神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

時とは何か。

2020年10月07日 | キリスト教
【記憶の固執】サルバドール・ダリ

「時とは何か」と突然聞かれて、答えられる方というのは、極少数ではないかと思います

 また、現代を生きるわたしたちはみんな、時計を持っていますし、同時にそうした形で「時」を共有してもいます。でも、今ほど時の概念と言いますか、こんなにもはっきり1分1秒という時をすべての人が共有する前までは――たとえば、中世くらいの欧州の人々であれば、朝教会の鐘の音が鳴れば、農作業に出かけてゆき、日暮れにまた教会の鐘の音を聞いて農作業をやめて帰途に着く……といった感じだったと言います。

 つまり、人とどこかで待ち合わせたにしても、「3時までにどこそこへ来いよ!」といったことではなく、「まあ、大体のところ~~までに」という、ある程度大体な曖昧な時間指定によって集合したりしていたそうです(また、教会の鐘というのは一日に何度か鳴るものなので、それがある程度の時間的目安にもなっていたとか)。

 ですので、人類全体の歴史から見てみますと、「午後1時に待ち合わせてたのに、あいつ、30分も遅刻しやがって!」みたいなことを人々が言うようになったのは、割と近世になってからだ――といった話を、昔何かの本で読んだような記憶があります。

 それはさておき、神さまの目から見た場合、重要な日付といったものは実際のところそう多くはないのではないでしょうか。キリスト教でもっとも大切な「時」というのは、イエスさまがこの世界にやって来てくださった時ですし、西暦のBC(紀元前)、AD(紀元後)というのは、イエスさまの誕生を境にして、それ以前をBC(紀元前)、それ以後をAD(紀元後)としているというお話は、誰もが学校の授業などで習ったことがあると思います。

 また、何故1週間が7日あるかと言いますと、旧約聖書のはじめ、創世記において、神さまが創造の業を6日かけて行い、7日目に休まれたから、この日を休日としていたりもするわけです。また、キリスト教においては、この日曜日にイエスさまの十字架と復活のことを覚えて毎週礼拝を守っているわけですが――すべてのキリスト教徒にとって、全人類史上もっとも大切な日付があったとすれば、それはこのイエスさまが復活された日、ということになるのではないでしょうか。

 あるいは、イエスさまがこの世界に受肉されて、地上でお過ごしになられた、約33年ほどの間……と言ってもいいかもしれません。

 ところで、ギリシャ語においては時には2種類あって、それはクロノスとカイロスです。クロノスとは、わたしたちが普段意識している普通の時間、時計の刻む1分1秒、1時間といった時のことを指し、カイロスというのは、ある特定の、大切な「時」のことを指すそうです。

 新約聖書はギリシャ語で書かれておりますので、イエスさまがこの地上へやって来られた「時」、それは神さまの定められた特別な「時」として、カイロスが使われています。もちろん、わたしたち人間にとっては、エジソンが電気を発明した時を「特別な時」と思うかもしれませんし、あるいは織田信長が本能寺の変で死んだ時のことを歴史的な観点から見て特別な時と認識するかもしれませんし、あるいはペリー来航、または第二次世界が終結した日など、例を挙げれば切りがないかもしれません。

 けれども、こうした人間の目から見て「特別な時」というのと、神さまの目から見て「特別な時」というのは、聖書を読むとまったく違う、ということがわかります。神さまの日付としておそらく大切なのは、旧約聖書において、モーセがイスラエル民族をエジプトから救った日であり、ダビデが全イスラエルの王となった日であったり、あるいは神さま御自身が御言葉を与えられた預言者の預言が成就したその日、その時、その瞬間ということになるでしょう。

 また、旧約聖書全体を通して、メシア預言がたくさん散りばめられており、究極的な意味でこの方が来られたら、神さまの選ばれた民であるイスラエルは救われる……と書かれているわけです。この真実性については、今日キリスト教徒、クリスチャンと呼ばれるすべての人が「アーメン(主よ、そのとおりです)」と言って膝を屈め、認めているわけですが、実際にはイエスさまがイスラエルに来られた当時――その当のイスラエル民族は、イエスさまの数多くの奇蹟的な御業、神さまの御言葉の解き明かし、病人の癒し、死人の甦り……といったことを見ても、心を頑なにして信じませんでした。

 そして、これもまた旧約聖書に預言されているとおり、当時エルサレムにいた人々はこの方を十字架につけて殺してしまったわけです。こうして、イスラエル民族は世界中に散り散りとなり、だがその後、再び国を建てると、これもまた聖書の預言にあるとおり――今、イスラエルという国は1948年に建国されて、今も固くひとつの国として立ち続けています。

 なんにしても、キリスト教という宗教色を抜いた、一般論で言いますと、人の心には黄金の時、銀色の時、銅色の時、虹色の時、鉛色の時など、感じ方として色々あると思うんですよね(^^;)

 そして、一日24時間のうち、睡眠時間を抜いたとしたら、ほんの1時間くらい自分にとって自分の好きにできるゴールデンアワーがあるだけで、残りの16時間くらいはすべて鉛色だ……みたいに嘆いておられる方というのは、実際たくさんおられるのではないでしょうか。

 そのですね、わたしの個人的な経験から思いますのに、これを逆に出来ないか、何故自分の人生はこうなんだ……というところから脱却するには、もし仕事で悩みがあるとしたら、仕事を辞めてしまえば、簡単にそうなりますよね。でも、そんな形で引きこもっていても、実家にいる場合は別として、また働かなくてはいけないわけですし、他の悩みの場合にしても、自分に悩みや苦しみを与える場から一時的に逃げ出しても――まあ大体、次があるわけじゃないですか(^^;)

 そして、「その次」のことを考えると、この場は留まって耐えたほうがいいのか、それとも……といったことは、誰もが経験することだと思います。それで、わたし自身は結構、「よく耐えたと自分では思うけど、そうした忍耐力というのは結局のところすべて無駄だった」という経験を一度して以降、逃げたほうが楽だということに話が落ち着きました。

 でもですね、結局のところ、一時的に棚上げしたなんかしらの悩みや苦しみといったものは、その後も形を変えて自分のことを追ってくるわけです。そして、そうした中でイエスさまを信じて救われることが出来たわけですが、その時にマーリン・キャロザース先生の「すべてのことを感謝し、賛美する」教えのことを知り、人生のほうが随分変わったように思います。

 言い方を変えたとすればこれは、自分にとっての鉛色の時間を黄金の時間に変える錬金術にも等しいものであり、まずはイエスさまの前に跪いて、一日1時間……それが無理なら、まず最初は20分、あるいは10分でもいいですので、自分の問題やそのせいで時間が鉛色に感じられることを神さまに申し上げ、「ですがこのことをイエスさまが必ず変えてくださると信じます」と信仰告白します。

 あるいは一日中、子育てや介護、仕事その他で忙しく、跪いて祈りはじめた5分後には、なんかしらが起きて祈ってなどいられない――といった場合でも、なんとか工夫して、一日1時間、それが無理なら20分でも30分でも、神さまに捧げることの出来る時間というのを増やせるよう努力します。たとえば、最初は自分が人生上で困っていることなどを紙に書き出していって、それをこうしてもらいたい……といったように祈りを書き出していく。間に邪魔が入って中断されたら、あとからまた紙に続きを書くなどして、何度もこれを繰り返していくうちに、祈りを書いた紙は完成するでしょう。

 あるところは二重線を引いて訂正するなどして、祈りをすべて書き出したあとには、それはちょっと格好いいボロ切れみたいになっているかもしれません。でも、とにかくここまで来れば、あとはそのことを心の中で神さまに申し上げていけばいいわけです。

 一日二十四時間のうち、その中の一時間をイエスさまにお捧げすることが出来ると、その後何かが変わってくることは確かだと思います。ただし、この方法は教会でイエスさまを信じる信仰告白をし、聖霊さまを受けた方にとってのみ有効となることですので、その点だけノンクリスチャンの方はご注意くださいm(_ _)m

 何故かというと、一日最低一時間祈れることを目標に……というのはようするに、「一日一時間瞑想するというのと同じことなんじゃないの?」、「だったらわたし、マインドフルネスの本を読んで瞑想してるし、あとヨガ教室にも通ってるんだよね」といった方もおられることでしょう。

 でも、たぶん人が祈りはじめて最初に感じるのは、「祈り続けることの出来ない弱さ」であり、あるいはメモに自分が神さまに叶えてほしいことを書く過程で心の中が整理され、「これは神さまに祈ってどうこうということじゃない。まず第一に自分が努力してどう人生上の問題に取り組むかだ」とお考えになられる方もいらっしゃるかもしれません。

 けれども、わたしたちが人生上の困難に無力感を覚える時、聖霊さまを通してイエスさまに自分の問題等を申し上げることは、間違いなくなんらかの形で効果があります。まず、一日24時間あるうちの中、その一時間を神さまに捧げる決意をし、それをその日一日のうちに行わなくてはいけない最優先事項とします。たとえば、電車で移動する二十分の間に祈り、その後、また時間の出来た時に祈るとか、そんな形でもいいのです。わたしたちが「神さまのために時間を使う」ということを決意することを、神さまは喜んでくださるのですから。

 言ってみればここが、人生の喜びの循環の出発点です。正直、「一日24時間のうち、約1時間を神さまに捧げるようにしたところで、一体なんになるだろう」と思われる方は多いと思います。でもそれは、「教会でイエス・キリストのことを信じたところで、わたしの人生になんの関わりがあるだろう」というのと同じで、「最初はよくわからないながらも」、「信じた時」、また「祈りはじめた時」に変わってくることなので――わたし自身の感じ方でいうと、イエスさまを信じて以降、自分の人生に半年以上なんの変化もないという方は、おそらく聖霊を受けていない可能性が高いものと思われます(^^;)

 また、喜びの循環ということについては、長くなってしまったので、次回また説明してみたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 最初の一歩。 | トップ | 救いの泉の水。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事