武士の名前は複雑です。菅沼定盈の場合でみてみると、菅沼織部正源定盈とか菅沼新八郎源定盈という長い名前になる。菅沼が名字・織部正は官職名・新八郎は通称・源は氏・定盈は諱である。また幼名は竹千代。
こういった名前の表現が、明治になって、諱と通称を併称することが公式に廃止されている。すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することになり、それまで複数の名(諱および通称ならびに号等)を持っていた者は、それぞれ自身ので選択したものを「名」として登録し、改名は禁止された。という事です。
武士の名前は複雑です。菅沼定盈の場合でみてみると、菅沼織部正源定盈とか菅沼新八郎源定盈という長い名前になる。菅沼が名字・織部正は官職名・新八郎は通称・源は氏・定盈は諱である。また幼名は竹千代。
こういった名前の表現が、明治になって、諱と通称を併称することが公式に廃止されている。すべて国民は戸籍に「氏」及び「名」を登録することになり、それまで複数の名(諱および通称ならびに号等)を持っていた者は、それぞれ自身ので選択したものを「名」として登録し、改名は禁止された。という事です。
私の曽々祖父の調査をしたときに、その妻の出身地と親の名前が戸籍に書いてありました。士族の娘と聞いていたので、藩の資料を探したところ、運良くその年代の分限帳が見つかりました。親の名前は山口脩とかかれていたので、山口姓を探してみたところ、4名いました。
番頭 500石 山口図書
目付 100俵 山口武曹
番士 100石 山口鍵太郎
番士 15人扶持 山口左右吉
しかしどこにも脩という名前はありませんでした。
武士の名前は通常、姓・通称・諱(いみな)で構成されているとのことです。たとえば、菅沼新八郎定盈の場合、姓は菅沼、通称は新八郎、諱は定盈です。諱名は親しい間柄でも呼んではならず、大名や旗本が将軍に名前を披露する時でも呼ばず、本人も普段から用いなかったそうです。本当の名前を知られると、相手に支配されるという迷信から来ているようです。書に記されるときも用いられないとのこと(正式文書には記したようです)。だが明治になった時に、菅沼新八郎と登録したか、菅沼定盈と登録したか、あるいはまったく違う名前にしてしまった人もいたようです。これではまったく解らない。壁にぶち当たってしまいました。
私の曽々祖父(ひぃひぃおじいさん)は元士族で、その後教師になったようです。其の頃の教科書が家にありました。
こんな様子で授業をしていたんでしょうか。教科書の挿絵です。
明治時代の教科書の一部です
家にはあまり古いものは残っていないのですが、いくつかありますので公開してみたいと思います。とにかく貧乏な家だったので、金目のものはすべて食い扶持に消えてしまったようです。
家系の調査をするのに、どんな本がどこにあるか調べるのに便利です。寛政重修諸家譜や姓氏家系大辞典など置いていない図書館もありますので・・・・・。
一度試してみて下さい。ただ私はなかなか時間がないので今のところ図書館へも行っていませんが・・・・。
私のことをあまり述べていなかったのですが、30歳前後の時に、山岡荘八の徳川家康を読んだときに、菅沼一族、山家三方衆などを知りました。以前、父親か祖父から家の先祖は三河の出身、と聞いたことがありましたので、あぁこれかと思いました。まぁ、その頃はあまり興味がなかったので、それ以上調べてみようとも思いませんでした。しかし最近、宮城谷昌光氏の「風は山河より」が発刊されて、興味が湧き起こってきたのです。本は出るのを待って全巻買って読みました。
ただ本当に自分の家が三河出身なのかは、解りません。解っているのは、私より5代前の先祖が士族であり、明治になってからは教員をしていたことぐらいです。そこから先は簡単にわかるかと思ったのですが、いまだ不明です。というのもその先祖がずっと今の地にいたのではなく、幕末から明治のはじめ頃、どこからか来たらしいのです。家もその後相当貧乏したらしく、私が子供の頃、家に残っていたのは、昔槍の柄だったという麺棒ぐらいでした(笑)。まぁそんなことでこのブログを立ち上げてみたわけです。
岩手県遠野士族名簿に菅沼要右衛門(仙太郎)・菅沼藤左衛門(政吉)がみられる。
明治になって藩閥政治に反対し、国会を開き、国民の権利と議会政治の実現を求める自由民権運動は、岩手でもさかんになった。盛岡に鈴木舎定を中心に「求我社」が結成され、同じころ、遠野には「開進社」が結成された。
求我社や開進社で運動した人々は、その後、岩手自由党をつくり、県議会に進出した。遠野の自由民権運動は、山名宗真たちに受け継がれ、中央の愛国社と連携して政治活動をすすめるとともに、地域の産業開発の運動にも取り組んだ。