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菅沼家ルーツ

宮城谷昌光氏の小説「風は山河より」で菅沼家3代が主人公になっていました。
菅沼家のルーツを探って見たいと思います。

中津藩菅沼氏

2011-06-15 01:11:21 | 菅沼家ルーツ
中津藩の資料に笠松奉行衆菅沼孫右衛門というのが見えます。

また福沢諭吉の福翁自伝にも亡兄の朋友菅沼孫右衛門というのがあります。

同じく福翁自伝に菅沼新五右衛門という人も出てきます。

郡上藩菅沼氏

2011-06-10 00:20:16 | 菅沼家ルーツ
幕末、郡上藩では、幕府を助けるか官軍に従うかということで悩む。

表向きは尊王派として新政府軍への忠誠を示しつつも官軍に兵を出さず、

佐幕派が勝利した時のために、江戸詰めの郡上藩青山家の藩士を脱藩させ

家老朝比奈藤兵衛の息子、17才の朝比奈茂吉を隊長とする40数名で「凌霜隊」を結成、会津へ向かった。

会津では白虎隊と一緒に戦ったが降伏。

捕えられ、江戸に護送後は罪人として旧郡上藩へ預けられ投獄された。

その数は26人になっていたという。

やがて許されることになったが、藩の為に凌霜隊に従事した隊士達は、

手のひらを返したような郡上藩の仕打ちに嫌気が指し、郡上を去ったという。

その「凌霜隊」に菅沼銑十郎という隊士がいた。

下野の小山の戦いで重傷を負い、会津までたどり着くがそこで死亡したと記されている。

42歳であった。

淀藩士 菅沼氏

2011-06-08 04:24:08 | 菅沼家ルーツ
菅沼定之は 嘉永元年 淀藩の藩士だった菅沼新三郎の次男として生まれました。

体は丈夫ではありませんでしたが 若い頃から算術が得意で勉学にも熱心だった。

定之は その後 従兄の岳行蔵と言う人物が氷上町田中の安田耕逸と親交が

あったと言う縁で 安田家に世話になるようになりました。
 
ここで 小島省斎にも学んで儒学を修めた定之は 安田家の家庭教師となりましたが
 
その後これを辞して 私塾を開き多くの人たちを教授していました。
 
ところが もともと体の弱かった定之は 静かな所で静養を・・・と考え
 
北由良の安養寺に居を移し当時の住職 魯法和尚と同居しながら子弟たちを教授していましたが
 
数ヶ月後には自らの死期を悟ります。
 
そして 弟子や周りの人々に自分の葬儀の事などを託すと
 
明治19年11月12日に39歳の若さで静かに息を引き取りました。

・・・・・と記されています。


山家藩士 菅沼氏

2011-06-08 04:00:50 | 菅沼家ルーツ
山家藩(やまがはん)は、丹波国何鹿郡(いかるがぐん)山家周辺を領有した藩。

その藩士に菅沼氏がいたようです。

明治二年の版籍奉還時の記録には、小参事軍事掛 菅沼通顕 とあります

警察のような役職でしょうか。

東三河

2011-05-15 06:56:17 | 菅沼家ルーツ

鳳来寺山よりの風景です。
とても気持ちの良い場所でした。

長篠城址 
祭りののぼりはまだ立っていませんでしたが、
菅沼氏ののぼりを立てる予定の場所がありました。

田峯観音 歌舞伎の由来


今回、訪問した地はどこもすがすがしい場所でした。

また、そのうちに訪問してみたいと思います。

東三河へ

2011-05-08 22:36:51 | 菅沼家ルーツ
5月1日~3日、南信州と三河方面へ行ってきました。

田峯城・長篠城・鳳来寺など菅沼氏ゆかりの地も訪問してみました。

長篠城址ではちょうどのぼり祭りの準備をしていました。

5月5日にまつりが行われるとのこと。

記念館では「野田合戦と新城菅沼家」の特別展をやっていました。

設楽原歴史資料館と合わせて見学してきました。

田峯城は物見台から眺める景色が素晴らしかったです。


長篠城祉

田峯城

田峯城物見台より






前橋藩士 山口図書 武曹について

2011-05-06 13:51:42 | 菅沼家ルーツ
以前にこのブログで前橋藩士・山口家のことについて触れたのですが

その時コメントをいただいていた図書のご子孫の山口様。

コメントを見た方からぜひ連絡をとってみたいとのことです。

もし差し支えなければ、このブログの右側にある「メッセージを送る」より

ご連絡をいただきたいと存じます。

山口図書が本家で、山口武曹が分家筋にあたるのだそうです。

書籍には、山口武曹は箱田村(現渋川市北橘町)で帰農し、

その子孫は村議会議員や村長を務めたそうです。

下箱田には分家もあるようです。

ただ山口図書のほうは、明治になってどうしたかわかりません。

文政~嘉永年間の前橋藩分限帳にも 大目付 山口織江がみえますね。

こんなところにも山口図書の名がありました。

栃木県指定工芸品

埼玉県苗字辞典⑨ 県内各地の菅沼氏

2011-05-06 13:11:18 | 菅沼家ルーツ
・ 児玉郡下浅見村(児玉町) 児玉記考に「旧家菅沼喜平治、源姓にして祖先は信州上伊那郡菅沼郷下条村菅沼弥次郎高房と云ひ、先に諏訪頼茂に仕へ、後武田勝頼に仕ふ、甲館滅亡後下条村の郷士となり、慶長八年菅沼園右衛門の代に至り当地に来る。園右衛門は地頭朝日寿永近道と元同勤の始めを以って客分たる事久しく、苗字帯刀無税除地四反歩を免さる。先代元達は水戸侯の侍医なり。医師喜平治は眼科術に長ず。現に信州下条村に菅沼家子孫連綿たり」と見ゆ。上伊那郡菅沼郷(駒ヶ根市)に下条村は無し。下伊那郡下條郷あり、明治二十二年陽皐村と睦沢村が合併して下條村となる。陽皐村に菅沼氏二戸現存す。信州菅沼郷は地名附会なり。成就院享保元年庚申塔に菅沼角兵衛、安政七年庚申塔に菅沼喜平治。八幡社元治元年庚申塔に菅沼半左衛門、年不詳に菅沼定八郎、明治二十四年御嶽碑に菅沼良・菅沼新七郎。明治九年副戸長菅沼喜平治。西富田村宥宝寺明治十二年玉垣碑に下浅見村菅沼周伯あり。四戸現存す。次項参照。

・  賀美郡元阿保村(神川町) 古郡村安光寺嘉永元年地蔵尊にアホ・菅沼玄達あり。現存無し。

・  榛沢郡菅沼村(川本町) 気楽流柔術菅沼勇輔(良金、享和二年生、明治三年没)は邸内(飛田家屋敷百八番地)に道場を開き、門弟三千人に及ぶ。本名飛田氏にて、菅沼氏は現存無し。

・  秩父郡贄川村(荒川村) 当村に此氏多く存す。

・  雑載 昭和三年興信録・所得税に「静村(栗橋町)・菅沼市三・九円、川越市・菅沼房吉・二十三円、松山町・菅沼昇一郎・十円」あり。


以上 

埼玉県苗字辞典より転載させていただきました。

埼玉県苗字辞典⑧ 県内各地の菅沼氏

2011-05-06 10:12:09 | 菅沼家ルーツ
・ 新座郡野火止宿(新座市) 大和田町善光明寺嘉永四年碑に野火止村菅沼弥輔あり。一戸現存す。

・ 入間郡川越町 明治三十五年提灯屋菅沼磯五郎あり。小仙波町に十三戸現存す。

・ 比企郡三保谷村(川島町) 当村に此氏の旧家あり。四戸現存す。

・ 同郡正代村(東松山市) 御霊社北文化九年碑に正代村菅沼文蔵。明治二十八年蚕業菅沼勘三郎あり。二戸現存す。

・ 児玉郡児玉町 明治四十四年東上鉄道株主菅沼源作・百十一株所有あり。現存無し。


埼玉県苗字辞典の転載⑦ 県内各地の菅沼氏

2011-05-05 22:26:22 | 菅沼家ルーツ
・ 葛飾郡大川戸村(松伏町) 八幡社慶応三年御神燈に新川・菅沼喜左衛門あり。現存無し。

・ 同郡栗橋宿 明治九年副戸長菅沼久兵衛・天保八年生。明治三十年人名録に旅舎稲荷屋菅沼友吉・嘉永五年生あり。三戸現存す。

・ 埼玉郡小林村(菖蒲町) 東福院天保三年庚申塔に菅沼勘三郎あり。一戸現存す。

・ 同郡麦倉村(北川辺町) 八坂社文政十年御神燈に大島菅沼与右衛門・鍛冶町菅沼次兵衛・曽根菅沼吉平・同所菅沼惣左衛門、文久二年幟碑に菅沼惣治郎・菅沼万吉・菅沼宗右衛門あり。七戸現存す。

・ 同郡前谷村(北川辺町) 上村君村総徳院碑に「埼玉郡旧前谷村・改栄村、元正福院、菅沼佐吉、明治十四年再建」あり。一戸現存す。