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ブログ版「泥鰌の研究室」

 信州飯田周辺の方言(飯田弁)を発信しながら、日本語について考えていきます。

東条 操の「方言区画論」

2004-11-16 | 方言(飯田弁)一般
方言区画を扱う方言学の一分野で、1927年(昭和2)東条操が提唱した。東条によれば、日本全域は内地方言と沖縄方言に分けられ、内地方言はさらに東部方言・西部方言・九州方言に分けられ、東部方言はさらに北海道方言・東北方言・関東方言に分けられるとする。

方言区画論は、「境界線」をひきながら全国を大から小へ分けて行く方法で、『日本方言学』(1953年 東条操)には、次のような区画が論述されている。

東部方言
 北海道方言
 東北方言(新潟県北部を含む)
 関東方言
 東海東山方言(新潟県・長野・岐阜・山梨・静岡・愛知)
 北陸方言(富山・石川・福井県北部)
 八丈島方言
西部方言
 近畿方言(福井県南部を含む)
 中国方言(出雲・伯耆以外の中国5県および、兵庫・京都の日本海沿岸)
 雲伯方言
 四国方言
 九州方言
 肥筑方言(長崎・佐賀・福岡・熊本)
 豊日方言(大分、宮崎、福岡県行橋以南)
 薩隅方言(鹿児島および宮崎県都城周辺)
琉球方言
 奄美方言
 沖縄方言
 先島方言

東条は、内地方言を大きく「東国方言」と「西国方言」に分け、その境界線が信州の上伊那南部と下伊那北部にあるとした。(「信濃教育」所収)
この境界線の場所を特定したのが福沢武一で、福沢によると、その場所は上伊那南部の大田切川付近だという。

東条 操

2004-11-16 | 方言研究に光を当てた先人たち
東条 操(とうじょう・みさお)1884-1966
 国語学者。広島文理科大学教授、学習院大学教授を歴任した。1940年に日本方言学会を創立し、方言区画論を中心に方言を研究、日本方言学の確立に寄与し、日本方言学の母と呼ばれる。
 柳田國男同様に「信濃教育」等に多くの論文を発表し、信州の研究者に大きな影響を与えた。「方言区画論」を提唱し、柳田の「方言周圏論」と一線を画した。
 著書に「国語学新講」「方言と方言学」「全国方言辞典」「分類方言辞典」がある。「全国方言辞典」「分類方言辞典」は今もなお、研究者にとってはバイブル的存在である。「分類方言辞典」は「標準語引き」で、共通語を引くことで各地の方言を閲覧することができる。

柳田國男の「方言周圏論」

2004-11-16 | 方言(飯田弁)一般
柳田國男は、1930年(昭和5)に『蝸牛考』(かぎゅうこう)を発表し,そのなかで全国に豊富な蝸牛(かたつむり)の方言を整理し,デデムシ系・マイマイツブロ系・カタツムリ系・ツブリ系・ナメクジ系・ミナ系の6系統と,さらに新しい系統とみなされるツノダシ系があることをあげ,その分布状態を示した。その分析のなかから,蝸牛に対する新語が発生すると,元来それをさしていた語が周囲に追いやられる過程が繰り返され,古語の層が新語発生地の周辺に輪状に形成されていき,外周にある語の層ほど発生の古い語であるとの仮説を発表した。これが「方言周圏論」であった。

「方言周圏論」は、2つの点で誤解された。すべての方言語彙が「方言周圏論」で説明できると思われたことと、周圏的な伝播の中心はいつも京都であると考えられたことの2点である。

「カタツムリ」を表わす方言が五重の周圏的分布を示すことは、国立国語研究所が1957年から1964年にかけて調査しまとめた『日本言語地図』の第五巻の「かたつむり」の図で証明されている。また、柳田は自らが調査した32語の方言のうち「カタツムリ」しか分布図を示すことができなかったが、『日本言語地図』全六巻に収められた285語の方言語彙のうち周圏的分布を示すものは「かたつむり」を含めて76語ある。こうしたことから、現在では「方言周圏論」は方言分布を説明するいくつかの原則の中の一つとして有効であると考えられている。

小学館で刊行した、標準語引きの方言大辞典には、次のような記述があるので、参考までに引用する。

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方言周圏論
 柳田國男は著者『蝸牛考』(1930)の中で、通信調査によって全国から集めた「かたつむり」の方言を地図に描き、京都のデデムシを中心として、マイマイ、カタツムリ、ツブリ、ナメクジの順に各種の語形が渦巻状に分布していることを発見した。そして、この分布は京都を中心にナメクジから順に地方に向かって言葉が伝播していったことを意味するという「方言周圏論」を唱え、当時の方言研究者に衝撃を与えた。
 『日本言語地図』を見ると、きわめて多くの地図に周圏分布(ABA分布ともいう)が認められている。しかし、共通の発想や意味のずれなどによって、各地に同一の語形が偶然に生まれることがあるなど、周圏分布が認められても、周圏論が適用できないケースもある。

方言と伝播速度
 歴史の経過の中で、勢力圏を拡大する話があり、一方、伝来の領域を縮小せざるをえなかった語があった。
 では、その歴史の深さは、どれぐらいであろうか。また、たとえば中央で新しく誕生した語は、どれほどの速度で周囲に浸透していくのであろうか。
 文献でその語の発生期がわかれば(たとえば800年前)、領域の広さ(たとえば都から400キロ)との関係で、平均伝播速度(この例なら年速0.5キロ)が計算できる。語により方向により(東西南北)速度はいろいろながら、平均年速0.93キロなる試算がある。そうであれば、この伝播速度とその領域の広さから、逆に文献からは確かめえないある語の発生年代を逆算できると考えることは、そう不自然ではない。
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方言分布の成立は、極めて複雑で、一つの仮説だけでは説明することは困難である。確かに「日本言語地図」に見られるようにきわめて多くの周圏分布をみることはできるが、ある地域にしかない語が存在する事実があるということは、成立の過程において、孤立に変化することや各地で独立に生まれることもある。つまり、方言周圏論は、必ずしも絶対ではなく、方言分布の解釈の仮説が数あるなかの一つにすぎない。

柳田國男

2004-11-15 | 方言研究に光を当てた先人たち
柳田國男(やなぎだ・くにお)
日本民俗学の草分け、民俗学研究の父と称賛される。
兵庫県生まれ。
明治34年(1901)、東京在住の旧飯田藩士・柳田家の養嗣子となり、3年後に養父柳田直平の四女孝と結婚。以来、昭和17年(1942)年まで本籍は祖先の地―飯田にあった。柳田は、墓参りや講演などあわせて7~8回伊那谷を訪れ、そのつど、飯田・下伊那の民俗学徒らと交流し、多くの影響を与えた。
雑誌「信濃教育」、「方言」等々に多くの論文を発表し、方言研究のあり方を示した。柳田の「方言周圏論」は、多くの研究者が賛否両論を展開した。
下伊那の方言研究にあっても方言周圏論をめぐっての論戦が「信濃教育」誌上等に散見されている。

オキャク

2004-11-15 | 飯田弁語彙の解説と考察
慶事で他家へ招かれることを「オキャクニヨバレル」といいます。施主側では、「オキャクニヨブ(ヨバル)」といいます。「婚礼のオキャクニヨバレタ」、「建前のオキャクニヨバレタ」などと使います。
「慶事で」とわざわざ断りを入れたのは、「オキャク」に「ヨバレル」のも「ヨブ」のも「慶事」に限られているからです。葬式に行く場合に「葬式のオキャクニヨバレタ」などとはいいません。これらの場合は、「オトムライ(オトムレエ)ニイク」です。法事も同様です。「四十九日のオキャクニヨバレタ」などとはいいません。
したがって、「オキャク」と単に使った場合は、お祝い事を指すと考えています。

「オキャクニヨバレ」て、出される食事(飯田弁では「ゴッツォ」といいます。ごていねいに「オゴッツォ」とも。)を食べることは「オキャクニナル」、「ゴッツォニナル」となります。
ところが、この「ゴッツォ」を食べる行為は、「慶事」に限られていません。弔事であっても、食事をいただいて帰宅すれば「オキャクニナッテキタ」、「ゴッツォニナッテキタ」などといいます。
前述したように「オキャク」ということばは、「慶事」が一般的です。しかしながら、ゴッツォを食べる行為は、慶事であっても弔事であっても「オキャクニナル」ということは、不思議な事象です。この辺に、ことばの持つ不可思議さがあると思います。
ところで、来客の食事などの接待をすることを「オキュージニデル」、「オキュージヲスル」といいます。「オキュージ」をしながら、客に食べ物をすすめるのです。また、客の相手をすることを「オキラムキ(オキラメキ)ヲスル」といいますが、客の相手をしながら、「オキュージ」同様、客に食べ物をすすめます。
客の側からすると、もう十分にごちそうになって、箸が止まります。主人やその家族はさらに客に食べ物をすすめます。これを「オシイヲスル」といいます。「オシイ」をされた客は、やんわりとこれを「モウ、ジュウブン、オキャクニナッタ」とか、「チョウダイシマシタ」と断りを入れます。
少々脱線しますが、食事の後の挨拶は、飯田・下伊那では「イタダキマシタ」とか「チョウダイシマシタ」と使います。この挨拶が、同じ長野県内であっても、北信や東信の方々には違和感があるようです。同様に東京などへ出た下伊那出身者が食事のあと「イタダキマシタ」と言ったら笑われてしまったなどという話を聞きます。共通語では「ゴチソウサマデシタ」なんです。では、飯田弁はどうして「イタダキマシタ」または「チョウダイシマシタ」なんでしょう。私は、本来は「ゴチソウヲイタダキマシタ(チョウダイシマシタ)」であって、そのうち「ゴチソウヲ」が省略され、「イタダキマシタ」、「チョウダイシマシタ」になったんだろうと思います。
今はそんな風景はなくなりましたが、風呂の場合も同様の挨拶でした。かつて、それぞれの家に風呂がなかった時、ご近所の風呂がある家へ「もらい風呂」に行きました。風呂から出ると、決まって「イタダキマシタ」、「チョウダイシマシタ」と挨拶を交わしました。風呂も一種のごちそうだったのでしょう。ほとんどの家庭に風呂ができ、銭湯の数も減りました。銭湯は浴槽も広くのんびりできるので、私は時折銭湯へ行きます。そんな時、銭湯から帰る方が、番台へ向かって「イタダキマシタ」と挨拶するのを聞くと、温もりを感じます。
「ゴッツォ」を「オキャク」になった話に戻ります。
客は、その家を辞去する時、「チョウダイシマシタ。ソレデハ、ゴメンナイショ。」と挨拶をし、帰路に着くのです。中にはずいぶんとお酒などをいただいたので、「ドエレー、オーチョウダイシチマッテ」と言って帰路に着く方もありました。
何かと気ぜわしい現在の社会では、見られなくなった風景かもしれません。
「オキャク」、そして「イタダキマシタ」、「チョウダイシマシタ」ということばには、人が人を思いやる気持ちが込められているような気がします。