
⬛️命懸けの武士道⬛️
それは、1942年、ジャワ島スラバヤ沖で起こった。当時の戦況は日本が圧倒的に優位。イギリスのフォール少尉の乗る駆逐艦「エンカウンター」は、撃沈され、400名以上のイギリス兵がたった8隻の救命ボートにしがみつき、漂流した。
「オランダ軍がきっと来てくれる」
フォールはそう信じていた。船から離れる前に打ったSOSの無線を受信できる位置に、味方のオランダ軍の基地があったからだ。しかしいつまでたってもオランダ軍の救助は現れなかった。不安の中、乗組員達はパニックに陥った。
「もう限界だ・・・」
「諦めちゃダメだ。必ず助けが来る。生きて祖国に帰るんだ。家族を思い出せ。」
それは、自らに言い聞かせる言葉でもあった。だが......、夜が明け、漂流から20時間近くたっても助けは来ない。苦しさのあまり、自殺しようとする者も現れた。そんな時.....
「見ろ!船だ!」
「おーい!助けてくれー!」
希望の光が降り注いだ。
「.....、待て」
フォールの前に現れたその船は、日本海軍の駆逐艦、「雷」(いかづち)。乗組員220人の小型の軍艦ではあるが、連合軍の船3隻を撃沈させるなど、その威力をまざまざと見せつけていた。その指揮をとったのは、艦長 工藤俊作(少佐)。身長185cm、体重90kg。堂々たる体格の猛将であった。工藤艦長の目に、ボートや瓦礫につかまり、必死に助けを求める400名以上ものイギリス海兵の姿が映った。イギリス兵たちは死を覚悟した。
「敵を救助せよ」
雷は救助信号の旗を揚げた。工藤は、ある信念を貫いた。それは、彼が海軍兵学校のころから教育された、武士道だった。”敵とて、人間。弱っている敵を助けずしてフェアーな戦いはできない。それが武士道である”と。日本兵は全力でイギリス兵の救助に当たった。
甲板上では、油や汚物にまみれていたイギリス兵の体を、木綿の布とアルコールで優しく拭き、更に、日本兵にとっても貴重な水や食料を惜しみなく与えた。
そんな時、一人の日本人乗組員が
「艦長、このまま救助を続けると、戦闘になった時、燃料が足りなくなると言っています。」
「構わん。漂流者は一人も見逃すな。」
その後も工藤は、たとえ遠方に、一人の生存者がいても、船を停止し救助させた。そして、溺れていた全てのイギリス兵を救助した。その数は、「雷」の乗組員の2倍近い、422人にのぼった。しかし、イギリス兵は捕虜である。身には変わりはない。イギリス兵達は何をされるのか不安であった。
工藤は彼らの前に立ち、英語でこう伝えた。
「諸官は勇敢に戦った。諸官は日本海軍の名誉あるゲストである。」
救助されたイギリス兵は翌日、ボルネオ島近辺で病院船に引き渡された。救助されたイギリス兵の一人、サムエル・フォールは戦後、外交官としてサーの称号を得た。彼は自らの人生を一冊の本にまとめた。その1ページ目にはこう書かれている。
「この本を、私の人生に運を与えてくれた家族、そして、私を救ってくれた”工藤俊作”に捧げます」
駆逐艦「雷」はその後撃沈され、乗組員はほぼ全員が死亡、艦長工藤俊作は別の艦に移動していており、戦後日本へ帰国したがこの経験をいっさい語らずに、昭和54年死亡した。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます