e411y(回顧録)

e411yの旅でのことを書き残しておきたいと思います。

豚菜館の醤油ラーメン

2011年03月31日 | 麺類
これまで何度か天理・二階堂まで食べに行きながら、営業時間の壁?に阻まれ、一度も食べれなかった『豚菜館』。
先日,用事で通りかかったら営業中!

用事を後回しにしてラーメンを食べることにした。
この店のメニューは、「醤油」と「味噌」の2種類。
サイズとトッピングのバリエーションが多少あるだけ、シンプルなもの。
麺は中太のストレート。
スープは昆布や豚骨・鶏がらなど? 
シンプルな中華そばにコクがプラスされた美味しいスープした!

炙り鯛だしらーめん・つけ麺 サクラ

2011年03月30日 | 麺類
人間ドックが終わって行った『炙り鯛だしらーめん・つけ麺 サクラ』。
会計のあとに,サービス券(唐揚げ小)を貰った。
そのサービス券の期限が切れる・・・
それで慌てて食べにでかけた。

前回は普通の炙り鯛だしらーめんやったから,
今回はつけ麺で・・・
つけ麺を食べたあとは,そのスープで雑炊を・・・

美味しかった!

ラーメン河

2011年03月29日 | 麺類
最近、ネット上のあちこちで
「奈良県の吉野の山中に旨いラーメンの店が・・・」って評判になってる店がある。
行った人の口コミを読んでると,共通してるのが「なんて場所にあるんや!」ってこと。

住所は,吉野郡吉野町菜摘。
「菜摘」と云えば,以前このブログに書いた“二人静・菜摘の里”やんか!
http://blog.goo.ne.jp/urikame2007/e/04578e8649b5c01f1fcdc94cc262019f
たしかあのとき,この店の前の道を車で走ったはずやけど???
記憶にないなぁ・・・あの時はまだお店はなかったのかも???
とりあえず,車で169号線をひたすら吉野の谷を歴史ある「宮滝」目指して南下した。
目印は宮滝の集落をすぎて左手にある消防署。
その消防署前にある橋を渡りすぐに右折すると、道が二手に分かれている。
その分かれ目に「塩らーめん 300m」って看板が立っていた。
矢印に従って曲がると、「え??ホンマにこっち?」って車1台分ギリギリの超細い道。
対向車が来ないことを祈って直進してたら,2tくらいのトラックが・・・
お互いバックできなく,しばらくお見合い。
やっと相手がバックしてくれて,対向可。
対向車の恐怖と闘いながら前進すると,ネットで見た青い建物が見えてきた!
おー!? これが??
これが噂のラーメン屋「ラーメン河」!

店の隣りに駐車場は4台分くらい?あり,1台分空いてたんやけど・・・
道幅と道の横がすぐ川なのと,駐車スペースの関係から,私の車では停まりそうにない。
山を切り開いた処にどうにか車を停めることができた。
お店の前には入店を待つ3人の姿。
私も火鉢を囲むお仲間に。
店内には4人掛けのテーブルが3つあって、合計12席?
だから,待っているこの4人(夫婦,男性1人,私)が相席になるということを教えてくれた。
私のすぐ後に,関西弁を使わない若いビジネスマン4人がやって来た。
そして,その後にも他府県ナンバーがぞくぞくと・・・

老夫婦2人で切り盛りしているこのお店は,次の準備が出来るまで入店させてくれない。
メニューは壁に貼ってあったけど,それを見る前に、女将さんがラーメンの注文を厨房のご主人に告げた。
このラーメン店には,ラーメンは「塩」1種類しかないのだ。
あとは,丼を決めるんやけど・・・
「マグロ」か「鳥」か悩むところやなぁ~
迷った末に「マグロ丼」に決めた。
出て来たのはラーメンよりもマグロ丼の方が先やった。
塩ラーメンは,透き通ったスープ、湯気が凄くたっていて旨かった!

ころっけのハヤシ

2011年03月28日 | グルメ
近鉄郡山駅前の真ん前にある『ころっけのハヤシ』へ。
創業昭和28年というから、58年もの歴史を誇る。
電車から降りると、コロッケの旨そうな匂い。
メニューはコロッケがメインで、豚カツ、牛カツ、エビフライ、メンチカツ、チキンカツ、ハムカツ、フランクフルト。
私が買ったのは、コロッケ。
コロッケは,小判型の小さなコロッケは揚げたてだから、アツアツのホクホク。
衣はサクッとしたイイ感じの食感、何よりもその香ばしさがたまらなかった。
しっかりした味付けで,ホンマニ旨かった。

大和郡山城の桜

2011年03月27日 | 
御殿桜は天正13年(1585年)大納言豊臣秀長が姫路から郡山へ入部、多武峰の談山神社を城北に遷座、その堂宇と供に多武峰にあった桜樹も城内に移したのがその始まりと伝えられています。

享保9年(1724年)柳澤吉里が甲府より郡山に国替えとなり、入城してから桜樹の補植があって、そのとき以来毎年春の開花期には、藩士や町民達の楽しみであったといわれています。

やがて明治となり城郭が全て取り払われたが、旧藩士達が明治13年(1880年)本丸に藩祖柳澤吉保を祀る柳沢神社を建てて、その周辺に旧藩邸の桜樹を移植し又更に数百株を補植しました。そして毎年、かがり火をたき春宵一刻を 楽しむようになりました。これが夜桜の始まりであり、その後明治44年(1911年)に至り、 樹齢も次第に老境に入り花の姿も衰えてきたので、当時の町長三木忠方は、町民に呼び掛け寄付金を募り桜樹3000本を新しく城址一円に植えるとともに、かがり火を電灯(ぼんぼり)に替え、大正10年(1921年)大軌電車(現在の近畿日本鉄道)の開通により遠く大阪方面からも見物客が訪れるようになりました。


ワグネルの碑

2011年03月22日 | 薀蓄
先日,ももりさんの絵を観に行った京都市美術館。
その京都市美術館の道路を挟んで西側にあるみやこめっせ東隣の公園内(京都府立図書館の北にある公園)で大きな石碑を見た。
詠みづらい文字を目を凝らして読むと“舎密局”の文字!
“舎密局”と言えば,たしか1月,大阪城の西を散策していて見かけたあの碑。
同じ人物とは思えないんやけど・・・
@ワグネルの碑
日本の近代化に貢献したドイツ出身の学者ゴッドフリード・ワグネル(Gottfried Wagener、1831~1892)の記念碑。
ワグネルは1878年に京都を訪れ、舎密局で化学工芸の指導を、また医学校(現 京都府立医科大学)で理化学の講義を行ない、様々な分野で京都の工業界の基礎を築いたという。
この碑は、第4回内国博覧会が岡崎公園で開催された1924年に建造された。


右近の橘

2011年03月21日 | 趣味の園芸
昨日は,平安神宮で見た“左近の桜”。
TVは“冬のサクラ”最終回やったけど・・・
そしたら,今日は“右近の橘”。
@右近橘(うこんのたちばな)
右近橘は、平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て右にあった橘の樹。
左近桜に相対した。
『天暦御記』によれば、もとは秦河勝の宅にあったのを、内裏建造の際に紫宸殿があたかも宅の故地に相当するから、旧によってこれを植えたもので、天徳年間(957年-961年)まであったという。
『日本紀略』によれば、天徳3年(959年)12月7日あらたに橘樹1本、高さ1丈2尺を植え替え、これは東三条殿の樹で、勅命によった。
のちに、皇居の炎上その他でしばしば植え替えが行なわれたが、里内裏のさいにもまたこれを植え替える例となった。
橘を植えるのは、秦河勝宅地の縁だけではなくて、橘が古くから「トキジクノカクノコノミ」といわれ、その葉が寒暖の別なく常に生い茂り栄えるから、長寿瑞祥の樹として珍重されたからでもあるともいう。
現在の京都御所にも古式に則って再建されたものが伝わっている。


左近の桜

2011年03月20日 | 趣味の園芸
先日,平安神宮で見た“左近の桜”。
その歴史について調べてみた。
@左近桜
左近桜は、平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て左にあった桜の樹。
右近橘に相対した。
左近桜という名称は、殿上で儀式のあるときこの桜の方に左近衛の陣を敷いたことによる。
南殿の桜ともいう。
もとは梅の樹で桓武天皇の平安京遷都のときに植えられたが、承和年間(834年-847年)に枯死したため、仁明天皇のときに梅の代わりに桜を植えた。
貞観年間(859年-876年)に枯れたが、その根から生じた芽を坂上滝守が勅命で培養し、ふたたび枝葉が盛んになった。
天徳3年(959年)9月、内裏焼失のとき桜も焼けたため、内裏造営におよんで、重明親王の家の吉野桜(ヤマザクラと考えられる)を移植し、康保元年(964年)11月、同2年(965年)正月の2回にわたり改栽した。
その後しばしば焼け、堀河天皇のときに植えたものが最後となった。
平安神宮内にある大極殿を模して建立された外拝殿にも左近桜が存在する。
また、雛祭りでひな壇に並べられることもある。




子福桜

2011年03月16日 | 趣味の園芸
お寺の境内で見かけた“子福桜”。
春にどんな花を咲かすんやろか?
@子福桜(コブクザクラ)
シナミザクラとジュウガツザクラの雑種あるいはエドヒガンの雑種と考えられています。
複数の実を着けることから、「子福桜」と呼ばれていますが、結実は環境因子のよって変化し、結実しない場合が多いです。
秋の花と冬の花は大きさや花柄の長さに違いがあります。 

端駈橋

2011年03月14日 | 建築物
先日,御所市で鴨都波神社界隈を散策していて,素敵な橋を見かけた。
橋の名前は端駈橋(はなかけばし)。
葛城川に架かるコンクリートアーチ。
石造風飾り付の充腹アーチ。
1928年(昭和3年)竣工
上路コンクリートアーチ 1連

欄干の中央部にライオンの装飾をした石橋。

1999年9月30日の臨界事故

2011年03月13日 | 自宅から東へ
1999年9月30日(木),茨城県東海村で臨界事故のあった日,
私は茨城県筑波市にいたのです。

@東海村のウラン加工施設で放射能漏れ、3人被曝(毎日新聞)
30日午前10時半ごろ、茨城県東海村の核燃料製造メーカー「ジェー・シー・オー東海事業所」のウラン加工施設で、施設から放射能が漏れ出す事故が発生。従業員3人が被ばくし、水戸市の国立水戸病院に搬送後、専門的医療の出来る千葉市の放射線医学総合研究所に移された。1人が重症、2人は軽症だという。
茨城県警ひたちなか西署の調べでは、被ばくしたのは常陸太田市山下町、JCO社員、大内久さん(35)▽日立市田尻町、同、篠原理人さん(39)▽ひたちなか市足崎、同、横川豊さん(54)――の3人。国立水戸病院によると、3人の意識は正常だが、うち2人は被ばく量が多いという。
同事業所によると、事故は核燃料を製造する施設「転換試験棟」で発生。容器から原料のウランが漏れ、青い火が出たという。転換試験棟にある放射線モニターが異常を感知し、警報が鳴って事故が判明した。同署によると、作業員3人はウラン溶液を蓄電槽に充てんする作業中に突然、倒れたという。
茨城県原子力安全対策課によると、事故直後、同棟の南西にある敷地境界で放射線レベルが通常の約4200倍に達した。また現場から南東約2キロの舟石川測定局で同約10倍、さらに那珂町の門部測定局では同7倍に上昇した。両測定局での放射線レベルは同10時38分には通常レベルに戻った。また同事業所が午前11時45分ごろ、隣接する道路で独自に測定したところ、放射線値は1万倍のレベルだったという。
東海村は周辺3世帯に避難勧告を出した。また現場周囲500メートルは立ち入り禁止で、県道常陸那珂港山方線の二軒茶屋交差点から那珂町にかけての3キロにわたり通行止めとなった。午後3時には同村が改めて、現場半径350メートル内の約50世帯の避難を決めた。
県は、臨界事故の可能性があるとみて、原子力安全対策課、公害技術センターの職員を派遣し、詳しい原因と周辺の放射能の影響の調査を急いでいる。
原子力資料情報室は「ウラン燃料を加工している工場で、臨界事故を招いたとしたら例がないのではないか。ウランを加工する際にはガスの状態から個体にする作業がされるが、臨界事故を招かないよう部屋の構造に工夫がされている。何らかの爆発かシステムに異変が起きたのではないか」と話している。
JCOは旧社名、日本核燃料コンバージョン。6フッ化ウランを原料に、二酸化ウランに転換、加工して電力会社に納入している。
この事故を受け、現場から1・5キロ離れた同村立石神小(茂木武幸校長、児童318人)は、体育の授業を取り止め、校内に児童を待機させる処置を取っている。この日の下校時間は3時半となっているが、同校長が中心になって情報収集に当たっている。
事故が起きたウラン加工施設のジェー・シー・オーは、六フッ化ウランを原料として、二酸化ウラン粉末に転換、加工のうえ、成型加工メーカーに納入。工場の許可能力としては、年に718トンウラン。
同事業所は、1969年に事業許可を得て、73年3月操業開始した。敷地内には、第1加工施設棟、第2同、転換棟、品質検査棟、製品保管棟、工作棟などがある。従業員は約120人。
東海村では1997年3月にも、動力炉・核燃料開発事業団(当時)の東海事業所再処理工場の「アスファルト固化処理施設」で火災と爆発が発生し、作業員37人が被ばくしている。固化処理施設は、使用済み核燃料の再処理の過程で発生する低レベル放射性廃液とアスファルトを混ぜて固めていた。
◇臨界事故◇ 一定量以上のウラン235などに中性子が衝突すると、核分裂反応が持続的に進行するようになる。この状態を「臨界」といい、これに伴う爆発などで発生した事故を臨界事故と呼ぶ。原発で使われる核燃料の核分裂性ウランの割合は3~5%以下と低く、この状態では自然に臨界状態には達しない。しかし核燃料の製造過程などで何らかのトラブルが発生し、核分裂性のウランが一定量以上集まると核分裂反応が急速に進む恐れがある。 原子力資料情報室は「ウラン燃料を加工している工場で、臨界事故を招いたとしたら例がないのではないか。ウランを加工する際にはガスの状態から固体にする作業がされるが、臨界事故を招かないよう部屋の構造に工夫がされている。何らかの爆発かシステムに異変が起きたのではないか」と話している。