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菅沼家ルーツ

宮城谷昌光氏の小説「風は山河より」で菅沼家3代が主人公になっていました。
菅沼家のルーツを探って見たいと思います。

歴史秘話ヒストリア 1月4日

2012-01-08 11:59:49 | 菅沼家ルーツ

1月4日のNHK歴史秘話ヒストリアは長篠・設楽原の戦いでした。

菅沼家の登場はありませんでしたが興味深く見てみました。

新城市の広報しんしろ「ほのか」では昨年4月より

シリーズ長篠・設楽原の戦い[歴史秘話]が連載されています。

こちらも興味深く見させていただいております。

広報しんしろ「ほのか」


謎が拡がる・・・・

2011-07-24 23:02:24 | 菅沼家ルーツ
家の曽曽祖父または曽曽曽祖父が何らかの形で

前橋藩越前松平家に関係していたのではないかと思われるのですが

前橋藩士だったということは伝わっていません。

前橋藩の士族名簿にも菅沼姓はみつけられませんでした。

もし松平家の家臣だったとすると、何となく名の芳男のあとにある「直義」というのが気にかかります。

越前松平家は直を通字として使っていることもあります。

お殿様と同じ字を家臣が使うことがあるのかどうか

あるとすれば云われがあるのではないだろうか。

逆に松平家家臣でなかったとすれば、どうして前橋藩士の娘を嫁にしたのか

謎は拡がるばかりです。

埼玉県苗字辞典 山口氏 以前からの謎解明か?

2011-07-23 17:58:43 | 菅沼家ルーツ
埼玉県苗字辞典山口氏に

二五 川越藩松平大和守家臣 天保十二年川越藩分限帳に「御寄合・五百石・越前取立・山口槙之丞、御馬廻・百石・姫路取立・山口修、御目付・百俵・川越取立・山口織江」。

万延二年川越藩分限帳に「御番頭・五百石・山口図書、嫡子山口新兵衛、御馬廻・百石・山口修、御老体・百石・山口織江、御目付・十人扶持・山口武曹、永詰御雇・五人扶持・山口力造」。

慶応元年地方役人帳に「御奉行・山口武曹」あり

とありました。

ここに山口修という名前が見えます。

多分この人が家の曽曽祖父の妻側の親の「山口脩」の可能性が高いかもしれません。

修と脩の違いはありますがたぶんそうであろうと思います。

我が家の戸籍には曽曽祖父の妻「東群馬郡前橋町山口脩長女もと文久2年三月十日入籍」とありました。

もとは天保十四年八月一日生まれ十九歳で婚姻ということでしょうか。

曽曽祖父の菅沼芳男直義は婚姻時十六歳だったことが解っています。

これが我が家の先祖はどこから来たのか

解明のきっかけになるかもしれません。


再来年の大河ドラマは新島襄の妻   

2011-06-22 20:26:00 | 菅沼家ルーツ
再来年の大河ドラマは新島襄の妻が主人公だそうです。

新島襄は上州安中藩祐筆であった父のもとで板倉家江戸屋敷で生まれ

幕末から明治の激動の時代にあってアメリカからヨーロッパにわたり

帰国後キリスト教の伝道に努め、京都同志社大学を設立する。

その妻八重は会津藩士の娘で悪妻・烈婦・鵺などと呼ばれるほど活発な女性だったようです。

ドラマでは綾瀬はるかが八重を演じるようですが

襄はアメリカ人の友人にあてた手紙で

「彼女は見た目は決して美しくはありません。

ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」

とかいているとのことです。

新島襄に函館でロシア人宣教師のニコライとの仲を取り持った人に

長岡藩士菅沼精一郎という人がいました。

武田斐三郎の武田塾の塾頭だったとのことです。


白虎隊

小幡藩 菅沼氏

2011-06-18 04:21:57 | 菅沼家ルーツ
明治の小幡藩士族名簿に菅沼重右衛門 100石4人扶持がみえます。

また真田家文書目録に小幡藩松平家奉廻状写「摂津守帰邑すべき旨」

林半右衛門・菅沼重右衛門

というのもありました。小幡藩の使いとして松代真田家を訪問した記録でしょうか。

妙法院日記

2011-06-17 04:43:32 | 菅沼家ルーツ
妙法院は京都市東山区にある天台宗の寺です。

その日記に

「先年心觀院樣御三回忌之節、御塔婆被仰付候旨、御法事之節、御家來菅沼幸左衡門殿被相詰候事」

とあります。

心觀院とは徳川家治の正室で34歳で没している。

伊予松山藩 菅沼氏

2011-06-16 19:32:05 | 菅沼家ルーツ
松山藩初代松平隠岐守定行公によって開かれた曹渓山宝林寺は

多くの松山藩士家が菩提寺としました。

その中に御使番菅沼家があるようです。

松山藩文書に大小姓菅沼田鶴衛というのも見えます。