
わたし自身もそうですが、そこそこのいい年齢になっても「壊れた人間関係」を一度も経験したことがない、という方は基本的にあまりいらっしゃらないのではないか、という気がします(^^;)
親子関係、兄弟姉妹関係、友達関係、恋人関係、なんらかの先輩・後輩・同僚関係などなど……これは最初からわたしがそう思っていたというより、人から話を聞いていて「ああ、そうだよね。わかるわかる」と思ったことなのですが、それが親子でも夫婦でも友達でもなんでも、「関係がある程度うまくいっている時」は、相手は絶対的にも近い自分の味方であり、時々喧嘩したりぎくしゃくしたりすることはあっても――まあ、究極の信頼関係は「継続」だと言われるとおり、関係があまりうまくいってない間も「この人との関係はこの程度で切れることだけは絶対ない」とわかっている。
この場合の「継続」というのはネット環境みたいなもので、どんなに仲のいい人とでも、ちょっとの時間何を通しても一切「繋がってない」ことはありえる。でも、またすぐ繋がって話したり連絡取ったりなんだりするだろうことがわかりすぎるほどわかっている……といったような継続した信頼関係。
でも、ある場合において「あ~、この人との関係はもう末期だな。お互い離れるしかない」と判断せざるをえない場合というのがある。それで、最低でもある一定期間「この人がいない人生なんて考えられない」というくらい親しい間柄だったあとで――顔を合わせれば喧嘩ばかりしてしまうとか、話していても言葉が通じ合わない……といったことを経験してのち、それまであった「継続」関係をほぼ完全に断ち切る判断を下す、ということがあると思うんですよね。
それでその、人間関係における「末期」か、あるいは「末期」へ至る少し前、「この人との人間関係の継続は諦めよう」と考え悩む深刻な一時期というのがあると思うのですが、そうした時に「この人とはもうダメだな」と感じるポイントとして――まあ、あるわけですよね。向こうは向こうでこちらに対して「あなたはそんな人じゃないと思ってたのにどうして」とか、「前と同じように自分と同じ考え方、見方をしてくれよ」とか……突き詰めていうと、「相手が自分にとって都合のいいことを言ってくれたりしてくれる人だったから」、その利用価値が突然下落したことが、関係を切る原因になったといったようなことが。
もちろん、親子関係でも友達関係でも、「その人が一緒にいると何かと便利だから」とか、そんなプラスマイナスで人間関係をはかることは正直あまりないと思います。そもそも気の合う人というのはそんなことすら思い浮かばない人であったりするわけですが、関係が「末期」になると明らかに自分にとっても相手にとってもマイナスだからお互い切る以外にない……みたいになってきますよね。
それで、ふと思うわけです。「前までのわたしならこういう時、こういう態度で同調してたけど……」、「相手のほうでは相手のほうで自分にとって都合のいい面だけを見てたってことなんだな」、「また都合の悪いことに関しては多少なり加工して納得できるような形で飲み込むようにしてたってことなんだ」――人間は都合のいいものの見方しかしないし、聞きたいものしか聞かない。そして、大人になればなるほどそのことがうまくなる……的なことをよく聞きますが、本当にそのとおりだと思います。自分にとって都合の悪いことでも真っ向から立ち向かい、耳に痛いことも耳に入れて総合的な判断を下せる人というのは、人間として本当に強い、一部の人だけなんじゃないかという気さえするくらい(^^;)
この関係の末期症状が緩やかにきて解消される――ということもあるかもしれませんが、家族など、親しい人間同士の間では「言いたいことをこれまでずっと抑えてきたが、かくなる上は全部ぶちまけてやろう」というのでしょうか。こういう種類の言い合いになった場合、それまでいかにして「相手の顔を見て来なかったか」、「本当の意味で話を聞いてこなかったか」がわかることがあると思います。
もちろん、ご夫妻であれそれが息子さんでも娘さんでも、友人や恋人といった存在でも……親しい人であればあるほど、相手の顔なんて飽きるくらい見ているし、毎日のように当然話もしている。でも結構、家族といった親しい間柄であるがゆえの特殊な近視眼により――自分にとって都合のいい取捨選択が起きていたりもするんですよね。そして、それが積もり積もってとうとう相手が「もう言うしかないだろう」というくらい溜めに溜めて「本当の本音」について語った場合、言われた側は耳が痛いため、夫婦喧嘩の場合でも子供さんが親御さんに対して「お父さんってこうだよね」、「お母さんは今まで~~だったよね」と言いだした場合でも……まずは話のほうを冷静に聞いてられないってあると思います。相手が自分の痛いところかそのスレスレのところに接触してきた場合って。そこで都合のいいように加工したり、「それを言ったらあなただって~~じゃないの」など、<必殺!急所返し>というのではないですが、とりあえず自己防衛のため、「こっちだってこういうずっと黙ってきたことがある」など、互いにどんどん醜くやりあうようになっていく(^^;)
こうした時、十代の子供の反抗期のようなもので、ある数年間を忍べば終息し、その後は親御さんに感謝するようになったとか、「お母さん、あの時はごめんね」みたいになるのだったら――あれも子供の成長として必要なことだったのだろうと振り返れるかもしれない。でも、わたし自身は自分の両親の(父の浮気を原因とする)口論などを聞いていて思うに、喧嘩して相手が納得して自分の行動をあらためるとか、ないような気がしてます。他のご家庭の話を聞いていても、それがアルコール中毒によるものでも、自分の心にやましいところがあったり、「そこを責められると弱い」、「実際自分が悪いこともよくわかっている」ことを責めても、大体相手は逃げるか、「またその話か」という感じで、こちらの言ってる言葉が通じないんですよね。
これは親子でも大体そうで、子供が成人する前は親御さんに特に重い責任があるため、別としても――その後、十代の頃に溜めていた不満を「そもそもわたしの小さい頃からこうだった……」みたいに言っても、「でももうあなたも成人したんだから、関係ないでしょ」といったようになる場合のほうが多い気がします、たぶん。うちもそうでしたが、兄もわたしも十代の頃は親に何も言わない「いい子」だった。ところが、その後何か色々問題が出てきたわけですけど、今はこのパターンが結構多いそうで、それぞれ問題の形は違ったとしても、物凄くよく理解できる気がします。
つまり、十代の頃って何かあっても、まずは「親に心配かけてはいけない」と思うため、何も言わない。また、説明しようと思っても、そんなに言葉でうまく的確に説明も出来ないんですよね、ちょうどその頃って……それが二十代くらいになると、「うちの親ってこういうところおかしかったよなあ」とか、今度はうまく説明できるようになってきて、一度何かをきっかけに喧嘩になると場合によっては本当に収拾がつかないことがあるというか。そこで、親御さんのほうでも思うわけです。「この子は昔は優しい子だったのに」とか、「こんなことを言う子じゃなかったのに」などなど……。
わたしの両親の年代だと、奥さんが旦那さんに対する不満を溜めに溜め、それを口に出して妻が語りだした途端熟年離婚……みたいなパターンが多いのに対し、今は割と子供が十代の頃は黙っていて、その後反抗期のようなものが遅れてやって来る。そして「実はこうこうこう思っていた」という本音について語ってみたところ、親御さんのほうではそれを受け容れられない――ということが時にあるみたいで(^^;)
いえ、大体今の十代くらいの子供さんたちには「反抗期がない」って、結構多いって聞いたのです。もちろん、わたしと同年代くらいか、わたしより下の世代の方の場合、「自分の親にこうされたのが嫌だったから、自分の子供にはそうしない」であるとか、不登校問題などに関しても考え方が変わってきていたり、そのあたりの理解度が高いのみならず、あとはとにかくネットで調べるという解決量というか、参考にできる意見や相談できる場所も、わたしの両親の世代ではありえなかったほど色々ある(わたしの両親の世代の場合は子供が学校へ行きたくないと言ったら、とにかく尻を叩いてでも行かせるとか、それ以外解決策ってなかったりしたのです、ほんとに)。
なんていうか、人生や人間関係における「遅だしジャンケン」って結構怖いよね……というお話かもしれません最後の最後に感情の火山大噴火みたいになる前に、普段から怒りや不満を小出しにしたほうがいいとわかってはいても――「この場合、自分さえ耐えていればいいんだ
」といったような場合、やっぱり「耐えられるところまでは耐えよう」とか人はやっぱり思ってしまう。
あ、クリスチャン的ポイントとしては、最終的にマーリン・キャロザース先生の感謝と賛美の実践をすることが一番と思うのですが、このあたり、どんな小さな人生上の不満についても、聖霊さまを通して神さま、イエスさまに相談していくのが一番なのかなって思います。
わたし自身はノートに書き出したことまではなかったりするのですが(汗)、それでも、数年後にその「祈りのノート」を読み返し、いかに祈りが聞かれたかに驚いた――という方の体験談については物凄くよくわかります。書き出すことで問題点が今で言うところのいわゆる「見える化」というのでしょうか。そうした意味でも思考を整理できるのみならず、実際に祈る時にも祈りの力がより強まるのではないかという気がしたり……また、壊れてしまいそうな人間関係を神さまが修復してくださったり、あるいは壊れてしまった人間関係についても神さまが回復してくださったり、ある人間関係において傷ついた心の傷についてもイエスさまが癒してくださったりするのですから
それではまた~!!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます