goo blog サービス終了のお知らせ 

ブログ版「泥鰌の研究室」

 信州飯田周辺の方言(飯田弁)を発信しながら、日本語について考えていきます。

キリバン

2007-09-29 | 「信州下伊那郡方言集」採録方言
 『日本の方言地図』(徳川宗賢編 中公新書)によると、全国的な「まな板」を表す語形は、サイバン類・マナイタ類・キリバン類等に分けられるという。
 飯田弁で「まな板」のことを「キリバン」という人はずいぶんと少なくなった。40代後半以上の方であっても「キリバン」派は少数となり、ほとんどの方が「マナイタ」だろう。
 「びちゃる」で紹介した『物類稱呼』には次のように記述されている。

   俎板 まないた 駿河及上総にてきりばんと云 (後略)

 江戸時代に駿河できりばんと言われていたということは駿河から秋葉街道をたどって、キリバンが南信州まで入り込んできたと考えることができる。
 マナイタは、古くは魚を料理するときの道具として使われた。マナとは「真魚」(まな)で魚をさす古語であることから、名前通りの使われ方をしていたのが、マナイタだった。したがって、最初は、魚用のものであって、あとから魚以外の食糧を料理するための「まな板」が登場したらしい。魚以外の食糧を調理する板、それが「キリバン」だった。
 おそらく、当初は、魚用の「マナイタ」と魚以外の食糧(主として野菜)用の「キリバン」とが使い分けられていたはずだ。『信州下伊那郡方言集』が編まれたころは、使い分けはあったとしても、語形としては、キリバンが優勢で「まな板」の総称として使われていたと想像できる。
 日本の方言地図に示される「まな板」の県内の分布は、下伊那に「キリバン」の痕跡を残しているものの、圧倒的に「マナイタ」が優勢である。現在は、マナイタが共通語となってきていることの現れを分布図から垣間見ることができる。

びちゃる

2007-09-29 | 「信州下伊那郡方言集」採録方言
 『物類稱呼』は、安政4(1775)年に江戸(江都)日本橋室坊 越谷吾山によって編まれた日本諸国の方言を集めたもので、江戸の大坂屋平三郎と伊南甚助の両名が出版したわが国最初の「全国方言辞典」であると言われている。
 その『物類稱呼』に次のような記述がある。

 すてると云事を東国にてうっちゃると云 関西にてほかすといふ 東国にてほうるといひ 越州にてほぎなげると云は投やる事なり 伊勢物語に ぬきすを打やりてと有
 此ぬきすは女の手洗ふ所の竹にてあみたる簀のこを云 打やりてを東国に うちやるとつめて云也 (後略)

 『飯伊方言-中国語対訳集』の編集中に代表編集委員の稲垣成夫氏から「びちゃるは、古語の打ち棄るの転訛ではないか」とたずねられたことがあった。当時の氏の話は、次のようであった。

 古語に「打ち棄る(うちやる)」ということばがあって、これが、うちやる→うっちゃる→うびちゃる(うぶちゃる)→びちゃる(ぶちゃる)と転訛して、今の形になったのではないか。(「対訳集編集日誌」)

 先に引用した物類稱呼の記述はまさしく、稲垣氏の推論に的中している。
 稲垣氏は、編集委員会のとき必ず古語辞典を携行していた。ある語彙が議題にあがると、まず古語辞典を引き、古語から方言を追っていた。私は、方言研究のひとつの形を氏から学んだ。

 『全国方言辞典』はぶちゃるを第一とし、びちゃるはその転訛として見出しにしている。

  ぶちゃる(打遣の意)捨てる。群馬県中之条・山梨 ぶちゃーる 越後・長野
  びちゃる →ぶちゃる 捨てる。新潟・長野

 『信州下伊那郡方言集』には、ビチャル・ウビチャルが採録されており、少なくとも編集時点の昭和11年にあっては、現在も使われている「びちゃる」とそれ以前の形「うびちゃる」が併存していたことを示している。現在、「うびちゃる」はあまり聞かれない。
 稲垣氏の推論や物類稱呼の記述に戻るならば、「うちやる」が原型である。したがって、「うびちゃる」は「びちゃる」より古い語と考えてよい。昭和11年の時点でも「うびちゃる」は圧倒的少数派だったのだろう。

ゴトームシ

2005-02-22 | 「信州下伊那郡方言集」採録方言
信州には昆虫を食する習慣がある。
山に囲まれた信州人にとっては、昆虫食は貴重なタンパク源だった。

タイトルの「ゴトームシ」とは、カミキリムシの幼虫である。薪とする槇の木などに生息する。薪割りをすると中からこの幼虫が出てくる。これを火であぶり食した。子どもの疳の虫の虫封じにもなることが「信州下伊那郡方言集」には記述されている。

カジカ

2005-02-07 | 「信州下伊那郡方言集」採録方言
信州下伊那郡方言集の解説
 カジカ 漬菜
    カジカと云ふ川魚と同じで石の下に居るという戯語

 信州下伊那郡方言集には、食物に関する方言も多く採録されている。タイトルの「カジカ」のように、一見すると食べ物とは思えないようなことばも多く採録されているが、いずれも生活の中から生まれたと思われるものばかりで、昭和11年ころの生活のさまをうかがうことができそうである。

いろり

2005-02-01 | 「信州下伊那郡方言集」採録方言
いろりのある家をみかけなくなった。
子どもの頃、母(昭和3年生まれ)の生家へ行くと、大きないろりがあったが、改築したのちは、そのいろりも消えた。
「信州下伊那郡方言集」の奥付には、昭和11年8月4日謄写印刷と刊行された日付が書かれているが、その当時は、多くの家にいろりがあったことであろう。
採録されている語にもいろりに関する記述が多く見られる。

いろりのことを「ヒジロ」と言った。「ヒジロ」の「ヒ」は「火」をさすと考えられる。
いろりの縁は「オクラブチ」、「ヒセンブチ」、「センブチ」と呼ばれた。共通している「ブチ」は「縁」に間違いない。「オクラ」、「セン」は何を示しているか不明。「ヒセンブチ」、「センブチ」は「火」をさす「ヒ」が省略されているかいないかだけの違いで、この語が生まれた背景はおそらく同一だろう。
いろりの中央には、火を焚くための窪みがあった。この窪みを「ヒノツボ」と言う。

いろりの周りには絶えず人がいたが、座る場所は決まっていた。
主人が座る場所は「ヨコザ」、「ダンナザシキ」と言った。
その家の主婦が座る場所は「オンナザシキ」と言った。清内路村では「コシモト」、遠山地方では「ケザ」と言ったと記述がある。
客が座る場所は「オトコザシキ」と言った。
いろりの下座は、「キジリ」、「ヒジリ」、「シタンザ」と言った。この席には、その家の主人、主婦以外の者が座った。「ジリ」とは「尻」である。

いろりにできる灰や熾きにも名前がつけられた。いろりの灰は「ジロベー」、まだ火気が強い灰は「クヨクリ」、薪が燃えてできた熾きは「タキオトシ」と名づけられていた。燃えさしの薪は「モエッキジリ」、付け木用の薪は「ツケンタ」と言った。

薪にも名前があった。枯れた松の樹脂を多く含む部分は、「アカシ」と言い、細く割って焚き付けにしたと解説されている。檜の薪は「バチバチ」と言った。これは燃えるときの音をそのまま薪の名称にしたもの。槇や柏などの薪材は「カナギ」と言った。常緑樹は「アオキ」と言う。細い枝の薪は「モヤ」と言った。

このほかにもいくつかの語が掲載されているが、いずれもライフスタイルの変化とともに消えようとしている(消えた)語だ。おそらくこれらの語の復権はないだろう。方言にはこのような定めがつきまとう。