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菅沼家ルーツ

宮城谷昌光氏の小説「風は山河より」で菅沼家3代が主人公になっていました。
菅沼家のルーツを探って見たいと思います。

武士の名前②

2009-07-08 05:03:48 | 菅沼家ルーツ

武士の名前は複雑です。菅沼定盈の場合でみてみると、菅沼織部正源定盈とか菅沼新八郎源定盈という長い名前になる。菅沼が名字・織部正は官職名・新八郎は通称・源は氏・定盈は諱である。また幼名は竹千代。

こういった名前の表現が、明治になって、諱と通称を併称することが公式に廃止されている。すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することになり、それまで複数の名(諱および通称ならびに号等)を持っていた者は、それぞれ自身ので選択したものを「名」として登録し、改名は禁止された。という事です。


武士の名前 

2009-07-07 20:09:11 | 菅沼家ルーツ

私の曽々祖父の調査をしたときに、その妻の出身地と親の名前が戸籍に書いてありました。士族の娘と聞いていたので、藩の資料を探したところ、運良くその年代の分限帳が見つかりました。親の名前は山口脩とかかれていたので、山口姓を探してみたところ、4名いました。

番頭 500石 山口図書

目付 100俵 山口武曹

番士 100石 山口鍵太郎

番士 15人扶持 山口左右吉

しかしどこにも脩という名前はありませんでした。

 武士の名前は通常、姓・通称・諱(いみな)で構成されているとのことです。たとえば、菅沼新八郎定盈の場合、姓は菅沼、通称は新八郎、諱は定盈です。諱名は親しい間柄でも呼んではならず、大名や旗本が将軍に名前を披露する時でも呼ばず、本人も普段から用いなかったそうです。本当の名前を知られると、相手に支配されるという迷信から来ているようです。書に記されるときも用いられないとのこと(正式文書には記したようです)。だが明治になった時に、菅沼新八郎と登録したか、菅沼定盈と登録したか、あるいはまったく違う名前にしてしまった人もいたようです。これではまったく解らない。壁にぶち当たってしまいました。


東山道鎮撫総督 官軍文書

2009-07-05 16:19:43 | 菅沼家ルーツ

 官軍の東山道鎮撫総督は岩倉具定(岩倉具視の次男)だったそうです。後に学習院院長・宮内大臣を務めた人です。其の東山道鎮撫総督が出した文書が家にありました。ただこれは原本ではなく、曽々祖父か曽祖父が写したものかもしれません。

官軍は東海道・東山道・北陸道に分かれて江戸を目指した

文書の一部です

何故このようなものが家にあるのか不明です。


明治初期の学校

2009-07-05 10:19:39 | 菅沼家ルーツ

私の曽々祖父(ひぃひぃおじいさん)は元士族で、その後教師になったようです。其の頃の教科書が家にありました。

こんな様子で授業をしていたんでしょうか。教科書の挿絵です。

明治時代の教科書の一部です

家にはあまり古いものは残っていないのですが、いくつかありますので公開してみたいと思います。とにかく貧乏な家だったので、金目のものはすべて食い扶持に消えてしまったようです。

 


私のこと

2009-07-03 19:36:35 | 菅沼家ルーツ

 私のことをあまり述べていなかったのですが、30歳前後の時に、山岡荘八の徳川家康を読んだときに、菅沼一族、山家三方衆などを知りました。以前、父親か祖父から家の先祖は三河の出身、と聞いたことがありましたので、あぁこれかと思いました。まぁ、その頃はあまり興味がなかったので、それ以上調べてみようとも思いませんでした。しかし最近、宮城谷昌光氏の「風は山河より」が発刊されて、興味が湧き起こってきたのです。本は出るのを待って全巻買って読みました。

 ただ本当に自分の家が三河出身なのかは、解りません。解っているのは、私より5代前の先祖が士族であり、明治になってからは教員をしていたことぐらいです。そこから先は簡単にわかるかと思ったのですが、いまだ不明です。というのもその先祖がずっと今の地にいたのではなく、幕末から明治のはじめ頃、どこからか来たらしいのです。家もその後相当貧乏したらしく、私が子供の頃、家に残っていたのは、昔槍の柄だったという麺棒ぐらいでした(笑)。まぁそんなことでこのブログを立ち上げてみたわけです。


ネタ切れ

2009-07-02 05:53:21 | 菅沼家ルーツ
菅沼家のことについて、あれこれ掲載していますが、ネタ探しが大変です。本当は図書館などに通って調べてみたいところですが、現役サラリーマンである私には時間がありません。ましてこの大不況の時代、へっぽこ管理職ではありますが、何とかしようともがくあまり、残業・休日返上を続け、奮闘中であります。で・・・・すこし更新をサボっております。m(__)m

紫陽花

2009-06-21 16:20:58 | 菅沼家ルーツ

 今日は夏至。梅雨のむし暑い日が続いております。雨の季節に似合う花、紫陽花の画像です。寺の山門の前に咲いていました。

寺といえば今までいくつか菅沼氏ゆかりの寺を紹介してきました。

新城 宗堅寺

京都 宗堅寺

新城 鳳来寺

湖西 岩松寺

東松山 浄空院

吉井 玄太寺

安中 海雲寺

等々・・・・たぶん他にもあるのでしょうが


岩手県遠野士族名簿

2009-06-21 04:42:05 | 菅沼家ルーツ

岩手県遠野士族名簿に菅沼要右衛門(仙太郎)菅沼藤左衛門(政吉)がみられる。

明治になって藩閥政治に反対し、国会を開き、国民の権利と議会政治の実現を求める自由民権運動は、岩手でもさかんになった。盛岡に鈴木舎定を中心に「求我社」が結成され、同じころ、遠野には「開進社」が結成された。
 求我社や開進社で運動した人々は、その後、岩手自由党をつくり、県議会に進出した。遠野の自由民権運動は、山名宗真たちに受け継がれ、中央の愛国社と連携して政治活動をすすめるとともに、地域の産業開発の運動にも取り組んだ。

〔開進社の人びと〕
 開進社は山名宗真が主唱して結成され、菅沼仙太郎が中心になった。旧士族の人々が集まった。
 菅沼仙太郎・脇山義保・高橋沁太郎・柳田豊治・遊田研吉らは県議会に進出し、遊田研吉は衆議院議員にもなった。和田隆秀や柳田豊治は遠野町長になった。山名宗真は産業振興の運動をすすめた。
 
とのことである。遠野菅沼氏はどの系統だろうか。