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ブログ版「泥鰌の研究室」

 信州飯田周辺の方言(飯田弁)を発信しながら、日本語について考えていきます。

幻の「原本」

2005-03-04 | 井上福實(1899-1965)の方言研究
「信州下伊那郡方言集」は幻の本と言われるほど、原本がない。私が持っているものも福沢武一氏が探し当てた大岩正仲氏(大辞典、全国方言辞典、分類方言辞典などを手がける。)が使い続けた原本のコピーである。

昨年、父の友人であった神村透氏から電話があり、原本を持っているのであなたに差し上げたいということであった。

ほどなく、神村先生から一通の手紙とともに原本が届けられた。
残念ながら、この原本は、表紙と編集後記、中のページにいくつかの欠落があり、完品ではない。しかし、完品ではないとしても、もはや一冊もないかもしれない貴重な資料である。

福沢先生が苦労して探してくださった大岩教授が使ったもののコピーとともに大切に保管しておきたいと思っている。

カッコ

2005-02-07 | 井上福實(1899-1965)の方言研究
「伊那方言雑記(1)」に採録された方言語彙の残りの1編が表題の「カッコ」である。

(以下、引用)
 話の筋は書くまでも無いと思ふあの日本一の屁放爺の昔噺で、隣の慾深爺が殿様の御前でとんだ狼藉に及び、御褒美どころか無礼討の一刀を臀部に浴びせられ血みどろになって帰る時、「婆、カッコ焼け。婆、カッコ焼け。」と呼び乍ら帰るのを、便所の屋根に上って爺様の首尾を待ってゐた慾深婆が聞いて「爺殿は殿様から赤い着物を頂戴して来る」と急いで家の中へ這入り家中の襤褸を集めて皆火にくべてしまったと、山吹村あたりの老人連はまだ幼かった私達に話して呉れたものだった。それにしてもカッコ焼けと言ふを聞いて襤褸を焼く婆の仕打が、その話の可笑しさに笑って聞いて居ながらも私などには不審な事であった。カッコと言へば下駄の事しか考へられぬからで、婆が何故、そんな間違をしたのかと幾度か話手の老婆老爺に質しても見たがだれ一人その疑問を解いて呉れる物知は無かった。
 それが此頃やうやく判った。それはカッコが下駄の意味の幼児の言葉であったのみでなく古くは襤褸のことをも又カッコと呼んだと言ふ、判ってみれば誠に簡単な話なのである。今でも奈良の方言では襤褸がカッコださうであるが尚遠く琉球でも同じ物をカッコと呼ぶと言ふ。たゞそれが伊那では既に廃語となり辛じて昔噺の一隅に保存せられてゐたと言ふ訳である。万葉集巻五に「綿もなき布肩衣のみるの如わわけ下れる可可不のみ肩に打ちかけ」とあるカカフがこの語の古い姿であらうが、このカカフのカカに、衣の意味のコが添ってカカコといふ名詞となり転訛してカッコとなったのであらう。袖中抄十四「世俗ニ、キリギリスハ、ツヅリサセかかは拾ハムト鳴クト云ヘリ。かかはトハきぬ布ノ破レテ、何ニモスベクモナキヲ云フナリ。ソレラノ草鞋作ルニ加ヘテ作リタレバ強キナリ。かかはわらうづト云フ」とあるを見れば、襤褸はまたカカハと呼ばれたことが判る。今でも物事自棄的になる事を、ヤブレカブレとは下伊那でも言ふことであるが、このカブレなども、カカフ、カカハ、カッコなどと無関係では無ささうである。
(以上、引用終わり)

福沢武一は、雑誌「伊那」に投稿した「方言はふるさと」の中で次のようにこの「カッコ」の文章を解説する。

(以下、引用)
カッコ(ぼろ衣)
 少年時代に聞いた昔話のことが「方言雑記」で語られている。

  話の筋は書くまでもないと思うあの日本一のヘヒリ爺の昔話で、隣の欲深爺が殿様の御前でとんだろうぜきに及び、御褒美どころか、無礼討ちの一刀を臀部に浴びせられ、血みどろになって帰る時、「婆、カッコ焼け、婆、カッコ焼け」と呼びながら帰るのを、便所の屋根へ上がって爺様の首尾を待っていた欲深婆が聞いて、「爺様は殿様から赤い着物を頂戴して来る」と、急いで家へ入り、家中のぼろを集めて火にくべてしまった。
山吹村あたりの老人達は、いまだ幼かった私たちに話してくれたものだった。

 井上少年たちは、カッコがぼろ衣であることを知らなかった。物語ってくれた老人たちも知ってはいなかった。

  それがこの頃ようやく分かった。…古くはぼろのことをカッコと呼んだ。分かってみれば誠に簡単な話なのである。今でも奈良の方言ではぼろがカッコだそうであるが、なお遠く琉球でも同じものをカッコと呼ぶという。ただそれが伊那ではすでに廃語となり、辛うじて昔話の一隅に保存せられていたという訳である。万葉集巻五に、
綿もなき布肩衣の ミルの如わわけ下がれる カカフのみ肩にうちかけ…(892 億良)
とあるカカフがこの語の古い姿であろうが、このカカフのカカに、衣の意味のコが添ってカカコという名詞となり、転化してカッコとなったのであろう。(同上書)

 億良の歌では、-綿も入っていないチャンチャンコ(布肩衣)で、海藻のミルのようにずたずたのぼろになったものを肩に掛けていただけだ。
 カカフは、カカウを経て、カコーになり、更にカコ、カッコと、音変化を重ねたに相違ない。
(以下、略。)
(以上、引用終わり)

現在の飯田弁で、カッコと言えば「下駄」「ぞうり」「サンダル」などをさす幼児語である。襤褸(ぼろ)という意識は、20世紀前半から廃れていたということが言えそうだ。


メンヤカブリ

2005-02-02 | 井上福實(1899-1965)の方言研究
「伊那方言雑記(1)」所収の方言解説の続編が「メンヤカブリ」である。

(以下、引用)
蟻地獄のハッコに似た名前に春蘭のハッコリがある。春蘭の下伊那方言には、私の知れる限りに於いて3つの系統がある。一にハッコリ、二にメンヤカブリ、それから三にヂヂイババアである。この外に、この中の2つの語が合成したものも行はれてゐる。それ等を詳記して見ると、

1 ハッコリ系
 ハッコリ、ホッコリ、ハッコリババア、ハッコ
2 メンヤカブリ系
 メンヤカブリ、メンガカメ、メンヤカメ、メンヤカ、メーヤカ
3 ヂヂイババア系
 ヂヂイババア、ハッコリババア

となる。
(以上、引用終わり)

アリジゴクの方言「ハッコ」の記事にも記載したが、動植物についてはさまざまな異称がある。春蘭ひとつとっても、上記のようにいくつもあることがわかる。
ただ、この解説からわかるように同一地域の中においては、いくつかの系統があるということだ。

ある地域の「地域史(誌)」に方言が記述されていて、同じものをさす方言がいくつもあるならば、それらをいくつかの系統にわけ、それらがその地域のどのあたりで使われているかを調べることが可能なことを、この解説は示唆している。

オカタ

2005-02-01 | 井上福實(1899-1965)の方言研究
先に投稿した記事の中で触れた「伊那方言雑記(1)」に掲載されている残り3編のうちの1編「オカタ」について、引用、掲載しておく。

(以下、引用)
 オカタは人妻に対する敬称であるが一方にはまた瓜や茄子につく天道虫のことでもある。これは下伊那ばかりでなく南佐久でもオカタムシと言ふさうで調べてみたら余程広く分布してゐるであらう。ところで南山地方のオカタオクリと言ふ行事である。これは関のオカタとも言ひ関家没落に関した伝説がこの行事の起源を説明してゐるやうであるが、柳田國男先生は、関のオマンの亡魂を和めん為と言ふのではこの行事に送る人形が男女二対である点、少し説明に苦しむと言はれてゐる。(「旅と伝説」79号)
 私はオカタが、下伊那の南山地方で、あの茄子や瓜などの野菜につきだしたら最後忽ち一葉も残さず網のやうに喰ひ荒らして了ふ天道虫であることから、関のオマンの亡魂も去る事乍ら今も諸国にサネモリオクリの名と共に残る虫送りの行事と全く関係の無い事ではなからうと考へてゐる。だがこれだけでオカタオクリの人形が男女二体である事の直接の説明にしやうと言ふのでは無論ない。
(以上、引用終わり)

「オカタオクリ」は6月に行われる行事である。農繁期を迎え、作物が虫に食われぬように願ういわゆる「虫送り」と言われる風習のひとつである。

似たような行事に「コトノカミオクリ」と呼ばれる行事がある。こちらの場合は、2月に行われる。村から村へ順に神送りが行われる。これは疫病を防ぐことを願って行われるという。

引用文中で「オカタが人妻に対する敬称」というのは、武家社会の時代に領主の妻を「オカタ(サマ)」と呼んだ名残である。古語が方言として残ってきた一例である。

ハッコ

2005-01-28 | 井上福實(1899-1965)の方言研究
アリジゴク(ウスバカゲロウの幼虫)を「ハッコ」と呼んだ。(今の子どもはおそらく「アリジゴク」としか呼ばないだろう。)
昆虫や草花、動物のたぐいは、その地方により、さまざまな異称がある。
表題の「ハッコ」もそうだった。

昭和9年9月に刊行された雑誌「山邨」創刊号に所収されている「伊那方言雑記(1)」に「ハッコ」に関する記述がある。

(以下、引用)
 蟻地獄と言ふ虫を産土の森や寺の軒下へ集まって指先で掘り出して遊ぶ時、私など子供の頃には、「ハッコ、ハッコ出よよ。今、出にゃ出れんぞ。」と謡ったものだ。ハッコは山吹村では蟻地獄のことであるが、千代村の野池あたりではこれをハックと呼び、「ハック、ハック出て来い。」とだけ謡ってゐる。智里村横川と言ふ、山の中へ島のやうに孤立したでもこれをハッコと呼び、「ハッコ、チチ、ママ食って出して来い。」と謡ってゐるが、松尾村の子供達は、「ハッコメッコ出て来い」と音に変化を与て謡ふことを知ってゐる。随ってここでは蟻地獄のことをハッコメッコと呼んでゐる。子供の生活と虫の名前とは非常に関係のあることは既に柳田先生に依って唱破されたことであるが、私は今、各地の蟻地獄の名称とそれに関する童謡とを知り度く思ってゐる。東筑の会田村あたりでは、この虫をデンボと言ふさうだが、これも何とか童謡がありさうである。下高井のカッカウ、北佐久・小諸のヘコ、何れも伊那のハッコと繋がりがありさうな言葉である。
(以上、引用終わり)

(投稿者註:山吹村→現在の下伊那郡高森町山吹、千代村→現在の飯田市千代、智里村→現在の下伊那郡阿智村智里、松尾村→現在の飯田市松尾、東筑の会田村→現在の東筑摩郡四賀村会田)

各地のアリジゴクの名称とそれに関する童謡を知りたいと筆者は記述しているが、昭和9年9月の雑誌刊行以後、この件に関しての論文等は見あたらない。
すでに「ハッコ」が死語となりつつある今、各地の名称については、各地の「方言集」あるいは「地域誌(史)」から拾うしかもはや手段はないのかもしれない。

「伊那方言雑記(1)」には、このほかに3編が記述されている。いずれも今となっては死語に近いものばかりであるが、後日、改めて、本文を引用して投稿しておきたいと思う。