【キリストとサマリアの女】ヨーゼフ・フォン・ヘンペル
あなたがたは喜びながら
救いの泉から水を汲む。
その日、あなた方は言う。
「主に感謝せよ。
その御名を呼び求めよ。
そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。
御名があがめられていることを語り告げよ。
主をほめ歌え。
主はすばらしいことをされた。
これを、全世界に知らせよ。
シオンに住む者。
大声をあげて、喜び歌え。
イスラエルの聖なる方は、
あなたの中におられる、大いなる方」
(イザヤ書、第12章3~6節)
救いの泉の水……と聞いた場合、一般的にどんなイメージが湧くでしょうか。
この詩篇は旧約聖書の中に収められていて、書かれた背景には中東のイスラエルの土地のことがありますから、まず「水」というのが日本以上に価値として超貴重なわけですよね。
つまり、わたしたちが生きていくためには、喉を潤すための、肉体に必要不可欠な意味での水と――もうひとつ、イエス・キリストから流れてくる霊的な水が必要だと、聖書は言っています。
新約聖書のヨハネの福音書、第4章1~42節には、イエスさまが、井戸に水を汲みに来た女性との問答で、「この井戸から水を飲む者は誰でも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」とおっしゃっています(※サマリヤの女性に関する聖書箇所は、こちらをご参照くださいm(_ _)m『たとえこの世界が終わっても』)。
今年も夏、暑かったですが、水、あるいはジュースでもなんでも、水分といったものはいくら摂取しても、少し時間が経てば肉体が渇きを覚えはじめるものだと思います。
ましてや、中東のイスラエルのこと、そうした外的環境においては、日本以上に遥かに厳しいものがあるでしょう。ですが、一度イエスさまから流れてくる救いの水を飲めば、その人はもう二度と渇くことはない(=二度と井戸に水を汲みにくる必要はない)と主はお約束してくださっています。
このあたりのことに関しては、実際に教会でイエスさまのことを信じて以降、「あ、そういう意味なんだ!」と実感をもって理解できることなので、詳しくは端折りますが――イエスさまのことを信じて以降、霊的には満たされていたとしても、肉体のほうにはやはり、生物として水分というのがどうしても必要になってきますよね(=肉体が渇くたびに、井戸に水を汲みに来なくてはならない)。
このふたつの矛盾の間で、多くの方は苦しむものなのではないでしょうか。実際、水のみならず、毎日食べていくための食料や、今の日本でいえば、電気・ガス・水道料金、あとはもちろん住むところなど、「必要最低限の生活」といったものを維持していこうとするだけでも、結構なお金がかかります。
ですから、霊的な意味ではイエスさまのことを信じて天国へ行くことが出来、人生上で困ったことが起きた時にも、聖霊さまを通して祈ることで、「どうしたらいいか」について折に触れて助けていただくことも出来るとはいえ――職場の人間関係に関していくら祈っても何も変わっていかないですとか、わたしもそうですが、そうした経験をされるクリスチャンの方は今もたくさんいらっしゃると思います。
でも、その問題に関してどのくらい困っているか、主に解決してもらいたいかにもよるとは思いますが、すべての問題について神さまに委ねて祈りきる時、わたしの場合「自分に出来ることは自分なりにすべて行ったのだから、あとはどうなっても構わない」というか、そうした境地になることがあります。
そこまでいくと、そのことに関して必要以上に悩まなくなる領域というのがあるというか。結果として、表面上は何も変わっていない・動いていない、また、わたしのほうでもある人に会わなくてはいけないことに関して非常なストレスを覚えていたにしても……大体のところそこまでいく時には、不思議な主の平安を感じていたりですとか、あとは緊張感や不安感にまったく変化がなかったにせよ、そのこともまたイエスさまにとにかく感謝し、賛美してゆけばいいわけです。
前回お書きしました、「喜びの循環」というのは、大体こういった感じのことだったりします(^^;)いえ、「喜びの循環」なんて聞くと、人生のすべてが喜びから喜びへと移っていく――といったイメージかもしれませんが、イエスさまのことを信じると、そういった割合が増えていくのは間違いのないことですし、「それでも解決しない問題」があった場合でも、肉は緊張と不安におののきつつも、霊においては平安がある……といったような形では、イエスさまの守りがあるわけです。
わかりにくいかもしれませんので、ひとつたとえ話をしますと、新型コロナウイルスのことで、医療従事者の方がこれだけ大変にも関わらず、ボーナスが支給されない、カットされる……といった報道があったと思います。結構前のことですが、病院経営に関して書かれた本を読んだことがあり、赤字の病院っていうのは結構多いそうなんですよね(^^;)
ですので、そうした大変さについてはある程度理解できるにしても――これを人生の問題にたとえますと、選択するのは難しいとは思いますが、とにかくまあ、人から文句のでる行動は取らず、かわりにお金のことで苦労したほうがいいと思うんですよ
どういうことかというと、金銭的には困窮するかもしれないにせよ、まずは道義的に(神さまの目から見て)正しいと感じることを行い……この場合は医療従事者の方に手厚いお給料を支払うなどして、お金のないことについてや病院経営が赤字であることについては、神さまに徹底感謝してゆくわけです。でも、大抵の方はこうした事柄について一切祈るということはない……という対応を取ることのほうが普通だと思います。
これは、家計が火の車だ……といった場合でも、祈り方としてはまったく同様で、とにかく家計に足りない不足分について、徹底して神さまに祈ってゆきます。でも、普通どう考えても、自分や家族の誰かしらが働いたといったお給料以外、どんなに祈ろうと収入なんてどこからもないのが当たり前ですよね(^^;)
でもそのあたりの苦しいところを祈っていくと、牧師さんの御家庭の証しで聞いたり読んだりするのは、誰かしらからその不足分ぴったりの献金があったということだったり、一般の信徒の方でしたら、車を買い替えなくてはいけない直前で事故に遭ってそのこともイエスさまに徹底感謝していたら、保険ですべてカバーされるだけでなく、新車まで与えられたということだったり(ちなみにこの方はその年、車検にだすお金もなかったそうです)、とにかく「生活の必要」がなんらかの不思議な形によって主に満たされる――ということだったりします。
わたしは、自分がクリスチャンになる前、仏教+アニミズム的な神さまに祈る……といった心がけが多少ありましたが、イエスさまを信じて以降、「自分の肉の努力によって祈る」ということと、「聖霊さまにすべてお委ねして祈る」ということの違いについて、はっきりわかるようになりました。
それは、祈ればなんでも叶えられるということではなく、神さまの御心に適う願いは天に通じると言いますか、でも確かに祈りについての霊的な領域については、わからないことが多いのも確かです。わたしがある方の脊椎損傷についていくら祈っても、いまだにその方は寝たきりのままですし、一方、教会の方のお証しで、「エアコンが与えられた」、「ストーブを与えられた」、「中古だけど、車の必要を祈っていたら与えられた」、「△○さんの病気について祈ってたら癒された」――といったお話については、たくさんあったりするわけです。
こうした祈りに関しての事柄については、次回に回したいと思うのですが、今回のテーマである「喜びの循環」のことに関していえば、前回お書きしましたとおり、教会でイエスさまのことを信じて聖霊さまを与えられたなら、一日最低一時間神さまにお祈りしていて「何も変わらない」ということはないと思うのです。
>>恵みは何もない空間を埋めるが、受け取れる隙間がある場合しか恵みは入れない。そしてその恵みを作るのは恵みそのものである。
(シモーヌ・ヴェイユ)
今、もしわたしの手元に仮に50円しかなくて、来月の家賃の支払い期限が明日に迫っていたとしたら、どうでしょう。もちろん、財布に50円しかないわけですから、今日明日食べるものを買うことも出来ません。それで、この50円をどうするかといえば、多くの方は財布の中の50円をないものとしか認識しない、あるいはあんまりお腹がすいたので、コンビ二でチロルチョコを何個か買った……普通ならそんなところではないでしょうか。
でも、今の日本の貨幣価値でいうと「あってもなくても大して変わらない」このお金を、神さまの元に持っていくことも出来ます。教会で日曜礼拝を守って、この最後の50円を献金するとしたら――そして、家賃が支払えないことについて、イエスさまに生活の困窮状態について祈るとしたら、一体どうなるでしょう。
わたし自身もそうですが、こうした時、「あ、これはイエスさまだ!」といったことがはっきりわかる形で、助けが来る、といった経験を多くのクリスチャンの方が経験されています。もし教会でイエスさまのことを信じていなかったなら、こうした助けの御手を経験することはなかっただろう……といったことが、とにかく何か起きてくるのです。
こうした目に見えない力を信じることこそ信仰の力です。また、わたしもまだイエスさまのことを知らなかった頃は、人生というのは自分の力で切り開くものであり、もし仮に人生の「喜びの循環」なるものを完成するとしたら、神さまがどうこうということは関係なく、そのような人生の土台作りをしなくてはいけないのは、やはり自分自身だと思っていたことでしょう。
けれども、わたしよりも遥かに賢く、色々と恵まれた状態にあるように見える人さえも、実際にはそのことを「自分の力で」成し遂げることは出来ない……といったように挫折していく場合が多いと思います。ただ、わたしの場合、イエスさまを信じて以降――「信仰の喜びがまたさらに喜びを生む」、「イエスさまの恵みがさらに恵みを生みだす」という循環があるということに、はっきり気づくことが出来、本当に幸せだったと思います。
自分の肉の努力で出来ることには限界があります。それよりも、イエスさまに信頼し、その恵みにより頼むことを学ぶことが出来たほうが……わたしたちの力を加える割合がほとんどなくても、イエスさまがわたしたちの人生上の大きな岩を動かしてくださって――自分ではどうしていいかわからなかった大きな岩が、横に押しのけられ、あとは神さまがそのように道備えしてくださった歩くのに快適な人生上の道をただ真っ直ぐに歩いていけばいいのです。
それではまた~!!
あなたがたは喜びながら
救いの泉から水を汲む。
その日、あなた方は言う。
「主に感謝せよ。
その御名を呼び求めよ。
そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。
御名があがめられていることを語り告げよ。
主をほめ歌え。
主はすばらしいことをされた。
これを、全世界に知らせよ。
シオンに住む者。
大声をあげて、喜び歌え。
イスラエルの聖なる方は、
あなたの中におられる、大いなる方」
(イザヤ書、第12章3~6節)
救いの泉の水……と聞いた場合、一般的にどんなイメージが湧くでしょうか。
この詩篇は旧約聖書の中に収められていて、書かれた背景には中東のイスラエルの土地のことがありますから、まず「水」というのが日本以上に価値として超貴重なわけですよね。
つまり、わたしたちが生きていくためには、喉を潤すための、肉体に必要不可欠な意味での水と――もうひとつ、イエス・キリストから流れてくる霊的な水が必要だと、聖書は言っています。
新約聖書のヨハネの福音書、第4章1~42節には、イエスさまが、井戸に水を汲みに来た女性との問答で、「この井戸から水を飲む者は誰でも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」とおっしゃっています(※サマリヤの女性に関する聖書箇所は、こちらをご参照くださいm(_ _)m『たとえこの世界が終わっても』)。
今年も夏、暑かったですが、水、あるいはジュースでもなんでも、水分といったものはいくら摂取しても、少し時間が経てば肉体が渇きを覚えはじめるものだと思います。
ましてや、中東のイスラエルのこと、そうした外的環境においては、日本以上に遥かに厳しいものがあるでしょう。ですが、一度イエスさまから流れてくる救いの水を飲めば、その人はもう二度と渇くことはない(=二度と井戸に水を汲みにくる必要はない)と主はお約束してくださっています。
このあたりのことに関しては、実際に教会でイエスさまのことを信じて以降、「あ、そういう意味なんだ!」と実感をもって理解できることなので、詳しくは端折りますが――イエスさまのことを信じて以降、霊的には満たされていたとしても、肉体のほうにはやはり、生物として水分というのがどうしても必要になってきますよね(=肉体が渇くたびに、井戸に水を汲みに来なくてはならない)。
このふたつの矛盾の間で、多くの方は苦しむものなのではないでしょうか。実際、水のみならず、毎日食べていくための食料や、今の日本でいえば、電気・ガス・水道料金、あとはもちろん住むところなど、「必要最低限の生活」といったものを維持していこうとするだけでも、結構なお金がかかります。
ですから、霊的な意味ではイエスさまのことを信じて天国へ行くことが出来、人生上で困ったことが起きた時にも、聖霊さまを通して祈ることで、「どうしたらいいか」について折に触れて助けていただくことも出来るとはいえ――職場の人間関係に関していくら祈っても何も変わっていかないですとか、わたしもそうですが、そうした経験をされるクリスチャンの方は今もたくさんいらっしゃると思います。
でも、その問題に関してどのくらい困っているか、主に解決してもらいたいかにもよるとは思いますが、すべての問題について神さまに委ねて祈りきる時、わたしの場合「自分に出来ることは自分なりにすべて行ったのだから、あとはどうなっても構わない」というか、そうした境地になることがあります。
そこまでいくと、そのことに関して必要以上に悩まなくなる領域というのがあるというか。結果として、表面上は何も変わっていない・動いていない、また、わたしのほうでもある人に会わなくてはいけないことに関して非常なストレスを覚えていたにしても……大体のところそこまでいく時には、不思議な主の平安を感じていたりですとか、あとは緊張感や不安感にまったく変化がなかったにせよ、そのこともまたイエスさまにとにかく感謝し、賛美してゆけばいいわけです。
前回お書きしました、「喜びの循環」というのは、大体こういった感じのことだったりします(^^;)いえ、「喜びの循環」なんて聞くと、人生のすべてが喜びから喜びへと移っていく――といったイメージかもしれませんが、イエスさまのことを信じると、そういった割合が増えていくのは間違いのないことですし、「それでも解決しない問題」があった場合でも、肉は緊張と不安におののきつつも、霊においては平安がある……といったような形では、イエスさまの守りがあるわけです。
わかりにくいかもしれませんので、ひとつたとえ話をしますと、新型コロナウイルスのことで、医療従事者の方がこれだけ大変にも関わらず、ボーナスが支給されない、カットされる……といった報道があったと思います。結構前のことですが、病院経営に関して書かれた本を読んだことがあり、赤字の病院っていうのは結構多いそうなんですよね(^^;)
ですので、そうした大変さについてはある程度理解できるにしても――これを人生の問題にたとえますと、選択するのは難しいとは思いますが、とにかくまあ、人から文句のでる行動は取らず、かわりにお金のことで苦労したほうがいいと思うんですよ
どういうことかというと、金銭的には困窮するかもしれないにせよ、まずは道義的に(神さまの目から見て)正しいと感じることを行い……この場合は医療従事者の方に手厚いお給料を支払うなどして、お金のないことについてや病院経営が赤字であることについては、神さまに徹底感謝してゆくわけです。でも、大抵の方はこうした事柄について一切祈るということはない……という対応を取ることのほうが普通だと思います。
これは、家計が火の車だ……といった場合でも、祈り方としてはまったく同様で、とにかく家計に足りない不足分について、徹底して神さまに祈ってゆきます。でも、普通どう考えても、自分や家族の誰かしらが働いたといったお給料以外、どんなに祈ろうと収入なんてどこからもないのが当たり前ですよね(^^;)
でもそのあたりの苦しいところを祈っていくと、牧師さんの御家庭の証しで聞いたり読んだりするのは、誰かしらからその不足分ぴったりの献金があったということだったり、一般の信徒の方でしたら、車を買い替えなくてはいけない直前で事故に遭ってそのこともイエスさまに徹底感謝していたら、保険ですべてカバーされるだけでなく、新車まで与えられたということだったり(ちなみにこの方はその年、車検にだすお金もなかったそうです)、とにかく「生活の必要」がなんらかの不思議な形によって主に満たされる――ということだったりします。
わたしは、自分がクリスチャンになる前、仏教+アニミズム的な神さまに祈る……といった心がけが多少ありましたが、イエスさまを信じて以降、「自分の肉の努力によって祈る」ということと、「聖霊さまにすべてお委ねして祈る」ということの違いについて、はっきりわかるようになりました。
それは、祈ればなんでも叶えられるということではなく、神さまの御心に適う願いは天に通じると言いますか、でも確かに祈りについての霊的な領域については、わからないことが多いのも確かです。わたしがある方の脊椎損傷についていくら祈っても、いまだにその方は寝たきりのままですし、一方、教会の方のお証しで、「エアコンが与えられた」、「ストーブを与えられた」、「中古だけど、車の必要を祈っていたら与えられた」、「△○さんの病気について祈ってたら癒された」――といったお話については、たくさんあったりするわけです。
こうした祈りに関しての事柄については、次回に回したいと思うのですが、今回のテーマである「喜びの循環」のことに関していえば、前回お書きしましたとおり、教会でイエスさまのことを信じて聖霊さまを与えられたなら、一日最低一時間神さまにお祈りしていて「何も変わらない」ということはないと思うのです。
>>恵みは何もない空間を埋めるが、受け取れる隙間がある場合しか恵みは入れない。そしてその恵みを作るのは恵みそのものである。
(シモーヌ・ヴェイユ)
今、もしわたしの手元に仮に50円しかなくて、来月の家賃の支払い期限が明日に迫っていたとしたら、どうでしょう。もちろん、財布に50円しかないわけですから、今日明日食べるものを買うことも出来ません。それで、この50円をどうするかといえば、多くの方は財布の中の50円をないものとしか認識しない、あるいはあんまりお腹がすいたので、コンビ二でチロルチョコを何個か買った……普通ならそんなところではないでしょうか。
でも、今の日本の貨幣価値でいうと「あってもなくても大して変わらない」このお金を、神さまの元に持っていくことも出来ます。教会で日曜礼拝を守って、この最後の50円を献金するとしたら――そして、家賃が支払えないことについて、イエスさまに生活の困窮状態について祈るとしたら、一体どうなるでしょう。
わたし自身もそうですが、こうした時、「あ、これはイエスさまだ!」といったことがはっきりわかる形で、助けが来る、といった経験を多くのクリスチャンの方が経験されています。もし教会でイエスさまのことを信じていなかったなら、こうした助けの御手を経験することはなかっただろう……といったことが、とにかく何か起きてくるのです。
こうした目に見えない力を信じることこそ信仰の力です。また、わたしもまだイエスさまのことを知らなかった頃は、人生というのは自分の力で切り開くものであり、もし仮に人生の「喜びの循環」なるものを完成するとしたら、神さまがどうこうということは関係なく、そのような人生の土台作りをしなくてはいけないのは、やはり自分自身だと思っていたことでしょう。
けれども、わたしよりも遥かに賢く、色々と恵まれた状態にあるように見える人さえも、実際にはそのことを「自分の力で」成し遂げることは出来ない……といったように挫折していく場合が多いと思います。ただ、わたしの場合、イエスさまを信じて以降――「信仰の喜びがまたさらに喜びを生む」、「イエスさまの恵みがさらに恵みを生みだす」という循環があるということに、はっきり気づくことが出来、本当に幸せだったと思います。
自分の肉の努力で出来ることには限界があります。それよりも、イエスさまに信頼し、その恵みにより頼むことを学ぶことが出来たほうが……わたしたちの力を加える割合がほとんどなくても、イエスさまがわたしたちの人生上の大きな岩を動かしてくださって――自分ではどうしていいかわからなかった大きな岩が、横に押しのけられ、あとは神さまがそのように道備えしてくださった歩くのに快適な人生上の道をただ真っ直ぐに歩いていけばいいのです。
それではまた~!!
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