東京都目黒区にある坂の名前です。
江戸時代、菅沼権之助という名主がいた。権之助は村人の苦しい生活をみかねて、年貢米へ減らすよう頼んだが逆に罪に問われた。刑場に引かれて行く権之助が、この坂の上から我が家を望んだとのこと。後に村人達は、この坂を「権之助坂」と名付けたそうです。
東京都目黒区にある坂の名前です。
江戸時代、菅沼権之助という名主がいた。権之助は村人の苦しい生活をみかねて、年貢米へ減らすよう頼んだが逆に罪に問われた。刑場に引かれて行く権之助が、この坂の上から我が家を望んだとのこと。後に村人達は、この坂を「権之助坂」と名付けたそうです。
真田信之時代に「三百石 菅沼九兵衛」「ニ百石 菅沼次郎右衛門」の二流あった。
九兵衛は信之の小姓を勤めていた時、馬場主水という家臣が追放された事を
恨んで、「信之が大阪の役で豊臣方へ内通して、金銀、矢の根、玉薬を密かに
送りこんでいた」と幕府に訴え出る事件が起こった。幕府が主水に対して証拠を
求めると主水は「拙者は忍びの者ゆえ秘そかに指図されているので同席した
者もなく、従って証人はありません。しかし大阪城より返書を持参した時、
人払いをされたが「菅沼」という小姓だけが伊豆守(信之)殿の前にいました」
と答えた。この証言により当時17歳の九兵衛は評定所に呼び出され
主水と対決となった。その時主水は「書状持参した時貴殿は寝所の
伊豆守殿の前にいた。伊豆守殿は書状を読み終わると押し丸めて酒膳の
傍らへ投げ捨てたではないか」と九兵衛に問うと九兵衛は「伊豆守等身者と
いいながら寝所へ酒膳を持ち込む事はありません。また伊豆守はそれ程
大切な書状を焼き捨てもせず投げ捨てるような不覚者ではありません。
普通の書状でもむざと捨てるようなことはないものです」。とはっきり申し立てた
ので、証拠となるものは無く主水の敗訴となった。これにより九兵衛は
取立てられ九百石の高禄となったが、明治四年廃藩当時の菅沼家の
家禄は百二十石。
とのことです。 真田部屋より引用
旧幕府徹底抗戦派の中心である彰義隊は、江戸城無血開城後も上野寛永寺に立てこもっていた。新政府軍は大村益次郎にこれを攻撃させた。勝敗はたった一日で新政府軍の勝利に終り、彰義隊はほぼ壊滅した。
徳川家海軍副総裁の榎本武揚等は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓にあたらせようと画策する。幕府軍艦開陽丸にて江戸を脱出、函館五稜郭に函館府を設置し統治しようと画策した。これに新撰組の土方歳三や彰義隊生き残り渋沢成一郎・菅沼三五郎等も加わる。しかし新政府軍に攻撃され、榎本等は降伏した。これにより戊辰戦争は終結を迎える。
ここに出てくる旧幕臣菅沼三五郎であるが、函館戦争で負傷し、まもなく亡くなったようである。土方歳三もここで戦死している。
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木曾義仲・巴御前・松尾芭蕉などの墓がある。義仲寺(ぎちゅうじ)という。ここに菅沼曲水の墓が昭和になってから立てられたという。
― 膳所藩士菅沼曲翠(初め曲水)は、芭蕉翁の最も信頼した門人の一人であった。幻住庵は曲翠が翁に提供したものである。享保2年(1717)7月20日、曲翠は藩の悪家老曽我権太夫を槍をとって刺殺し、自らも責任をとって切腹した。翁は「幻住庵記」に「勇士曲水」と記し、また、初見の印象を「ただ者に非ず」と言っている。
この事情から、没後曲翠の墓は造られなかった。昭和44年(1969)7月、膳所不動寺筋(現・中庄1丁目)の旧址に「菅沼曲翠邸址」の碑を建て、年々の忌日に法要を行う。昭和48年当寺内に「曲翠墓」を建立。没後257年初めての建墓である。 ―
ということである。
野田城の戦いの後 謙信が定盈に送った書状だそうです。
追って甲州出張の砌、其の表において戦功を抽んぜらるるよし、感じ入り候、内々其の口心元なきところ、家康より両便をもって、いよいよ入魂あるべきよし承り候、これによって、無二無三に申し談すべき子細、誓詞をもって申し合わせ候、然るべきよう演説まかせ入るまでに候。書夜其の口にあり、粗骨をつくさるるのよし、比類なく候、何様当方において油断あるまじく候、心易かるべく候、なお、かの両人口裏にあるべく候。
恐々謹言
八月朔日 謙信(花押)
菅沼新八郎殿
女神湖から見える蓼科山です。
丸く突き出たその山容は美しく、日本百名山に選ばれている山です。初心者にも容易に登れる山として登山客が多く訪れます。