1999年9月30日(木),茨城県東海村で臨界事故のあった日,
私は茨城県筑波市にいたのです。
@東海村のウラン加工施設で放射能漏れ、3人被曝(毎日新聞)
30日午前10時半ごろ、茨城県東海村の核燃料製造メーカー「ジェー・シー・オー東海事業所」のウラン加工施設で、施設から放射能が漏れ出す事故が発生。従業員3人が被ばくし、水戸市の国立水戸病院に搬送後、専門的医療の出来る千葉市の放射線医学総合研究所に移された。1人が重症、2人は軽症だという。
茨城県警ひたちなか西署の調べでは、被ばくしたのは常陸太田市山下町、JCO社員、大内久さん(35)▽日立市田尻町、同、篠原理人さん(39)▽ひたちなか市足崎、同、横川豊さん(54)――の3人。国立水戸病院によると、3人の意識は正常だが、うち2人は被ばく量が多いという。
同事業所によると、事故は核燃料を製造する施設「転換試験棟」で発生。容器から原料のウランが漏れ、青い火が出たという。転換試験棟にある放射線モニターが異常を感知し、警報が鳴って事故が判明した。同署によると、作業員3人はウラン溶液を蓄電槽に充てんする作業中に突然、倒れたという。
茨城県原子力安全対策課によると、事故直後、同棟の南西にある敷地境界で放射線レベルが通常の約4200倍に達した。また現場から南東約2キロの舟石川測定局で同約10倍、さらに那珂町の門部測定局では同7倍に上昇した。両測定局での放射線レベルは同10時38分には通常レベルに戻った。また同事業所が午前11時45分ごろ、隣接する道路で独自に測定したところ、放射線値は1万倍のレベルだったという。
東海村は周辺3世帯に避難勧告を出した。また現場周囲500メートルは立ち入り禁止で、県道常陸那珂港山方線の二軒茶屋交差点から那珂町にかけての3キロにわたり通行止めとなった。午後3時には同村が改めて、現場半径350メートル内の約50世帯の避難を決めた。
県は、臨界事故の可能性があるとみて、原子力安全対策課、公害技術センターの職員を派遣し、詳しい原因と周辺の放射能の影響の調査を急いでいる。
原子力資料情報室は「ウラン燃料を加工している工場で、臨界事故を招いたとしたら例がないのではないか。ウランを加工する際にはガスの状態から個体にする作業がされるが、臨界事故を招かないよう部屋の構造に工夫がされている。何らかの爆発かシステムに異変が起きたのではないか」と話している。
JCOは旧社名、日本核燃料コンバージョン。6フッ化ウランを原料に、二酸化ウランに転換、加工して電力会社に納入している。
この事故を受け、現場から1・5キロ離れた同村立石神小(茂木武幸校長、児童318人)は、体育の授業を取り止め、校内に児童を待機させる処置を取っている。この日の下校時間は3時半となっているが、同校長が中心になって情報収集に当たっている。
事故が起きたウラン加工施設のジェー・シー・オーは、六フッ化ウランを原料として、二酸化ウラン粉末に転換、加工のうえ、成型加工メーカーに納入。工場の許可能力としては、年に718トンウラン。
同事業所は、1969年に事業許可を得て、73年3月操業開始した。敷地内には、第1加工施設棟、第2同、転換棟、品質検査棟、製品保管棟、工作棟などがある。従業員は約120人。
東海村では1997年3月にも、動力炉・核燃料開発事業団(当時)の東海事業所再処理工場の「アスファルト固化処理施設」で火災と爆発が発生し、作業員37人が被ばくしている。固化処理施設は、使用済み核燃料の再処理の過程で発生する低レベル放射性廃液とアスファルトを混ぜて固めていた。
◇臨界事故◇ 一定量以上のウラン235などに中性子が衝突すると、核分裂反応が持続的に進行するようになる。この状態を「臨界」といい、これに伴う爆発などで発生した事故を臨界事故と呼ぶ。原発で使われる核燃料の核分裂性ウランの割合は3~5%以下と低く、この状態では自然に臨界状態には達しない。しかし核燃料の製造過程などで何らかのトラブルが発生し、核分裂性のウランが一定量以上集まると核分裂反応が急速に進む恐れがある。 原子力資料情報室は「ウラン燃料を加工している工場で、臨界事故を招いたとしたら例がないのではないか。ウランを加工する際にはガスの状態から固体にする作業がされるが、臨界事故を招かないよう部屋の構造に工夫がされている。何らかの爆発かシステムに異変が起きたのではないか」と話している。
私は茨城県筑波市にいたのです。
@東海村のウラン加工施設で放射能漏れ、3人被曝(毎日新聞)
30日午前10時半ごろ、茨城県東海村の核燃料製造メーカー「ジェー・シー・オー東海事業所」のウラン加工施設で、施設から放射能が漏れ出す事故が発生。従業員3人が被ばくし、水戸市の国立水戸病院に搬送後、専門的医療の出来る千葉市の放射線医学総合研究所に移された。1人が重症、2人は軽症だという。
茨城県警ひたちなか西署の調べでは、被ばくしたのは常陸太田市山下町、JCO社員、大内久さん(35)▽日立市田尻町、同、篠原理人さん(39)▽ひたちなか市足崎、同、横川豊さん(54)――の3人。国立水戸病院によると、3人の意識は正常だが、うち2人は被ばく量が多いという。
同事業所によると、事故は核燃料を製造する施設「転換試験棟」で発生。容器から原料のウランが漏れ、青い火が出たという。転換試験棟にある放射線モニターが異常を感知し、警報が鳴って事故が判明した。同署によると、作業員3人はウラン溶液を蓄電槽に充てんする作業中に突然、倒れたという。
茨城県原子力安全対策課によると、事故直後、同棟の南西にある敷地境界で放射線レベルが通常の約4200倍に達した。また現場から南東約2キロの舟石川測定局で同約10倍、さらに那珂町の門部測定局では同7倍に上昇した。両測定局での放射線レベルは同10時38分には通常レベルに戻った。また同事業所が午前11時45分ごろ、隣接する道路で独自に測定したところ、放射線値は1万倍のレベルだったという。
東海村は周辺3世帯に避難勧告を出した。また現場周囲500メートルは立ち入り禁止で、県道常陸那珂港山方線の二軒茶屋交差点から那珂町にかけての3キロにわたり通行止めとなった。午後3時には同村が改めて、現場半径350メートル内の約50世帯の避難を決めた。
県は、臨界事故の可能性があるとみて、原子力安全対策課、公害技術センターの職員を派遣し、詳しい原因と周辺の放射能の影響の調査を急いでいる。
原子力資料情報室は「ウラン燃料を加工している工場で、臨界事故を招いたとしたら例がないのではないか。ウランを加工する際にはガスの状態から個体にする作業がされるが、臨界事故を招かないよう部屋の構造に工夫がされている。何らかの爆発かシステムに異変が起きたのではないか」と話している。
JCOは旧社名、日本核燃料コンバージョン。6フッ化ウランを原料に、二酸化ウランに転換、加工して電力会社に納入している。
この事故を受け、現場から1・5キロ離れた同村立石神小(茂木武幸校長、児童318人)は、体育の授業を取り止め、校内に児童を待機させる処置を取っている。この日の下校時間は3時半となっているが、同校長が中心になって情報収集に当たっている。
事故が起きたウラン加工施設のジェー・シー・オーは、六フッ化ウランを原料として、二酸化ウラン粉末に転換、加工のうえ、成型加工メーカーに納入。工場の許可能力としては、年に718トンウラン。
同事業所は、1969年に事業許可を得て、73年3月操業開始した。敷地内には、第1加工施設棟、第2同、転換棟、品質検査棟、製品保管棟、工作棟などがある。従業員は約120人。
東海村では1997年3月にも、動力炉・核燃料開発事業団(当時)の東海事業所再処理工場の「アスファルト固化処理施設」で火災と爆発が発生し、作業員37人が被ばくしている。固化処理施設は、使用済み核燃料の再処理の過程で発生する低レベル放射性廃液とアスファルトを混ぜて固めていた。
◇臨界事故◇ 一定量以上のウラン235などに中性子が衝突すると、核分裂反応が持続的に進行するようになる。この状態を「臨界」といい、これに伴う爆発などで発生した事故を臨界事故と呼ぶ。原発で使われる核燃料の核分裂性ウランの割合は3~5%以下と低く、この状態では自然に臨界状態には達しない。しかし核燃料の製造過程などで何らかのトラブルが発生し、核分裂性のウランが一定量以上集まると核分裂反応が急速に進む恐れがある。 原子力資料情報室は「ウラン燃料を加工している工場で、臨界事故を招いたとしたら例がないのではないか。ウランを加工する際にはガスの状態から固体にする作業がされるが、臨界事故を招かないよう部屋の構造に工夫がされている。何らかの爆発かシステムに異変が起きたのではないか」と話している。
「数馬茶屋」の南側の直ぐ奥に「鍵屋ノ辻伊賀越資料館」がある。
相手は11人だったのに,36人も切ったと云われる荒木又衛門は,その後、歌舞伎や浄瑠璃に登場して、日本三大仇討ちの1つ「伊賀越仇討」で有名になり、その仇討に関する資料を多数展示している。

なお、この界隈は度々水害に見舞われ、昭和28年9月25日の台風13号では地上から2.5mまで浸水したという。
相手は11人だったのに,36人も切ったと云われる荒木又衛門は,その後、歌舞伎や浄瑠璃に登場して、日本三大仇討ちの1つ「伊賀越仇討」で有名になり、その仇討に関する資料を多数展示している。

なお、この界隈は度々水害に見舞われ、昭和28年9月25日の台風13号では地上から2.5mまで浸水したという。
1月の伊勢志摩への旅,
二見興玉神社で「福枡」を見た。
明日は節分。
1500個全部授与されたんやろかなぁ~

@伊勢新聞の記事
伊勢市二見町江の二見興玉神社(片岡昭雄宮司)で、来月三日の節分に向けた縁起物「福枡(ます)」の準備が進んでいる。
升は木製で、十七センチ四方、深さ九センチの一・八リットル升。側面には夫婦岩や赤鬼などの絵と「家運隆昌」「商売繁盛」の焼き印が入り、内側の底面にはお多福の絵が描かれている。
二十一日はみこ四人が、ことしのえと「辛卯(かのとう)」の印を押し、升に福豆と厄よけの神札を納めて、丁寧に紙で包む作業に励んでいた。福枡の梱包(こんぽう)作業は今月末ごろまで続き、千五百個用意するという。授与は始まっており、全国の崇敬者に発送するほか、同神社が開く二月三日の節分祭まで氏子や参拝者に五千円で授与する。
節分祭は午後二時から行われ、特設舞台で豆まきや餅まきなどをする。
二見興玉神社で「福枡」を見た。
明日は節分。
1500個全部授与されたんやろかなぁ~

@伊勢新聞の記事
伊勢市二見町江の二見興玉神社(片岡昭雄宮司)で、来月三日の節分に向けた縁起物「福枡(ます)」の準備が進んでいる。
升は木製で、十七センチ四方、深さ九センチの一・八リットル升。側面には夫婦岩や赤鬼などの絵と「家運隆昌」「商売繁盛」の焼き印が入り、内側の底面にはお多福の絵が描かれている。
二十一日はみこ四人が、ことしのえと「辛卯(かのとう)」の印を押し、升に福豆と厄よけの神札を納めて、丁寧に紙で包む作業に励んでいた。福枡の梱包(こんぽう)作業は今月末ごろまで続き、千五百個用意するという。授与は始まっており、全国の崇敬者に発送するほか、同神社が開く二月三日の節分祭まで氏子や参拝者に五千円で授与する。
節分祭は午後二時から行われ、特設舞台で豆まきや餅まきなどをする。
一昨日,牡蠣詰め放題・食べ放題をしていた鳥羽市安楽島。
お店の目の前の海岸で15年ほど前に鳥羽竜の化石が発掘されたという。

@1996年7月14日 大型恐竜の化石が鳥羽市安楽島の海岸で貝化石の採集に来ていた高田雅彦、谷本正浩、藤本艶彦、金子篤の4氏によって発見されました。
4氏は貝化石を含む地層の松尾層群の海岸露頭に骨化石らしきものを見つけ、三重県教育委員会に報告しました。三重県は北川知事を団長に大型化石発掘調査団を結成し、調査を開始しました。
恐竜化石が今までにないものだったので、発見地の名前を付けて鳥羽竜と命名したいという願いが鳥羽市をはじめたくさんの関係者の声としてありました。
そして、三重県ではその判定を恐竜化石研究専門家の京都大学亀井節夫教授、国立科学博物館の冨田幸光氏、福井県立恐竜博物館の東洋一氏をはじめ、そのとき来日していた中国の薫枝明(ドン・ジミン)氏に同定を依頼した結果、中国の四川省で発見されているマメンチサウルスに近い大型草食恐竜の化石ではないかということが判明しました。
2ヶ月あまりの発掘とクリーニングの結果、大型草食恐竜の骨格らしきものが現れ、当初は中国の四川省で発見されたマメンチサウルス(中生代白亜紀)に近いものではないかと予想が立てられましたが、調査を進めていくうちに発見された地層の年代(現地の地層は中生代白亜紀初期、約1億3千800万年前)や肩甲骨の形が違ったり、骨格の大きさが違ったりしているところが見られたので別の種類の大型恐竜ではないかということなりました
骨化石の同定と研究が進んできた2001年6月、鳥羽の恐竜化石調査報告会で、中生代白亜紀、アジア地域で生息していたティタノサウルスの仲間ではないかという報告がされました。
「写真;①三重県鳥羽市安楽島の海岸(恐竜発掘現場は写真右手)
②発掘現場近くの海の駅」
お店の目の前の海岸で15年ほど前に鳥羽竜の化石が発掘されたという。

@1996年7月14日 大型恐竜の化石が鳥羽市安楽島の海岸で貝化石の採集に来ていた高田雅彦、谷本正浩、藤本艶彦、金子篤の4氏によって発見されました。
4氏は貝化石を含む地層の松尾層群の海岸露頭に骨化石らしきものを見つけ、三重県教育委員会に報告しました。三重県は北川知事を団長に大型化石発掘調査団を結成し、調査を開始しました。
恐竜化石が今までにないものだったので、発見地の名前を付けて鳥羽竜と命名したいという願いが鳥羽市をはじめたくさんの関係者の声としてありました。
そして、三重県ではその判定を恐竜化石研究専門家の京都大学亀井節夫教授、国立科学博物館の冨田幸光氏、福井県立恐竜博物館の東洋一氏をはじめ、そのとき来日していた中国の薫枝明(ドン・ジミン)氏に同定を依頼した結果、中国の四川省で発見されているマメンチサウルスに近い大型草食恐竜の化石ではないかということが判明しました。
2ヶ月あまりの発掘とクリーニングの結果、大型草食恐竜の骨格らしきものが現れ、当初は中国の四川省で発見されたマメンチサウルス(中生代白亜紀)に近いものではないかと予想が立てられましたが、調査を進めていくうちに発見された地層の年代(現地の地層は中生代白亜紀初期、約1億3千800万年前)や肩甲骨の形が違ったり、骨格の大きさが違ったりしているところが見られたので別の種類の大型恐竜ではないかということなりました
骨化石の同定と研究が進んできた2001年6月、鳥羽の恐竜化石調査報告会で、中生代白亜紀、アジア地域で生息していたティタノサウルスの仲間ではないかという報告がされました。
「写真;①三重県鳥羽市安楽島の海岸(恐竜発掘現場は写真右手)
②発掘現場近くの海の駅」
法師に泊まった翌朝,見学する場所は???
近くに「那谷寺」という有名なお寺があるらしい。
HPの写真を見ると,奇岩が集まった岩窟が印象的やった!
私は,7月末に県境を少し越えた神社の岩窟で・・・
岩窟に縁のある夏やなぁ~
「那谷寺」は,717年(養老元年)に泰澄大師が千手観音を岩窟に安置したのにはじまるといわれている。
「泰澄大師」って,今回宿泊した法師のある粟津温泉を開湯した人やったなぁ~
「那谷寺」って何んで「なたでら」っ て読むの?
「なた」って珍しい読み方やんか。
「なたに」とか「なや」とかやったら読めるんやけど・・・
平安時代に花山法皇が参詣した際、西国33ヶ所の霊場にまさるところとされ、第1番の那智山の「那」と第33番の谷汲山の「谷」をとって「那谷寺」と名付けられたという。
他に有名なことは?
芭蕉が山中温泉に逗留後、小松へ引き返す途中に詣でた寺なんや。
『奥の細道』に「奇石さまざまに古松植ならべて」とある奇岩怪石が特殊な景観をなしている。
参道正面の御供所右に芭蕉句碑があり、自然石に刻まれた「石山の石より白し秋の風」の句碑と、『奥の細道』の一部を刻んだ翁塚がある。
御供所左手には、「萱ぶきの小堂岩の上に造り」と芭蕉が記した岩屋本殿の奥に、本尊千手観世音菩薩が安置してある。
「奇岩遊仙境」の絶景なぁ~
この夏は,芭蕉を感じるには暑すぎたよなぁ~
「写真;那谷寺・奇岩遊仙境」
近くに「那谷寺」という有名なお寺があるらしい。
HPの写真を見ると,奇岩が集まった岩窟が印象的やった!
私は,7月末に県境を少し越えた神社の岩窟で・・・
岩窟に縁のある夏やなぁ~
「那谷寺」は,717年(養老元年)に泰澄大師が千手観音を岩窟に安置したのにはじまるといわれている。
「泰澄大師」って,今回宿泊した法師のある粟津温泉を開湯した人やったなぁ~
「那谷寺」って何んで「なたでら」っ て読むの?
「なた」って珍しい読み方やんか。
「なたに」とか「なや」とかやったら読めるんやけど・・・
平安時代に花山法皇が参詣した際、西国33ヶ所の霊場にまさるところとされ、第1番の那智山の「那」と第33番の谷汲山の「谷」をとって「那谷寺」と名付けられたという。
他に有名なことは?
芭蕉が山中温泉に逗留後、小松へ引き返す途中に詣でた寺なんや。
『奥の細道』に「奇石さまざまに古松植ならべて」とある奇岩怪石が特殊な景観をなしている。
参道正面の御供所右に芭蕉句碑があり、自然石に刻まれた「石山の石より白し秋の風」の句碑と、『奥の細道』の一部を刻んだ翁塚がある。
御供所左手には、「萱ぶきの小堂岩の上に造り」と芭蕉が記した岩屋本殿の奥に、本尊千手観世音菩薩が安置してある。
「奇岩遊仙境」の絶景なぁ~
この夏は,芭蕉を感じるには暑すぎたよなぁ~
「写真;那谷寺・奇岩遊仙境」
霧と強風の室堂散策のあと、立山トンネルトロリーバスに乗り大観峰へ。
すべてが立山を貫くトンネルの中で真っ暗やった。
大観峰からの展望は、室堂と違って霧が無く良かったで!
ショックやったのは、大観峰駅にあった室堂の様子を映すモニター画面。
それを見ると室堂も霧が晴れ、私が見たかった山々が見えてるやんか~!
売店のお菓子の袋は、標高が高いからかパンパンに膨れていた。
自分の身体も食べ過ぎと飲み過ぎで、こんなんかも知れヘンなぁ~?
それから立山ロープウェイと黒部ケーブルカーに乗って黒部ダムへと下りた。
ダムサイトに着いたら、また小雨が降り出した。
せっかく傘終もたのに・・・
黒部ダムには感動した!
この厳しい大自然の中に、これほど巨大なダムを建設するとはなぁ~
飽きるほどダムと放水の写真を撮った。
ダムの堤防を歩いて渡りきった所にあった新展望台と展望台。
新展望台に降りてから展望台まで階段を歩いて上る と、足に応えてねぇ~
関電トロリーバスに乗って、富山県から長野県扇沢へと出た。
まさにこのトンネルが「黒部の太陽」やねんやろうけど、けっこう長いトンネルもバスに乗ったら楽チンで、難工事の末突破したという破砕帯もあっと言う間に通過してしまった。
映画やTVのこと、思い出す間もないほどやった。
扇沢駅に着き、バスのマークを見たら、見慣れた「関電」のマーク!
妙に懐かしい気分になってしもたわ~
「写真;黒部ダム」
すべてが立山を貫くトンネルの中で真っ暗やった。
大観峰からの展望は、室堂と違って霧が無く良かったで!
ショックやったのは、大観峰駅にあった室堂の様子を映すモニター画面。
それを見ると室堂も霧が晴れ、私が見たかった山々が見えてるやんか~!
売店のお菓子の袋は、標高が高いからかパンパンに膨れていた。
自分の身体も食べ過ぎと飲み過ぎで、こんなんかも知れヘンなぁ~?
それから立山ロープウェイと黒部ケーブルカーに乗って黒部ダムへと下りた。
ダムサイトに着いたら、また小雨が降り出した。
せっかく傘終もたのに・・・
黒部ダムには感動した!
この厳しい大自然の中に、これほど巨大なダムを建設するとはなぁ~
飽きるほどダムと放水の写真を撮った。
ダムの堤防を歩いて渡りきった所にあった新展望台と展望台。
新展望台に降りてから展望台まで階段を歩いて上る と、足に応えてねぇ~
関電トロリーバスに乗って、富山県から長野県扇沢へと出た。
まさにこのトンネルが「黒部の太陽」やねんやろうけど、けっこう長いトンネルもバスに乗ったら楽チンで、難工事の末突破したという破砕帯もあっと言う間に通過してしまった。
映画やTVのこと、思い出す間もないほどやった。
扇沢駅に着き、バスのマークを見たら、見慣れた「関電」のマーク!
妙に懐かしい気分になってしもたわ~
「写真;黒部ダム」
先週行った富山への旅の話。
山登りに興味のない家人は,宇奈月 から乗るトロッコ列車と立山-扇沢間のアルペンルート,上高地へのバスの位置関係やその区別が分からへんという。
私は何度か口で分かりやすく?説明したはずやけど,なかなか上手く通じない。
このままでは夫婦喧嘩?になりそうな雲行き・・・
そこで,旅の愛読書「るるぶ」を買って来て,家人のよく見える所に置いておいた。
家人はなぜかアルペンルートに興味を示し,熱心に「るるぶ」を読んでいた。
旅の初日は,富山県宇奈月へ。
宇奈月温泉は,我々家族にとって思い出の地。
15年ほど前の冬,家族スキーを計画し,旅行社に紹介してもらったのが宇奈月温泉やった。
今回,宇奈月駅に着いた時,トロッコ列車より先に目が行ったのは,子どもがリフトに乗り切れずに転落したスキー場へのリフト乗り場やった。
懐かしかった~
まだ子どもたちが小さかったので,スキー場で滑るより,専らスキー場とその下にあるスキー場へ向かうリフト乗り場の間の雪の積もった道路を多く滑っていた。
この道路が,けっこう距離の長い家族専用ゲレンデやったんや・・・
そんな昔を思い出しながらのトロッコ列車。
往復約2時間半,隣に座った家人と,現在のこと,過去の思い出,それからこれからのことなどを話して揺られていた。
鐘釣駅で下車し,万年雪を探したけど殆ど残っていなかった。
やっぱり地球温暖化?
ホーム横にあった「メグスリの木」が目面しく,その木のエキスが入っているという「メグスリのあめ」を土産に買った。
私の老眼傾向治るとええなぁ~
「写真;黒部峡谷トロッコ列車と新柳河原発電所」
山登りに興味のない家人は,宇奈月 から乗るトロッコ列車と立山-扇沢間のアルペンルート,上高地へのバスの位置関係やその区別が分からへんという。
私は何度か口で分かりやすく?説明したはずやけど,なかなか上手く通じない。
このままでは夫婦喧嘩?になりそうな雲行き・・・
そこで,旅の愛読書「るるぶ」を買って来て,家人のよく見える所に置いておいた。
家人はなぜかアルペンルートに興味を示し,熱心に「るるぶ」を読んでいた。
旅の初日は,富山県宇奈月へ。
宇奈月温泉は,我々家族にとって思い出の地。
15年ほど前の冬,家族スキーを計画し,旅行社に紹介してもらったのが宇奈月温泉やった。
今回,宇奈月駅に着いた時,トロッコ列車より先に目が行ったのは,子どもがリフトに乗り切れずに転落したスキー場へのリフト乗り場やった。
懐かしかった~
まだ子どもたちが小さかったので,スキー場で滑るより,専らスキー場とその下にあるスキー場へ向かうリフト乗り場の間の雪の積もった道路を多く滑っていた。
この道路が,けっこう距離の長い家族専用ゲレンデやったんや・・・
そんな昔を思い出しながらのトロッコ列車。
往復約2時間半,隣に座った家人と,現在のこと,過去の思い出,それからこれからのことなどを話して揺られていた。
鐘釣駅で下車し,万年雪を探したけど殆ど残っていなかった。
やっぱり地球温暖化?
ホーム横にあった「メグスリの木」が目面しく,その木のエキスが入っているという「メグスリのあめ」を土産に買った。
私の老眼傾向治るとええなぁ~
「写真;黒部峡谷トロッコ列車と新柳河原発電所」
K氏のプリウスには、たくさんの曲が入っているらしい。
運転中に、20年ほど前の曲が流れると、本当に懐かしい!
あわら温泉から東尋坊へと向かう途中に流れていたのは“竹内まりや”。
私が大好きだった「シングル・アゲイン」や「駅」なども流れてきた。
午前8時前に東尋坊に到着。
“東尋坊”と言えば、サスペンスドラマによく登場する断崖。
ヒロインが犯人に崖から落とされそうになったとき、必ず主人公が助けに来る。
“竹内まりや”は、よく「火曜サスペンス劇場」の主題歌を歌っていた。
午前8時の東尋坊、夏とは云え、他に観光客は誰もいない。
崖の上には私たち2人だけ。
もし彼が10年前の私のことを恨んでいて、殺意を持っていたとしたら・・・
だから彼はこの旅に私を誘ったのか?
あえて私は、わざと岸壁の端へと移動した。
そう・・・彼は“高所恐怖症”なのだ。
初日、東名阪自動車道・御在所岳の麓を通過していたとき、そこのロープウェイのことが話題となり、彼は自分が“高所恐怖症”であることを自ら語ったのだ。
でも、もしそれが私を誘い出す作り話だったとしたら・・・
さすが私のサスペンスドラマ!
読みが深い!
しかし彼は、下を見たら怖いからと言って、岸壁からかなり離れた岩の上に座り、海の遠くを眺めていた。
「写真;東尋坊」
運転中に、20年ほど前の曲が流れると、本当に懐かしい!
あわら温泉から東尋坊へと向かう途中に流れていたのは“竹内まりや”。
私が大好きだった「シングル・アゲイン」や「駅」なども流れてきた。
午前8時前に東尋坊に到着。
“東尋坊”と言えば、サスペンスドラマによく登場する断崖。
ヒロインが犯人に崖から落とされそうになったとき、必ず主人公が助けに来る。
“竹内まりや”は、よく「火曜サスペンス劇場」の主題歌を歌っていた。
午前8時の東尋坊、夏とは云え、他に観光客は誰もいない。
崖の上には私たち2人だけ。
もし彼が10年前の私のことを恨んでいて、殺意を持っていたとしたら・・・
だから彼はこの旅に私を誘ったのか?
あえて私は、わざと岸壁の端へと移動した。
そう・・・彼は“高所恐怖症”なのだ。
初日、東名阪自動車道・御在所岳の麓を通過していたとき、そこのロープウェイのことが話題となり、彼は自分が“高所恐怖症”であることを自ら語ったのだ。
でも、もしそれが私を誘い出す作り話だったとしたら・・・
さすが私のサスペンスドラマ!
読みが深い!
しかし彼は、下を見たら怖いからと言って、岸壁からかなり離れた岩の上に座り、海の遠くを眺めていた。
「写真;東尋坊」
洞爺湖サミットが近づいてきた。
TVで洞爺湖が映ると、昔々のことを思い出し、一人苦笑い・・・
学生の頃、自動車免許をとったばかりの男4名が、夏の北海道にドライブに行こうと計画を立てたのだ。
大阪を友人の家の車で出発し、福井県敦賀の港を目指した。
敦賀から小樽へは、フェリーで約30時間。
早朝に小樽に着いて、いよいよ“愛とロマン(憧れ)の北海道”!
積丹半島を巡って南下し、到着したのが“洞爺湖”だった。
その憧れの北海道・晩夏の湖にはアベック(当時はこのように表現)の乗ったボートが・・・
我々もペアを決めてボートに乗ることにした。
ボート乗り場からボートを漕ぎ出すと、湖の中央部にある島が近くに見えた。
あの島に行けば“愛とロマン”があるのでは!
当時、我々は、彼女が出来ればボートに乗せてあげたいと、奈良公園や大阪・天王寺公園の池でボートの練習をしていたのだ。
ボートを借りた時間は、1時間。
前半の30分間、私が漕いで“愛とロマン”の中ノ島を目指すことにした。
ボートは思ったよりも速く進む。
何故なら、この日は台風が日本海を通過中。
中ノ島(台風の中心)に向かって、かなり強い南風が吹いていたからだった。
やがて風向きは、台風の通過とともに南から南西、そして西の風へ・・・
アベックの乗ったボートは、東岸の原始林の方へと流されて行く。
ボート管理のオジサンは、モーターボートに乗って、遭難したボートの救助に忙しい!
その時、我々は?
横波が激しくなり、横転の危険と闘いながら、友人と掛け声をかけて二人でオールを漕いでいました。
無事ボート乗り場に帰ったけど、1時間?の超過料金を取られてしまいました。
でも、岸にいた多数の観光客からは、拍手喝采を戴いたのです。
今初めて、あの洞爺湖の直径が10kmだって知りました。
中ノ島まで5kmもあったのですね!
どおりで、いくら頑張って漕いでも着かなかった訳や・・・
「写真;スイスの首都ベルン」
TVで洞爺湖が映ると、昔々のことを思い出し、一人苦笑い・・・
学生の頃、自動車免許をとったばかりの男4名が、夏の北海道にドライブに行こうと計画を立てたのだ。
大阪を友人の家の車で出発し、福井県敦賀の港を目指した。
敦賀から小樽へは、フェリーで約30時間。
早朝に小樽に着いて、いよいよ“愛とロマン(憧れ)の北海道”!
積丹半島を巡って南下し、到着したのが“洞爺湖”だった。
その憧れの北海道・晩夏の湖にはアベック(当時はこのように表現)の乗ったボートが・・・
我々もペアを決めてボートに乗ることにした。
ボート乗り場からボートを漕ぎ出すと、湖の中央部にある島が近くに見えた。
あの島に行けば“愛とロマン”があるのでは!
当時、我々は、彼女が出来ればボートに乗せてあげたいと、奈良公園や大阪・天王寺公園の池でボートの練習をしていたのだ。
ボートを借りた時間は、1時間。
前半の30分間、私が漕いで“愛とロマン”の中ノ島を目指すことにした。
ボートは思ったよりも速く進む。
何故なら、この日は台風が日本海を通過中。
中ノ島(台風の中心)に向かって、かなり強い南風が吹いていたからだった。
やがて風向きは、台風の通過とともに南から南西、そして西の風へ・・・
アベックの乗ったボートは、東岸の原始林の方へと流されて行く。
ボート管理のオジサンは、モーターボートに乗って、遭難したボートの救助に忙しい!
その時、我々は?
横波が激しくなり、横転の危険と闘いながら、友人と掛け声をかけて二人でオールを漕いでいました。
無事ボート乗り場に帰ったけど、1時間?の超過料金を取られてしまいました。
でも、岸にいた多数の観光客からは、拍手喝采を戴いたのです。
今初めて、あの洞爺湖の直径が10kmだって知りました。
中ノ島まで5kmもあったのですね!
どおりで、いくら頑張って漕いでも着かなかった訳や・・・
「写真;スイスの首都ベルン」
今日は結婚記念日。
24年前のあの日も寒い寒い日やった。
家人を実家に迎えに行く道路にも雪が残ってた。
「タイヤチェーンがいるのでは?」と心配をしたものだ。
式場の橿原神宮の境内にも少し雪が残っていて、
結婚式後の記念撮影も何枚か外でおこなった。
あらから24年・・・
私たちの部屋には、結婚20周年の記念に北海道へ流氷を観に行ったときに、記念に買った“木彫りのフクロウ”が置いてある。
あの時は明治以来の大嵐、網走の町が陸の孤島なってしまい二日も缶詰。
帰りの飛行機の座席が確保できるまで、網走・天都山山上にあったホテル近くの
“北方民族博物館”や“オホーツク流氷館”をブラブラ歩いて見学するしかなかった。
暇つぶしに売店のオバチャンと会話し、“木彫りのフクロウ”を値切る交渉を開始。
阿寒湖や知床では、アイヌ彫刻“木彫りのフクロウ”は高価で手が出なかったからだ。
結婚記念に旅行に来たコトや、嵐で帰れず仕事に大穴開けてしもたコト、
予定外の宿泊が続き、お金が無くなって困っているコトetc・・・
売店のオバチャンも北海道で生まれ育ってこんな大嵐ははじめてで、
自分自身も道が閉ざされ家に帰れなかったらしい。
これもなにかの縁だからと、永らく売れずに残っていたこの“木彫りのフクロウ”ならと、特別に安い値段でわけてくれたのだ。
ただし、オバチャンとの約束が1つ。
この丸太に彫った“木彫りのフクロウ”は、宅急便で送らずに手で提げて家まで帰ること!
約束守ったけど・・・ほんまに重たかった・・・
24年前のあの日も寒い寒い日やった。
家人を実家に迎えに行く道路にも雪が残ってた。
「タイヤチェーンがいるのでは?」と心配をしたものだ。
式場の橿原神宮の境内にも少し雪が残っていて、
結婚式後の記念撮影も何枚か外でおこなった。
あらから24年・・・
私たちの部屋には、結婚20周年の記念に北海道へ流氷を観に行ったときに、記念に買った“木彫りのフクロウ”が置いてある。
あの時は明治以来の大嵐、網走の町が陸の孤島なってしまい二日も缶詰。
帰りの飛行機の座席が確保できるまで、網走・天都山山上にあったホテル近くの
“北方民族博物館”や“オホーツク流氷館”をブラブラ歩いて見学するしかなかった。
暇つぶしに売店のオバチャンと会話し、“木彫りのフクロウ”を値切る交渉を開始。
阿寒湖や知床では、アイヌ彫刻“木彫りのフクロウ”は高価で手が出なかったからだ。
結婚記念に旅行に来たコトや、嵐で帰れず仕事に大穴開けてしもたコト、
予定外の宿泊が続き、お金が無くなって困っているコトetc・・・
売店のオバチャンも北海道で生まれ育ってこんな大嵐ははじめてで、
自分自身も道が閉ざされ家に帰れなかったらしい。
これもなにかの縁だからと、永らく売れずに残っていたこの“木彫りのフクロウ”ならと、特別に安い値段でわけてくれたのだ。
ただし、オバチャンとの約束が1つ。
この丸太に彫った“木彫りのフクロウ”は、宅急便で送らずに手で提げて家まで帰ること!
約束守ったけど・・・ほんまに重たかった・・・
昨日は午後から用事で“上野”へ。
この写真の道路標識を見たら、“上野”、“青山”とあるので、東京と間違ってしまいそう?
そんなことあるはずがナイ!
私が訪ねたのは“伊賀上野”。
以前、このブログで紹介した、“西岡たかし”の“上野市(うえのまち)”という曲
♪私が訪ねた 上野まち
忍者屋敷の 上野まち
小さなお城の 伊賀の町 静かな暮らしの 上野まち
くわ町、かや町、広小路、もすこし揺られて上野まち♪
の舞台であり、松尾芭蕉や伊賀忍者の故郷なのだ。
昨日は、曲に登場した“茅(かや)町”の電車の駅を発見した。
さすが伊賀上野! 駅にも忍者が!
茅町の恵美須神社は“初恵比寿”?すごい賑わいでした。
用事を済ませた後は、以前から訪ねてみたかった芭蕉の“蓑虫庵”へ。
この写真の道路標識を見たら、“上野”、“青山”とあるので、東京と間違ってしまいそう?
そんなことあるはずがナイ!
私が訪ねたのは“伊賀上野”。
以前、このブログで紹介した、“西岡たかし”の“上野市(うえのまち)”という曲
♪私が訪ねた 上野まち
忍者屋敷の 上野まち
小さなお城の 伊賀の町 静かな暮らしの 上野まち
くわ町、かや町、広小路、もすこし揺られて上野まち♪
の舞台であり、松尾芭蕉や伊賀忍者の故郷なのだ。
昨日は、曲に登場した“茅(かや)町”の電車の駅を発見した。
さすが伊賀上野! 駅にも忍者が!
茅町の恵美須神社は“初恵比寿”?すごい賑わいでした。
用事を済ませた後は、以前から訪ねてみたかった芭蕉の“蓑虫庵”へ。
近江八幡を訪ねたのは、過去2回ほど。
最初は日帰りバス旅行だった。
たしか、大きな神社にバスを停めて、瓦ミュージアムの見学と少しの間の散策だった。今でも、その時作った瓦粘土の作品?を家に飾っている。
二度目は西国参りで。
お寺のことよりも、昼食を食べた琵琶湖の見えるフランス料理の店のこと、それと、息子と琵琶湖へつながる水路でバス釣りをしたことの方がよく覚えている。
この町の歴史は、
「1582年本能寺の変により、織田信長が自害すると、安土城も灰燼に帰しました。
そして、豊臣秀吉が天下をとると、近江の地には弟の秀次を配しました。
秀次は安土からもほど近い、八幡山に城を築きます。
廃城となった安土城の城下町を八幡山城下に移し、新たな城下町を形成しました。
そして楽市楽座の自由商業都市を奨励し栄えた街です。
また、城の周りに築かれた水堀は、商業輸送にも使えるように考えてつくられました。
これらのことが、近江商人が活躍する地盤になったと考えられます。」とあった。
できればゆっくり舟で“八幡掘めぐり”をしたかった・・・
“ごん狐”への旅の話はこれが最後。
最後に残った話は、一番最初に訪れた“新美南吉記念館”。
その建物は、斬新な建築でした。
駐車場に車を停めて、すぐに“ごん”と記念撮影。
しかし、建物の入り口が分からず・・・
雨にぬかるんだ芝生の上を、長時間のドライブと
到着の興奮でウロウロするばかり・・・
“手袋を買いに”の親子の狐像を見ては近づき、
“でんでんむしの悲しみ”のモニュメントを発見しては走りより、
“童話の森”は、じつは「ごん狐」の“中山”だったと知っては、
その木立の中に“ごん”を探し・・・
本当に地下に埋もれたこの建築物が不思議だったのです。
ただ、館内に入ってからは「ごん狐」と新美南吉の世界
堪能することが出来ました。
でも、堪能しすぎて支離滅裂・・・
新美南吉が狐に関する童話を3つも書いていたなんて・・・
最後に残った話は、一番最初に訪れた“新美南吉記念館”。
その建物は、斬新な建築でした。
駐車場に車を停めて、すぐに“ごん”と記念撮影。
しかし、建物の入り口が分からず・・・
雨にぬかるんだ芝生の上を、長時間のドライブと
到着の興奮でウロウロするばかり・・・
“手袋を買いに”の親子の狐像を見ては近づき、
“でんでんむしの悲しみ”のモニュメントを発見しては走りより、
“童話の森”は、じつは「ごん狐」の“中山”だったと知っては、
その木立の中に“ごん”を探し・・・
本当に地下に埋もれたこの建築物が不思議だったのです。
ただ、館内に入ってからは「ごん狐」と新美南吉の世界
堪能することが出来ました。
でも、堪能しすぎて支離滅裂・・・
新美南吉が狐に関する童話を3つも書いていたなんて・・・