帯である瀬戸内気候帯の東端に位置する奈良盆地では1300ミリ程度しかなく、恒常的に灌漑用水は不足している訳です。

「大和豊年 米食わず」という諺がありますが、これは大和で米作りに必要な降水量が確保できて豊作となった年は、大和以外の土地では雨が多すぎて洪水等の被害をうけ凶作になるという意味です。また「日照り一番 水 つき一番」とも言われてきましたが、これは奈良盆地の河川が最終的にはすべて大和川一本に集水されるため、盆地内の各河川が合流する地域では河川の氾濫によって頻繁に洪水が発生したこと、加えて盆地内のいわゆる外水河川が形成する天井川の堤防がたびたび決壊して「水つき」をひき起こしたことを表す言い伝えです。早魃(日照り)と洪水(水つき)が大和の農民を苦しめてきたということですね。人々はこうした水とのたたかいの中で営々と米作りを続けてきた訳ですが、水不足を大きく支えてきたのがため池です。

奈良盆地とその周辺の山麓には、かつて一万三千余個のため池がありました。古くは「古事記」や「日本書紀」等にもすでに十数個のため池の存在が記されていますが、その多くは江戸時代から明治期にかけて築造されています。そのため池は概ね次の二つのタイプに分けられます。

一つは山麓の谷頭に堤防を築いて貯水するタイプで、古くは橿原市の益田池(廃池)、新しくは桜井市の倉橋のため池や天理市の白川池のような大規模なものもありますが、馬見丘陵や盆地周辺の山麓に多く分布するいわゆる「坪池」と言われる小規模なため池群です。いま一つは、条里制地割に基づいて作られたと考えられる国中(くんなか)に卓越して分布するため池で、奈良市南部の広大寺池や田原本町の唐古池のような大規模なため池もありますが、その多くは一ヘクタール前後の水深の浅い「皿池」と呼ばれるため池群です。】



読み終えて,久々に先生のお墓にお参りせんなあかんなぁ~って思った。



やっぱりお供えは,先生が大好きやったお酒やろか・・・



「写真;畝傍山近くのため池(甘樫丘より)」



有吉佐和子『紀の川』

2010年08月30日 | 読書
あの日,真田庵周辺を散策したあと,自宅でプリントアウトした地図を持って約3時間のハイキングコースを歩き出した。

次に目指したのは,世界遺産「慈尊院」。

九度山の商店街?の町並みが切れるところが丹生川。

またまた「丹生」との出会いやんか!

川には鯉のぼりが泳いでいた。

全国各地でよくある光景?

河原には車がたくさん停まっている。

きっとGWで,水遊びとバーベキューでも始めるんやろか?

この丹生川は,目の前で大きな「紀ノ川」と合流する。

この「紀ノ川」,和歌山県では「紀ノ川」と呼ばれているが,上流の奈良県内では「吉野川」と呼ばれている。

私には「吉野川」の方に馴染みが・・・

川を横に眺めながら「慈尊院」へと歩いた。

「慈尊院」では,塔?の修理中???

その「慈尊院」の境内で見た有吉佐和子『紀の川』の解説板。

勉強不足で,私にはその内容が???

暫しの間,その解説板の前に立って読んでいた。

また課題図書が1冊増えたなぁ~

※慈尊院
千百六十有余年前、弘法大師が高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当るこの地に、表玄関として、伽藍を草創し、高野山一山の庶務を司る政所を置き高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場所とされた。
大師の御母公が,香川県善通寺より高野山上へ大師を尋ねようとされたが、大師は、自ら七里四方を女人禁制としておられたので、山麓の当院へ迎えられた。
大師は、月に九度は必ず高野山上より二〇数キロの山道を下って、母公を尋ねられたので地名を「九度山」と称すそうだ。
ご母公がご本尊弥勒菩薩を尊崇せられた功徳により、入寂の砌、ご本尊様に化身さられたと言う信仰となり女人の高野参りは、当院までということも相俟って、子宝安産、育児、授乳等を願い、「乳房型絵馬」を奉納して祈願した。

「写真;慈尊院にあった乳房型絵馬」


司馬遼太郎『燃えよ剣』

2010年08月30日 | 読書
昨夜,司馬遼太郎『燃えよ剣』を読み終えました。

土方歳三は,函館で散って逝きました。

十数年前に訪ねた冬の函館・五稜郭を懐かしく思い出していました。

『竜馬がゆく』でもそうでしたが,幕末,新撰組の時代。

よく京都の「壬生(みぶ)」という地名が登場します。

(「壬生」は,新撰組の「屯所」があった所。)

この季節,我が家の畑に「壬生」という名の「菜」があります。

「壬生菜」の漬け物を食べると,「新撰組」の味がするような気がします。


※壬生菜
壬生菜は、江戸時代後期にみず菜の自然交雑で出来たといわれています。現在の中京区・壬生寺付近で多く作られていたことから、壬生菜と呼ばれるようになったのです。
京都では、みず菜と壬生菜をあまり区別することがないために、別名「丸葉みず菜」と呼ばれることもあります。
別名からもわかるように、みず菜と大きく異なるところは葉の部分で、細長く丸いヘラのような形をしています。また壬生菜にはほんのりと辛子の風味があり、そこがまた人気の野菜なのです。
京都では、みず菜と同様に鍋ものや炒めもの、和えものなど、さまざまな形で食べられており、特に独特の辛子の風味を生かす軽い塩漬けや「お鏡開き」の際には、この壬生菜をすまし雑煮に入れるのも風習のひとつとして残されています。また昔から漬物の中の「千枚漬け」に添えられています。

「写真;我が家の壬生菜」




山岡荘八『春の坂道』

2010年08月30日 | 読書
柳生の芳徳禅寺は小高い丘の上にあった。



その丘から柳生の里を見渡すと、大きな鉄筋の建物が見えた。



たしか、あの建物は中学校のはず。



その向こうの山際に小さく見えるのが「家老屋敷」?



立派な石垣やなぁ~



以前に見学したから、今回パスした。



家に帰って調べてみると、知らないことが分かった。



この「家老屋敷」は、



徳川幕府の兵法指南役として領地を離れることの多かった柳生藩主に代わって柳生藩南都屋敷を預かり、藩の財政立て直しを行った家老小山田主鈴が隠居後に暮らした屋敷だという。



大きな石を組み上げた豪奢な石垣は、天保12年(1841)に尾張の石工が築いたもので、屋敷は嘉永元年(1848)に建てられた。
昭和39年には作家の「山岡荘八」氏が買い取り、柳生宗矩を主人公にしたベストセラー小説『春の坂道』の構想を練ったといわれている。

前の家主が、「山岡荘八」とは知らんかったなぁ~



今、私は歴史小説に夢中!



司馬遼太郎の次は「山岡荘八」を読むぞ!



「山岡荘八」と云えば『徳川家康』。



でもその前に、この柳生が舞台で大河ドラマになった『春の坂道』を読まんとあかんよなぁ~



「写真;旧柳生藩家老屋敷」




司馬遼太郎『竜馬がゆく』

2010年08月30日 | 読書
松本清張『火の路』を読み終えた。



次は何を読もうかと、古本屋へ。



司馬遼太郎の本を105円コーナーを探すが、求める本はなし。



司馬遼太郎の本は、よく売れるのか?



一般の価格の棚で、探していた司馬遼太郎『竜馬がゆく』が並んでいるのを発見!



しかも本日まで、250円均一セール中という。



これまでに1,3,4巻を買っていたので、残りの2,5,6,7,8巻を買うことにした。



これらの本には、1冊350円の値段がついていたので500円もお得!



そして来年の大河ドラマも「坂本竜馬」。



買って帰りすぐに読み始めた。



1巻は約430ページあったが、ワクワク引き込まれてあっと言う間に読み終えた。



いつぞや宴会で行った談山神社の前の多武峰観光ホテル。



そこに司馬遼太郎の書『竜馬がゆく』が掛かっていたのを思い出した。



彼が生きている間に彼の本を読み始めておいたらよかったなぁ・・・



@司馬遼太郎
本名は福田定一。「司馬遼太郎」はペンネームであり、敬愛する中国の史家・司馬遷に「遼(はるか)に及ばず」という意味を込めてつけられたものだとか。大阪の薬局の二男坊として生まれた福田少年は、国立大阪外国語学校の蒙古語科に入学。在学中に学徒動員で中国東北部の戦車部隊に配属され、戦争の悲惨な現状を身をもって体験。そのことが後の創作活動に大きな影響を与えていく。復員後は大阪や京都、神戸で新聞記者として活躍。そこで出会った人々やそれぞれの土地で知った歴史や風土に対する見聞を綴ったのが『司馬遼太郎が考えたこと』だ。

「写真;多武峰観光ホテルで見た『竜馬がゆく』」


松本清張『火の路』

2010年08月30日 | 読書
今読んでいる小説は、生誕100年で話題の松本清張の『火の路』。

昭和48(1973)年6月から翌年10月まで朝日新聞朝刊に連載された作品で、連載時の原題は『火の回路』。



飛鳥、奈良時代の日本に古代ペルシア文明がかなり影響を与えたと見る歴史研究家の女主人公が、イランを訪ねる物語。



奈良県飛鳥地方には酒船石(さかふねいし)はじめ猿石、益田岩船(ますだのいわふね)といった謎の石造物がある。



清張は飛鳥時代に渡来したペルシア人が遺したものと考え、『火の路』の構想を得たらしい。清張も執筆前イラン取材 を行ったというから、女主人公・高須通子の見解と感想は全て清張が言おうとしたことなのだろう。



先日、私が訪ねた飛鳥の「石神遺跡」は、飛鳥寺と水落遺跡の北に接している。
『火の路』にも登場する「須弥山石」・「石人像」 が、ここから明治時代に掘り出されたことで有名である。
このあたりは飛鳥浄御原宮の候補地となっており、1981年からの調査で、7世紀中頃から8世紀初めの建物跡や溝などがみつかり、隣に時計台がそびえていた斉明天皇の時代には、整然と並ぶ長い建物群、石敷をもつ立派な井戸、石敷広場などがあり、饗宴の施設と考えられているという。



私はこの本を読んで、日本書紀の斉明天皇の条に出てくる「両槻宮」の場所が知りたくなった。



そしてもう一度「益田岩船」を見たいと思った。



大きな謎が1つ残った。



それは、清張はこの小説に(明日香村の隣りの)高取町にある「人頭石」のことを書かなかったのだろうか?

「人頭石」を一目見れば、この石の顔が「ペルシア人」だと思うのに・・・


「写真;飛鳥・石神遺跡」



司馬遼太郎に夢中

2010年08月30日 | 読書
「読書の秋」です!



今、司馬遼太郎に夢中です。



今年の初めに東大阪にある司馬遼太郎記念館に行ってから、



彼の書斎にあったソファーが目に焼き付いて・・・



それに記念館にあった圧倒されるような蔵書の数。


少しでも彼の本を読んでみたいと思ったのです。



それ以降、古本屋に行くと必ず彼のコーナーを覗き、



未読の本があれば購入することにしています。



でも難しいのは、どの本の何巻を既に買っていて、



何巻はまだ買っていないのかが分かりにくいこと。



それで、手帳にメモして確認するようにしているのです。



でもねぇ~古本屋の105円コーナーでは全巻揃わないんですよ・・・






今日,病院で司馬遼太郎の『世に棲む日日』を読み終えた。


全4巻,ワクワクしながら読むとアッという間やった。


「おもしろき こともなき世を おもしろく」という言葉を残して,高杉晋作は4巻の290頁でその生涯を閉じてしまった。


なぜか,今年1月に山口を旅した時に秋吉台の近くで見た「黄色いガードレール」を思い出した。


落ち着いたら山口県萩をゆっくり旅したいと思う。


筆者が書いた「文庫版のためのあとがき」の最後の5行が心に滲みてきた。


「そう思い決めた場所から,この 『世に棲む日日』を書きはじめた。とくに,人間が人間に影響をあたえるということは,人間どういう部分によるものかを,松陰において考えてみたかった。そして後半は,影響の受け手のひとりである高杉晋作という若者について書いた。『世に棲む日日』という題は,高杉の半ばふざけたような辞世の,それも感じようによっては秋の空の下に白い河原の石が磊々ところがっているような印象からそれをつけた。」

司馬遼太郎記念館の彼の書斎の光景が浮かんできた。


人生なぁ・・・


義母には縁あって,いろいろ世話になったよなぁ~




「写真;司馬遼太郎記念館」