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ブログ版「泥鰌の研究室」

 信州飯田周辺の方言(飯田弁)を発信しながら、日本語について考えていきます。

馬瀬良雄

2004-11-18 | 方言研究に光を当てた先人たち
馬瀬良雄(ませ・よしお)
1927年松本市生まれ。
旧制松本高等学校、信州大学文理学部卒業。
信州大学人文学部教授を1992年に退官し、その後、広島女学院大学教授、フェリス女学院大学教授を歴任した。
現在は、信州大学名誉教授。
主な編著書は「信州の方言」、「東京語アクセント資料」、「長野県史方言編」、「伊那谷の民謡とわらべ歌」、「現代人とことば」等々多数。雑誌、研究誌に発表された論文も多々ある。
多くの研究者・学徒を育て、現在も研究を続けている。
近著に「信州のことば 21世紀への文化遺産」、馬瀬の50年余の方言研究の集大成ともいえる著作である。その前書きで馬瀬は「本書は信州のことばの案内書・概説書である。本書が20世紀の信州のことばを回顧し、その多彩な姿を再発見し、これを愛(め)で、さらには21世紀におけるその発展を願い、その創造者たろうとする方々に、ささやかであれ、お役に立つならば幸せである。」と述べている。
福沢武一が逝去し、信州の方言研究の第一人者は馬瀬ひとりとなった。

福沢武一

2004-11-17 | 方言研究に光を当てた先人たち
福沢武一(ふくざわ・ぶいち)
大正3年、長野県伊那市生まれ。
東大文学部卒業後、昭和48年まで長野県各地の高校に勤務。
長野大学講師、上田女子短期大学教授を歴任した。
万葉集に通じ、古語から方言をさぐる独特の学説は「福沢方言学」と呼ばれた。
平成15年5月15日逝去。
主な著書「信州方言風物誌」「信濃太郎」「万葉省察」「信州文学碑散歩」「上伊那の方言ずくなし」など多数。ほか、「伊那」等々に多数の論文を発表し、多くの研究者・学徒へ与えた影響は多大。
馬瀬良雄とともに、信州方言研究の双璧であった。
平成16年、遺族と屋代高校の教え子の尽力により「北信方言記」(ほおずき書籍)が刊行され、事実上の遺稿集となった。

「方言」「標準語」「共通語」とは

2004-11-17 | 方言(飯田弁)一般
「方言」に対して、「標準語」という語が存在する。飯田・下伊那の「方言書」、町村誌(史)の記述、各種研究論考にもしばしば登場する語である。私は、かねがねこの語の用い方について、疑問を覚えてきた。「標準語」ではなく、「共通語」ではないのかと。
 見坊豪紀『国語学辞典』(1955)によると、「共通語」とは、「一国のどこででも、共通に意思を交換することのできる言語」とされ、国語学界として定着した定義だと考えられている。一方、標準語について、同辞典は、「共通語を洗練し、一定の基準で統制した、理想的な言語」と定義する。

 『標準語と方言』(1977文化庁)に収録された柴田武の論考によると、1949年以前には、共通語と標準語をこのように区別して使う習慣はなかったという。1949年以前には、標準語という用語しかなく、その定義は、神保格『標準語研究』(1941)による「東京の山の手の教養ある人々の言語」とされていたという。これに対して、石黒魯平は、著書『標準語』(1950)で標準語とは、「東京語を土台にして、能率的に、合理的に、情味的に、知性的に、倫理的に、それを高いものにして使おうと日本民族各員が追求する理想的言語体系」とし、神保と意見が対峙していたという。
 これら対峙する定義は別として、標準語ということばの裏には、ことばによって国家の統一をはかるという時の政府の意思が存在していた。すなわち1902年に政府によって作られた国語調査委員会の調査方針のひとつに掲げられた「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」であり、『長野県下伊那郡方言調査書』(1903)もこの視点から調査が行われたに違いない。
 そこで、「方言」とは何かを改めて問うてみたい。共通語が「一国のどこででも、共通に意思を交換することのできる言語」とするならば、方言は、地域に制約された言語であり、ある地域にしか通じない言語ということになる。一方で、1902年の国語調査委員会の調査方針、「ある地域にしか通じない言語(方言)を調査して標準語を選定する」ということは、国家がことばを作るということであり、標準語は、人工的なことばととらえることができる。先に引用した神保と石黒の「標準語」の解釈からすれば、神保のいう標準語は「方言」であり、石黒の定義は人工的なことば、つまりまさに「標準語」をさしている。
 しかしながら、私が抱く疑問は、国語学界の「標準語」、「共通語」という解釈に関係なく、「標準」、「共通」という語感が与えるイメージからくるものである。そもそも、ことばはすべて人工的なものであり、標準語と呼ばれるものも共通語と呼ばれるものも、そして方言と呼ばれるものも人工的なものである。(もっとも先に引用した石黒の定義は、時の為政者が言語を統制するための国家的な人工化であり、方言や共通語が同じ人工的なものであってもその成立過程に違いがあること、根本的には統制のための言語である標準語とそうでない共通語と方言の違いを認めた上での「人工化」という使い分けであることを承知ねがいたい。)
 そんな意識の中で思うことは、方言こそ、その言語が使われる地域の中ではもっともポピュラーな言語、すなわち「標準語」(いくぶん、矛盾を感ずる方もあるかと思うが、ここでいう「標準」には統制的な意味合いは存在しない。)なのではないのか、そうだとするなら、方言集などでしばしば用いる解釈部分は、共通語というべきではないのかという語感からくるこだわりである。
 具体的には、私は、方言調査で話者と向かい合ったとき、話者には決して方言調査であることを伝えていない。つまり、話者が語ろうとする多くの言語は、まぎれもない方言であって、その中から方言語彙を収集することは十分に可能だということである。もし、そこで、方言調査と大見得でも切ってしまったら、話者は構えてしまい、無理をしてでも「共通語」で語ろうとする。そのため、私は、調査に出向いたときは、あえて方言調査とはいわずに昔話をふだんの話し方で語ってもらうことにしている。話者にとって、ふだんのことばこそ、彼らにとっての「標準語」なのである。国語的な定義にこだわる必要はないのである。

飯田・下伊那方言研究小史

2004-11-17 | 方言(飯田弁)一般
『長野県下伊那郡方言調査書』(1903)という報告書がある。郡役所の指示を受けた信濃教育会下伊那部会が方言調査委員会を組織し刊行したもので、下伊那の方言が体系的にまとめられた最初のものである。この内容の一部を小林義暁が、雑誌「風俗畫報」に「信州南部の方言」(1905~10)と題して7回にわたり連載し「飯田弁」を世の中へ紹介した。
 その後、下伊那の方言を全国に発信したのは、井上福實だった。井上は、雑誌「信濃教育」、「方言」、「旅と伝説」、「山村」へしばしば論考を投稿し、中でも「信濃教育」545号に投稿した「下伊那に於ける青大将の方言」(1932)は、時の民俗学の大御所である柳田國男の目にとまり、井上はその後柳田に師事することとなる。そのことは、『信州下伊那郡方言集(私家版)』(1936)の刊行につながっていくのであるが、「方言」誌7巻8号に投稿した「下伊那郡方言調査書語彙抄」(1937)を最後に井上の発信は途絶える。

戦後、下伊那の方言研究は、向山雅重、守屋新助らが「信濃教育」へ論考を投稿するなど細々と行われてきた。そのような状況下、下伊那教育会は、守屋らを調査委員にし、教育会組織をフル活用し、『下伊那郡方言集(中間報告)』 (1953)をまとめた。この方言集は、過去の『長野県下伊那郡方言調査書』、『信州下伊那郡方言集』に比し、登載語彙の数においては、群を抜いており、のちに在京飯田高校同窓会高12・22回実行委員会がまとめる『飯田・下伊那の方言』(1997)の底本となった。
 東條操の『全国方言辞典』(1951)、『標準語引分類方言辞典』(1954)、小学館『日本国語大辞典』(徳川宗賢監修)(1972~76)、『日本方言大辞典』(徳川監修)(1989)には、下伊那の方言も数多く収められているが、その出典のほとんどが、前述の『長野県下伊那郡方言調査書』、『信州下伊那郡方言集』、『下伊那郡方言集(中間報告)』であり、今日でもこの三書が下伊那方言研究の中心となっている。
 戦後、相次いで刊行された町村誌(史)にも方言は、掲載された。しかし、多くは語彙の収録にとどまっていた。
 語彙を収録し、注釈等を加えたのは、馬瀬良雄と福沢武一であった。馬瀬は、民俗学と方言学の共同研究の必要性を「民俗方言地理学の提唱とその実践」(1975)で提起し、馬瀬が執筆を担当した『南信州上村遠山谷の民俗』(1977)、『南信州天龍村大河内の民俗』(1973)で、言語地理学的な観点での研究の方向を示した。一方の福沢は、言語学的な観点から下伊那方言を見つめた。福沢は、「信濃」、「伊那路」、「伊那」へ幾多の論考を寄せ、それらの論考や『上伊那方言ずくなし』(1980上巻、1983下巻)、『しなの方言考』(1982上巻、1983下巻)など自身の著書の中で、語源の解明を追求していった。

徳川宗賢

2004-11-16 | 方言研究に光を当てた先人たち
徳川宗賢(とくがわ・むねまさ)
学習院大学人文学部教授。昭和30年に国立国語研究所(国研)地方言語教室に入り、「日本言語地図」(全6巻)をまとめた。
平成10年1月に「社会言語科学会」を設立し、同学会の初代会長となる。平成11年逝去。「日本方言大辞典」、「日本の方言地図」、「新・方言学を学ぶ人のために」、「関西方言の社会言語学」、「方言地理学の展開」等々、言語学・方言学等々に関する著書多数。
中でも「方言地理学の展開」は、「日本言語地図」の調査・作成、「日本方言大辞典」の編集など、方言研究・方言地理学に精力をそそいできた徳川のはじめての論文集で、現在の方言研究・社会言語学の指針となる書である。