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ブログ版「泥鰌の研究室」

 信州飯田周辺の方言(飯田弁)を発信しながら、日本語について考えていきます。

青木 千代吉

2006-12-18 | 方言研究に光を当てた先人たち
 青木 千代吉(あおき・ちよきち)
 
 1915年(大正4年)3月28日長野県生まれ。
 昭和12年3月、長野県師範学校専攻科卒業。以後、県内各地の小・中学校に勤務、校長等を歴任した。
 昭和21年から長野県内全域にわたって言語調査を行い、長野県方言の研究を続けた。
 昭和30年から39年に行われた国立国語研究所による「日本言語地図」作成のための長野県調査は青木が担当した。
 「信濃」をはじめとした郷土調査誌へ数多くの方言研究の論文を掲載。昭和23年に刊行された「信州方言読本(語法編、発音編)」(信濃教育会)は代表作。
 長野県の方言研究の先駆け的存在。

 「信州方言読本」は、すでに絶版となっている。「語法編」は各地の古書専門店等にでているが、「発音編」がなかなか見あたらない。どこかにないものかとあちこち探しているところである。

大岩 正仲

2006-11-10 | 方言研究に光を当てた先人たち
大岩 正仲(おおいわ・まさなか)

 元千葉大学教授 国語学者
 
 「日本国語大辞典」(全20巻 小学館)の最終巻の編集後記に次のような記述があるので、引用、転載させていただく。

<ここから引用、転載>
 方言、約四万の原稿は、故大岩正仲氏が全部執筆された。そして、それは、完全原稿とでもいうべき内容のものであったが、…略…
 …略…「大辞典」の方言項目、「全国方言辞典」「分類方言辞典」などを手がけられた大岩氏は、夙に方言大辞典とでも呼ぶべき畢生の大著を計画されて、資料集めにかかっておられた。そして、「日本国語大辞典」の計画をお話すると、その方言項目の執筆を全面的に引き受けられ、合わせて資料の充実をはかる計画を立てられた。…略…執筆方法等が検討され、四十一年から四十四年にかけて、約四万項目を全くお一人で執筆される一方、資料の補充に力を注がれた。そして、当辞典の方言原稿が他のすべての分野にさきがけて完成された頃には、お手元の資料カードもかなりなものになり、いよいよ方言大辞典の執筆にかかられるため、特別の原稿用紙もお作りになられたようである。然るに、その執筆にかかろうとされた時、不運にも病に臥せられてしまった。昭和四十七年六月十九日、帰らぬ人となられた大岩氏の書斎には、膨大な方言資料が残されたのだった。この辞典の原稿執筆のために、ご自身の大著に着手されるのが遅れたのではなかろうかという責めを感ずるとともに、この辞典の第一巻をすらひもといていただけなかったことが悔やまれてならない。
<ここまで引用、転載終わり>

 大岩の残した膨大な方言資料は、徳川宗賢らに引き継がれ、「日本方言大辞典」全3巻の発刊につながっていった。
 徳川は、「日本方言大辞典」の序文で次のように述べている。

<ここから引用、転載>
 この辞典は、諸先輩の残された千を超える各地の方言集を参考にして成った。その基礎となったものは、故大岩正仲教授の収集された方言カードである。…略…教授はこれらをもとに、大方言辞典を計画しておられたのであったが、不幸にして、志なかばに不帰の客となってしまわれたのである。おもえば不肖私がご遺志を継承しようと決心したのは十余年前のことである。
 その後、カード増補に始まって、多くの協力者を得て、今日の形までとりはこぶことができた。
<ここまで引用、転載終わり>

 この大岩の膨大な方言資料の中に「信州下伊那郡方言集」があった。それを発見したのが福沢武一だった。やがて、「信州下伊那郡方言集」のコピーが福沢の手元に届けられ、さらにその写しが私の手元に福沢によってもたらされた。
 私は、福沢の助言を得て、「信州下伊那郡方言集」を執筆した井上福實の著作を探し、それらと「信州下伊那郡方言集」をセットとした新たな「信州下伊那郡方言集」を私家版として井上の三十三回忌の年に作り上げた。思えば、その時からすでに二十年近い年月が流れているが、不肖井上の孫たる私は相変わらず、方言研究の方法を見定めていない。私に方言研究の手法を示唆してくださった黄泉にいる福沢はどんなに歯がゆく思っていることだろうか。

追悼 「福沢武一先生」

2005-10-19 | 方言研究に光を当てた先人たち
 平成2年2月、祖父が昭和11年に編んだ「信州下伊那郡方言集」に出会った。以来、素人ながらことば、特に「方言」が持つ不思議さ、魅力に惹かれ、方言の収集を始めた。
 「信州下伊那郡方言集」は、祖父が他界したのち、遺品を整理するうちに我が家からも消え、長い間、その存在そのものも疑われるものとなっていた。それを捜し当てたのが、長野県の方言研究の第一人者福沢武一先生であった。先生は、万葉学者であるとともに、長野県の方言を長い間、調査され、「しなの方言考」など方言に関する著書、論文も多く、その考察は、独特のもので、「福沢方言学」と呼ばれていた。
 どうしても福沢先生にお会いして、「福沢方言学」の一端に触れなければならない。そう思って、平成10年3月14日、伊那市の先生宅に出掛けた。
 先生は、そのとき83歳になられたとのことであったが、ことばに対する学究は、ますます壮んで、次から次へと関連の書籍を提示されながら、方言研究のあり方を示唆してくださった。
 現在、日本各地で出されている「方言集」は、そのほとんどが、単語をならべ、共通語の意味を書き連ねている。いわば辞書のようなものである。ところが、福沢方言学は、辞書的な方言集を発展させ、そのことばの成り立ちまでに追求するというもので、万葉学者ならではの手法をとっている。
 
 方言は「いわれなきもの」に思われ勝ちですが、なかなか、真理の担い手です。互いに突き合わせることによって方言の真意が明かされ、同様に、共通語・古語の真意も明かされてきます。方言は日本語解明の金の鍵なのです。(しなの方言考)

 「私は、言語学、民俗学の全くの素人ゆえに福沢方言学はとても実行などはできません。」と先生に申し上げた。すると先生は、「私も最初は素人でした。何度もやっていくうちにコツが見えてきますよ。」とおっしゃり、「現在は、ことばが記号化しています。日本人ほど、自国語を粗末にしている民族はないでしょう。」と付け加えられた。   

 私の考えはいささか違います。むしろ田舎じみた粗野な言葉の中にこそ血が流れています。血とは、言葉を作り、これを使い、これを育てた人々の心が宿っていることを意味します。心とは、理知・感情といったもののすべてです。そうしたものを忘れ勝ちなのが現代人でないかと恐れます。反省してみる必要があるのです。―最高の文化人を自負している私達は、とんでもない野蛮人でなかったか?…と。(中略)      
 言葉は父祖と共に息づいていました。それに比べたら、私たちはどうでしょう。言葉は記号にすぎません。言葉と私たちは離ればなれです。私たちはあてがわれたものを無神経に受けとっているだけのことです。言葉は死に、私たち自身も死んでしまっているのではないでしょうか?(前出書)

 福沢先生が示された方言研究の一例をあげてみる。
 下伊那にある「ミショ」「ミシテ」「ミチョー」「ミテミョー」などのことばは「見る」あるいは「見せて」といった意味のものである。これらのことばは微妙に意味が異なっている。どういう時に使うのだろうか。
  「見せてくれ」→「ミショ」「ミシテ」
  「見てごらん」→「ミテミョー」
  「見なさい」→「ミチョー」
 「ミテミョー」のように「~ミョー」という用例がほかにないだろうか。「ミショ」のように「~ショ」という用例はないか。動詞をいくつかあてることで、ほかにどうかという問いかけは解決していく。「貸す」という動詞をあてると「カシテミョー」「カショ」となるように。
 また、伊那谷には、「~ヤレ」という用例の方言がいくつかある。前述の「見る」を例にとると「ミヨヤレ」がそれである。
  「走る」→「トベヤレ」
  「受ける」→「ウケヨヤレ」
  「起きる」→「オキロヤレ」
 いずれも、「動詞の命令形+ヤレ」である。ところが、「ミヨヤレ」とは使うが、「ミロヤレ」とはあまり言わない。「オキロヤレ」とは言うが、「オキヨヤレ」はどうなのか。
 単語の羅列にとどまっている各地の方言集をさらに発展させるには、「ことばづかい」に手を入れることだと福沢先生は話された。
 そして、いくつかの宿題をいただいた。「伊那」誌へ過去7度不定期連載させていただいた「消えていくことばの文化」のうち、数編は、そのときいただいた宿題を自分なりに解明してきたものである。
 
 平成15年5月15日に福沢先生がご逝去されたという訃報に接した。
 先生には、平成10年の先生宅訪問以来、何度となく電話や手紙で方言研究のあり方や手法についてご指導いただいた。
 稲垣成夫氏を中心にまとめた「飯伊方言 中国語対訳集」が完成となり、先生にも目を通していただくつもりで先生にお届けしたとき、先生は電話口でまるで自分のことのように喜んでくださった。
 何よりも私を勇気づけてくれたのは、先生から毎年いただいた年賀状だった。
 平成12年1月号に連載その4として「おかいこさま」と題し、養蚕に関する方言について紹介をした。本誌は前の月に翌月号が発行されるので、おそらく先生は、駄文を読まれたに違いない。年賀状には、上伊那の養蚕方言のひとつ「ヒキ」について解説されていた。その解説を読むたびに、養蚕方言を羅列しただけではだめなんだという先生の叱声を聞くようで私は身の引き締まる思いをしたものだった。
 平成15年元旦に先生から届いた年賀状のテーマは「ホッコ」だった。これが先生からいただく最後の年賀状になろうとは思ってもいなかった。

  ホッコ・ホッコー (頬被り) 北信北部
 これは次のものに直縁がありそう。それにしても、ホッコのコは何か? 北信の方言学者が次のように言っている。  
 ホッコ (頬被り) ホホ(頬)に、ヨメッコ(嫁様)・アニッコ(兄さん)などに見られる指小辞コが付いたもの。
 ところが県の内外で頬をホッコと呼ばない。全く別なところにホッコの本義が見出される。
 * ホッコー(焼き芋) 大阪・高知(*は全国方言辞典)
 * ホッコリ 1、暖かいさま。大阪・高知 2、蒸かし芋。大阪・奈良・岡山・壱岐
 これは直ちにヒナタボッコを連想させる。(平成15年1月の年賀状から引用)

 私は、この年賀状を読んだとき、連想する飯田弁があった。「ほっこりしない」である。以前からこの単語がどうして「はかばかしくない、さっぱりしない、はっきりしない、気分がぱっとしない」を意味するのかを考えていた。
 最後の二行を読んだ瞬間、「これだ。」とひらめいた。「ほっこり」は、暖かいさまを意味する。「ほっこりしない」は、暖かいさまではない。だから、気分がぱっとしない、はっきりしないといったことを意味するのではないかと。
 先生からいただいた年賀状がその意味を考え続けてきた「ほっこりしない」に光をあててくれた。

 先生のご冥福をただただ祈るのみである。

井上福實

2004-11-20 | 方言研究に光を当てた先人たち
井上福實(いのうえ・ふくみ)
明治32年長野県下伊那郡山吹村(現高森町)生まれ。
教職に身をおき、その傍らで方言研究を行う。
1932年3月「信濃教育」に発表した論考「下伊那に於ける青大将の方言」が柳田國男に認められ、以後柳田に師事。
1936年「信州下伊那郡方言集」(私家版)を発行。(当時、飯田にあった山村書院からの発行の予定であったが、柳田の教えにより断念。謄写版による印刷となった。)
以後、「山村」、「方言」、「旅と伝説」などにいくつかの論文を発表したが、その発信は「下伊那郡方言調査書語彙集」(「方言」誌1937年10月号)を最後に途絶えた。
昭和40年逝去。
「信州下伊那郡方言集」は、東条操の「全国方言辞典」や徳川宗賢監修の「日本方言大辞典」の採録方言の底本のひとつとなっている。

馬瀬良雄

2004-11-18 | 方言研究に光を当てた先人たち
馬瀬良雄(ませ・よしお)
1927年松本市生まれ。
旧制松本高等学校、信州大学文理学部卒業。
信州大学人文学部教授を1992年に退官し、その後、広島女学院大学教授、フェリス女学院大学教授を歴任した。
現在は、信州大学名誉教授。
主な編著書は「信州の方言」、「東京語アクセント資料」、「長野県史方言編」、「伊那谷の民謡とわらべ歌」、「現代人とことば」等々多数。雑誌、研究誌に発表された論文も多々ある。
多くの研究者・学徒を育て、現在も研究を続けている。
近著に「信州のことば 21世紀への文化遺産」、馬瀬の50年余の方言研究の集大成ともいえる著作である。その前書きで馬瀬は「本書は信州のことばの案内書・概説書である。本書が20世紀の信州のことばを回顧し、その多彩な姿を再発見し、これを愛(め)で、さらには21世紀におけるその発展を願い、その創造者たろうとする方々に、ささやかであれ、お役に立つならば幸せである。」と述べている。
福沢武一が逝去し、信州の方言研究の第一人者は馬瀬ひとりとなった。