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ブログ版「泥鰌の研究室」

 信州飯田周辺の方言(飯田弁)を発信しながら、日本語について考えていきます。

古語から方言を追う

2004-11-26 | 方言(飯田弁)一般
福沢武一の研究手法は、古語から方言を解明する方法が主流であった。
日本方言学の母と呼ばれた東条操が昭和30年に「とんぼ名義考」という論文を発表している。「とんぼ」を古語から追い、みごとにそのことばの成立を解明している。古語から方言を追う手法をこの論文から学びたい。

とんぼ名義考        東条 操
 語源を考える事は楽しいが、誰しも一通りの思いつきは述べるものヽ、さて成程と人に思わせるほどの説は一寸出せないものだ。やさしいものヽ名ほど一層むずかしいようである。
 「とんぼ」の語源なども「大言海」には「とんばうの約」とあって、「とんばう」の条には、「飛羽の音便延…」とある。俗間語源説の「飛棒」は、仮名づかいも違っていて問題にならないが、この飛羽の説も、命名の心理から考えてみるとすぐにはいたゞけない説である。ある大学の試験で「とんぼ」の語源を求めた時、面白い答案が二つあった。一つは、この虫は垣根の先や竿の先や物の「とんぼ(先端)」にとまる習癖があるから附けたというのである。もう一つは、とまっている「とんぼ」に子供が、「飛べ々々」という意味で「飛ばう々々々」といったのがもとだという説である。前説は、「とんぼ」の古形が、とんばう」と長音であった事実と矛盾するし、後説は、子供が「飛べ々々」と囃すのがおかしい。馬鹿げた答案のようであるが、命名の手掛りを兒童語に求めて、あまりむずかしい理屈を考えない点に大学生の答案の価値がある。しかし、やはり思いつきだけで、これを証明する程のものはない。そこで、ちよっと方言の事実と蜻蛉の古語とを較べて考えて見よう。いうまでもなく、「あきつ」が奈良時代以前からある古名である。一応「秋っ虫」の義と考えられている。今日は、国の南北、即ち岩手及び南奥と宮崎、鹿児島、南島にあって、いかにも古語らしい分布である。次に平安朝では、倭名抄に「かげろう」と「ゑむば」が出ている。「かげろう」はあるかなきかに飛び交うさまが、陽炎に似ているからだという。奈良時代にも、万葉仮名の「蜻火」「蜻蜒火」を「かぎろい」と読んでいる。現在の方言で「とんぼ」を「かげろふ」という例は聞かない。ことによると、今日の「とんぼ」とはちがう虫か、又はある一種の「とんぼ」の名かもしれない。童蒙抄に「かげろふトハ、黒キとうぱうノチヒサキヤウナルモノナリ」とある。とにかく疑問のものである。「ゑむば」も倭名抄には蜻蛉の小なるものとしてある。語源は、白石は「八重羽」かと云っているが、あやしい。今日の分布では、九州の西北部、福岡、佐賀、長崎、熊本などに色々な形で行われている。昔は東国にもあった事は、仙覚の万葉集抄に見える。これは分布から見ると「あきつ」の内側にあり、やヽ新しい言葉らしい。
 さて、「とんぼ」は平安末期に「とうばう」「とむばう」(発音はおそらく「トンバウ」か)として諸書に現れている。これも兒童語としてはもう少し古くからあったのではないかと思う。「とんばう」という音形を考えると、漢語か又は冩声語と見るのが至当であろう。平家物語延慶本に「東方」という漢字があてヽある。これにもとづいたのか、徂徠は、この「東方」の漢語から来たといっているが、これは漢学者のでたらめである。
 そこで、いよ々々最后の「とんばう」冩声語源説となる。倭訓栞「とんぶり」の條に「津軽の辺には、蜻蛉をどんぶりといふ。信濃にてどんぶといふ。杜詩の點水蜻蛉欸々飛の意なるべし」とあるのがこれである。「とんぼ」はしば々々水辺に飛び来って産卵する特徴をもって知られている。青森、秋田、岩手で現在「だんぶり」「たふり」「だんぶりこ」岩手の下閉伊では、これと並んで「ざんぶり」といヽ、また「ざんぶ」「ざぶ」「じやんぶ」「じゃぶ」というそうである。変な落語のさげだが、「とんぼ」の語源は存外こんな所にあるのではなかろうか。
 柳田先生の御説や、秋田大学の北条忠雄教授の説も、この説とちょっと似た所もあって面白いが、これは両先生から伺っていたヾきたい。
   (昭和30年8月27日 森林商報 新44号)

方言雑感

2004-11-26 | 方言(飯田弁)一般
○「ガンボジ」「ガンボ」「ガンボチ」「ガンボッチ」「ガンモジ」「ガンポポ」「カンボー」
「ガンボージ」
○「オジーオバー」「ジンジーババー」「ジジババ」「ジンジババ」「オジオバ」「ジジババノキ」
「ジンジバンバ」「メン  アカジ」「メンヤカブリ」「メーヤカメ」「ハッコリ」「ヂヂーババー」
○「インキバナ」「トテコッコバナ」「インキグサ」「ハナガラ」「ハナガレ」「ヒデリソー」
「ヒャクニチソー」「ホタルグサ」「ホータロバナ」

以上は、それぞれ同一の植物の名称である。それぞれ、どんな植物を指しているか、想像がつくだろうか。

 植物は、私たちのもっとも身近にあるもので、それゆえに生活の態様や、草花の色彩や容貌から、様々な異称がつき、それが方言として語り継がれてきたと言える。
 興味深い一冊の調査記録がある。「長野県下伊那郡南信濃村の植物名方言と植物民俗」という浅野一男先生による調査記録である。
 浅野先生の調査によると南信濃村に限って言えば、いくつもの植物に異称があることがよく分かる。
 たとえば、「ジャガイモ」には、イモ、ジャガタ、ウマノスズイモ、ジャガタラ、ジャガタライモ、ニドイモ、ジャイモ、コーボーイモ、バレーショ、バレイショ、コーシューイモ、コーシーイモといった異称があり、「サトイモ」には、ヌルイモ、ホイモ、ハイモ、イモ、メイモといった異称があるとしている。
この調査に登載された植物は、65種類に及ぶ。南信濃村一村内のみの調査にもかかわらず、実に様々な異称があり、ことばの持つ不思議さがおもしろい。南信濃村一村からさらに枠を広げ、下伊那郡内、長野県内とエリアを拡大していくといったいどのくらいの異称が集まるだろうか。

冒頭の三つの植物は、「タンポポ」、「シュンラン」、「ツユクサ」の異称である。
シュンランとツユクサについては、私の祖父が「伊那方言雑記(一)」(昭和9年89月「山邨」創刊号)、「鴨跖草…伊那方言雑記(二)…」(昭和9年12月「山邨」第二号)でそれぞれ述べている。それによると、冒頭にまとめたもののほか、ツユクサについては、さらにいくつかの異称があることが分かる。

 動植物や昆虫等は、同一地域にあってもさまざまな異称がある。それは何故であろうか。
生活態様の違い等々、様々な理由が考えられる。
 調査に出向いてどうして「○○」と呼称するのかを問うと、ほとんど、その答えを得ることはできない。なぜなら、父祖代々、受け継がれた結果、現在に残る方言の歴史であって、成立過程は、その誕生段階にさかのぼらないとわからないというのが私の考えである。しかし、福沢武一先生のような古語にさかのぼる方法での解明は可能である。いくつかの方法を試行しながら、方言を追いかけていきたいと思っている。

オカイコサマ

2004-11-26 | 飯田弁語彙の解説と考察
飯田・下伊那は、かつて長野県内屈指の養蚕地域でした。
それだけに養蚕をめぐることばは豊富で、蚕を家族の一員どころか、それ以上に大切に扱っていたことをうかがうことができます。
その代表選手と言うべきことばが表題の「オカイコサマ」です。

養蚕が盛んになるにつれて、養蚕農家は養蚕技術員による徹底した技術指導を受けたといいます。その中では、養蚕技術に関する専門用語が使われるようになり、昔ながらのことばが消えていきました。
たとえば、蚕の名称に関することばをとっても、「三齢」、「四齢」、「五齢」、「熟蚕」といった専門用語が主流となり、「フナゴ」(三齢)、「ニワ」(四齢)、「クイノビ」(五齢)、「スガキ」(熟蚕)といったことばが消えていきました。
蚕は脱皮を繰り返しながら、「スガキ」になっていきます。
脱皮をする前になると、蚕は餌の桑の葉を食べなくなります。この状態を「イコ」、「ネル」、「ネテイル」、「ヤスム」、「ヤスンデイル」、「イブリ」、「イル」などといいました。他の蚕が脱皮のために「イコ」に入っても、なかなか「イコ」に入らない蚕も中にはありました。こうした蚕は「オトッコサマ」と呼ばれました。同様のことばに「オトボコ」ということばがあります。こちらは、他の蚕より遅れてふ化した稚蚕のことです。いずれも「オト」ということばが含まれています。これは「弟」(オトウト)、「乙」(オト)であり、二番目以降をさすことばです。稚蚕で使う「ボコ」、これは赤子をさすことばです。遅れてふ化した蚕を人間のように「オトボコ」と呼ぶ、ほほえましいことばだと思います。
三齢を「フナゴ」、四齢を「ニワ」と呼ぶことは先にふれました。これらの蚕が脱皮をするとき、つまり「イコ」にはいる状態になると、「ヤスム」とも呼ぶ状態であることから、「フナヤスミ」(三齢から四齢へ)、「ニワヤスミ」(四齢から五齢へ)ということばになりました。
脱皮を終えた状態を「オヒナル」、「オキル」といい、この状態になった蚕を「イオキ」と呼びました。
給桑作業も蚕の状態に応じて、いろいろな呼び方をしました。先の「イコ」にはいる直前に与える給桑を「トメックワ」といいました。脱皮後の給桑を「チカラ(ッ)クワ」といい、その作業を「クワヅケ」といいました。
「オカイコサマ」に代表されるように、蚕は実に大事にされてきました。先の「ヤスム」、「オキル」にしても、まるで人間のような、ともすると人間以上の扱いです。給桑作業そのものを「クワヲシンゼル」といいました。「シンゼル」とは、神仏に供え物をする場合に使われることばです。これを蚕に対しても使うのです。小さな子供たちは、蚕を「メンメサマ」といいました。蚕ではありませんが、蚕同様に桑を食べ、粗末な繭を作る虫も「オカイコサマ」の親戚とみたのでしょう。こちらは「クワゴサマ」と呼びました。熟蚕、つまり「スガキ」もわざわざ接頭辞の「オ」をつけて「オスガキ」とも言いました。「スガキ」になりいよいよ繭を作る状態になると蚕は「マブシ」と呼ばれるわらを折りたたんだ用具へ入れられます。この蚕は「ヤトイ」といいました。「スガキ」同様に「オヤトイ」とわざわざ丁寧に呼ぶこともありました。
それほどまでに蚕は、人々と共に生きていました。養蚕農家では生活を潤す大事な蚕でした。
しかしながら、生糸価格の暴落、国の蚕糸政策の後退などにより、地域を潤した養蚕は、次第に後退し、そして養蚕農家は減少していきました。
1997年12月には、養蚕農家の利益の擁護を目的に設立された組合製糸「下伊那生糸販売利用農業協同組合 天龍社」が工場を閉鎖し、組合製糸77年の歴史を閉じました。まさにかつての一大産業であった養蚕が、飯田・下伊那地区から消えようとしています。

オチューハン

2004-11-26 | 飯田弁語彙の解説と考察
 飯田・下伊那の方言で、昼食と夕食の間にとる食事を「オチューハン」と言います。時間的には、午後2時半ごろから3時頃に摂るようです。
 食べるものも土地によって、さまざまですが、飯田・下伊那では、「ミソムスビ」、「ヤキムスビ」、「キナコムスビ」、「オヤキ」などがその代表格です。
 下伊那の間食を表すことばは、「オチューハン」がその代表選手ですが、このほかに「オチャハン」「オコジハン」「オチャノコ」などが挙げられます。
山仕事に行く人が持っていく間食は「ニハチ」と言いました。「ニハチ」とはおそらく食事を摂る時間を意識したことばとして考えたいと思います。
「オチューハン」を追いかけて得たさまざまなことばに、間食に対する人々の思いが伝えられているように感じます。
 しかしながら、飽食の時代といわれ、モノが豊富にあふれるようになった現在、間食をしなければ、労働できないというご時世ではなくなりました。私たちの父祖が間食に寄せた思いの数々を伝える「オチューハン」などのことばもやがて消えゆく運命にあるのかもしれません。

方言集の役割を考える

2004-11-22 | 方言(飯田弁)一般
「方言集」は、ある地域特有の言語語彙を収集し、それに共通語による注釈を加えた形が一般的である。
 稲垣成夫らが2001年に刊行した『飯伊方言-中国語対訳集』は、そんな「方言集」の概念を覆す試みであった。

 方言は、その風土が生み出した言語であり、その地方で生きる人々が生活の中から生み出した知恵の結晶である。それゆえにその地域特有の感覚から生まれたものが多く、共通語では言い表すことができない難しさがある。
 飯田弁では、「ミヤマシー」などはその代表格である。私たちは、「ミヤマシー」という感覚は持ち得ているが、それを共通語でどう言うのかと問われれば、おそらく多くの人たちはこの答を出すことはできまい。その困難をあえて承知の上で、方言を外国語に訳すというのが稲垣らの取り組みであった。筆者が知り得る範囲において、地方の言語-方言を外国語に訳した例は、おそらく稲垣らの取り組みが最初であろう。
 「方言集」の果たす役割は、単に日本国内へ地方の言語を発信することのみにとどまらなくなってきたといえよう。