goo blog サービス終了のお知らせ 

菅沼家ルーツ

宮城谷昌光氏の小説「風は山河より」で菅沼家3代が主人公になっていました。
菅沼家のルーツを探って見たいと思います。

埼玉県苗字辞典の転載⑥川越藩秋元氏家臣

2011-05-05 22:17:49 | 菅沼家ルーツ
川越藩秋元氏家臣 天保二年山形旧家取調帳に「高百五十石・小暮小十郎(改菅沼久兵衛、寛永十年惣社より谷村へ御所替の節御帳に有り)、
二代菅沼善左衛門、高十三人扶持・六代菅沼小十郎(初善左衛門)」。
明治四年館林藩士族帳に「農兵奉行・百石・菅沼小十郎」あり。

埼玉県苗字辞典の転載③鉢形城士の菅沼氏

2011-05-05 22:01:07 | 菅沼家ルーツ
鉢形城士の菅沼氏 鉢形分限帳に「本国備州妙加・荒川住・菅沼織部、本国紀州日高・菅沼宗太」あり。
備州(岡山県、広島県)に妙加村は無し。
安芸国豊田郡名荷村(広島県瀬戸田町)のことか、但し此氏現存無し。
和歌山県日高郡にも現存無し。
分限帳の本国は信用できず。
秩父郡贄川村出身なり。

埼玉県苗字辞典の転載①

2011-05-05 21:50:22 | 菅沼家ルーツ
埼玉県苗字辞典をいくつかに分けて転載してみます。
この方が見やすいと思いますので・・・・

榛沢郡菅沼村(川本町)あり、天正七年篠場文書(長命寺)に菅沼旦那衆と見ゆ。
また、秩父郡古大滝村字麻布附近を菅沼郷と唱へる、
入間郡堂山村最勝寺嘉吉三年大般若経奥書に「武州秩父郡菅沼郷麻布村大慶庵書之」と見ゆ。
○群馬県館林市四十三戸。
○栃木県下都賀郡大平町十五戸、小山市五十七戸。
○長野県下伊那郡松川町三十五戸、大鹿村十六戸、豊丘村四十六戸、飯田市百四十戸、駒ヶ根市四十二戸。
○新潟県西蒲原郡分水町二十三戸。○福島県耶麻郡猪苗代町十五戸。○岩手県北上市三十戸あり。

菅沼与太夫(よだゆう)

2011-04-09 15:16:12 | 菅沼家ルーツ
ジョンカモンさんの質問を転載いたしました。

400年以上も昔のことです。長篠合戦の頃に先祖で「与大夫(与太夫)よだゆう」という人がいました。彼はその後、長篠(現新城市)地方から現在の豊橋市に移住したそうです。 長篠地方にいたかどうかを知りたい。

その時の年齢は不明です。戦国武士またはその子供(幼名?)だと思われます。系図らしきものによれば、新城野田菅沼の定村(法名より判明)の子孫とありました。この「よだゆう」という呼び名から、どんな人物像とか所以とか考えられることは何かあるでしょうか?

長篠合戦で敗退した田峯城・城主の菅沼定忠がその1年後に城内96人殺し事件がありました。その時、自分の妻、幼子を逃がしているとのことで、その逃亡ルート(最終的には静岡県湖西市新所へ)の中途位置と時期が「よだゆう」に関係あるのかもと、全くの思いつきですが、ふと気にしておるこの頃です。

先の質問の補足(追加)です。

①田峯の定忠にはその子供がいた記録はあるのだろうか?

②長篠合戦の後、先祖が住み始めた土地は、実は野田(野田は家康側)の領地であったのですが、武田側(田峰)の血筋の者が居住できたのだろうか?

③もし、先祖の言い伝え通りで野田城主の家系であるとするなら、定村の次男の虎之助(幽閉されたとあるが)またはその子、新蔵が母親とともに逃げてきたのだろうか?

定忠の子供(たぶん幼子)および定村の子孫の虎之助と新蔵についての情報などをお持ちの方、ご教授いただきたいです。

菅沼神楽

2010-05-23 16:26:26 | 菅沼家ルーツ

以前に全国の地名で菅沼を紹介したのですが、結構もれているようです。

新潟県長岡市千石沢に菅沼というところがあるようです。

そこの菅沼十二大明神に伝わる室町時代から続く神楽が

「菅沼神楽」と呼ばれていて、市の指定文化財になっているとのことです。

そういえば長岡藩牧野氏家臣にも菅沼姓の人がいたようです。

何か関係があるのでしょうか?


奥州葛西浪人 菅沼氏

2010-04-10 10:03:24 | 菅沼家ルーツ

奥州葛西氏は豊臣秀吉によって滅ぼされたとされています。

その家臣に菅沼氏がいたようです。

南部遠野藩では

赤羽根屋として商売を営んでいたが、

藩に貢献したことにより、

その一族の中から士分に取り立てられたものがいたとのことです。