神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

アドラーの心理学。

2020年03月07日 | キリスト教

 先日、HK教育の「100分で名著」で、アドラー心理学のことをやっていました。

 全4回分の放送で、ものすごく「うんうん☆」と頷けることがある一方、「う゛~ん。そうかなあ」という部分も一部にあり……もちろん、生きる上で思想としてすごく参考になる部分はあったものの――でも自分的には「生き方が変わる」というほどの力はありませんでした(いえ、そうした意味でもイエスさまのことを信じて180度人生を変えていただけるというのは、物凄い秘蹟なのだとあらためて思いました)。

 この記事は特に、アドラー心理学について語ろう……といった趣旨のものではないのですが(というか、アドラー心理学について何か語れるほど詳しくもねえだろ、という話・笑)、アドラー心理学の中で、「劣等感・優越感」という考え方のことが出てきていたので、そのことでもと思います。

 アドラー自身、幼少時にくる病を患っていたことで、そうしたコンプレックスをずっと持ち続けていたそうなのですが、ある時サーカスの団員たちに話を聞く機会があり――彼らから話を聞いているうちに、あることに気づいたそうです。

 つまり、サーカスの団員というと、肉体的に生まれつき物凄く優れた何かを持っていた……とイメージしがちですが、実はそうではなく、むしろ逆に肉体的に弱いところがあったからこそ、そのコンプレックスを克服するための努力をし、サーカス団員になった――といったタイプの方がとても多かったそうです。

 そこでアドラーは、「劣等感というのは、悪いばかりとは言えない」と気づく。わたしたちの今現在の日常で、コンプレックスと聞くと、それは=劣等感を差すと思うのですが、アドラー心理学では「優越感」というのもコンプレックスなのだそうです(というか、これは一般的に有名な話と思いますけれども^^;)。

 たとえば、自分は△□よりも容姿で優れている、勉強ではオレのほうが上だ、スポーツでならワタシはアイツよりも上だ……などなど、よく考えてみるとこうした心理というのも、確かに裏を返してみればコンプレックスなのだろうということに、心当たりのある方がほとんどと思います。

 で、ですね。この時、番組の中で、アドラーに言わせれば「不幸自慢」というのもこの優越感というコンプレックスのひとつに数えられる――と聞いて、ちょっとびっくりしたのです

 なんと言いますか、アドラーに言わせると、「自分はこんなに可哀想で大変な目に合ってきた」と繰り返し語って相手の同情を引く人というのは、そうした不幸自慢によって相手より優位な立場に立とうとする……という種類の優越感を持っている、ということだったと思います、確か。

 これは番組の中で語られていたことではないのですが、昔読んだ心理学の本に少しアドラー心理学のことが出てきていて、ようするにこうしたタイプの方というのは、そうすることで「この可哀想なわたしを大切にしてちょうだいね」とか、「これ以上わたしをひどい目にあわせないで」と先に予防線を張ることで、相手をコントロールしようとするというか、何かそうした人ということになるらしく。。。

 たとえば、何かの事故でわたしが車椅子生活を送っていたとして、「自分は何も悪くないのにこんな目にあった」、「だから優しくわたしの面倒を見てちょうだいね」と自己憐憫的にまずはアピールし、相手が何か気に入らないことをしたりした場合――「ああ、それじゃなくてもわたしはこんなにひどいめにあっているというのに……」と、神経質に嘆く。そうすると、相手のほうでは何か罪悪感を刺激され、わたしの言うことを聞かざるをえない、というある種の悪循環が形成される。

 この場合、何が優越かというと、「足が不自由な可哀想なわたし」ということをすぐアピールさえすれば、相手の態度をコントロールすることが出来る……という部分で、相手よりもある意味優位な立場に立てるわけです。そして、ここまで考えて来ると、こうした人に対して「ちょっととんでもない人だな」と感じもするわけですが――事故で足が不自由になったことは、わたしにとってとんでもない劣等感を生むことだったわけです。

 ですから、そのコンプレックスの埋め合わせとして、そのような形でどうにか足が不自由でない健常者の方と対等になりたいという補償行為っていうんでしょうか。何かそうした複雑な心理を見出すことが出来ると思うのですが……とりあえずわたし、自分がこれまでの人生で車椅子の方のお世話をさせていただいた経験上、こうしたタイプの人とは一度も会ったことがないです(^^;)

 むしろ逆にとても明るかったり、変にひねくれてなくてピュアだったり、ちょっと移乗を手伝っただけなのに、「ありがとう、ありがとう」と物凄く感謝してくれたり――といったタイプの方としか接したことがないです。

 なので、これはあくまでたとえ話なのですが……そんな形で劣等感も優越感というのも、コンプレックスという意味で表裏一体だ、ということをアドラーは言いたかったのだと思います。

 それで、ですね。これもわたしが昔何かの心理学の本で読んだことなのですが、わたしたちが誰かと対等につきあっていくためには――向こうのほうが容姿的にも上、学歴のほうも上、家柄のほうも上……といったように、何もかも相手のほうが上であるように感じられたとしても、何かひとつの部分で相手よりも「これだけはあいつに負けない」というものさえ持っていれば、その人と対等につきあっていくことが可能だそうです。

 たとえば、あいつは唯一スポーツが駄目だ、でも俺はサッカーでだけは誰にも負けない――とか、仮に相手が物凄いお金持ちで社会的に成功していたとしても、「そのかわりあいつは芸術といった、目に見えないものの大切さにはまったく疎い奴だ」など、何かひとつ相手に勝てる部分があると、その他がすべて負けていようとも、対等につきあっていくことは出来るだろう、と。

 まあ、ここまでわたしも書いてきて思いますのに、一番いいのは「そんなことにいちいち拘らない」ということでしょうし、でも、「拘りたくないのに拘ってしまう」という心理に多くの人が拘るからこそ、そうした「拘り」や「はからい」といったものをなくすにはどうしたらいいのか――ということで、心理学や宗教に関する本などを人は読みはじめたりするのでしょう。

 この「拘り」や「はからい」というのは、仏教で言えば煩悩ということなのかなと思いますが、キリスト教でいうとすればおそらく、イエスさまの十字架に縋り、「そのような罪深いわたしをどうかお許しください」ということに当たるのではないでしょうか。

 そして、こうした拘りやはからいといったものについても、感謝しつつすべて神さまに委ねていく……でもそれで煩悩といったものがなくなるかといえば、聖霊さまの働きによって、アルコールを手放せない生活から救われたりですとか、麻薬と手を切ることが出来た――といったことが起きる一方、わたしのように日々ミクロサイズのことを顕微鏡で拡大して拘ったりする小物にとっては、ひとつ拘りやはからいがなくなったとしても、今度は別のことについてくよくよ悩みはじめたりと、際限がなかったりもするわけです(^^;)

 けれども、そのような惨めな状態にあってさえ、わたしの魂は喜んだり安らいだりすることが十分出来るのです。たとえば、十日後になんらかの出席したくない会合がある場合、そのことに不安や緊張を覚えるあまり、その前の九日間ですら精神的にすっかり台無しな状態で過ごすですとか、これに類する悩みを持っている方はとても多いと思います。

 でも、そんな時にもイエスさまの白い衣の裾に縋って祈っていると、絶対確実に何かが変わってくると思うんですよね。わたしも心理学系の本を読むのが好きですが、アドラー心理学の語るところの<実践的>という部分においては――個人的には、イエスさまのことを信じて、マーリン・キャロザース先生の「すべてのことを感謝し、神さまを賛美する」という教えを実践するということが、個人的には、というかわたしの神経症には一番効果があったと思います。

 もちろん、イエスさまに祈ったら治りにくいと言われる神経症ですらも癒された……ということがある一方、わたしのように癒されないような場合でも、「ありのまま、そのままの自分の状態を感謝し、神さまにお捧げする」ということで、ある一定の効果がでるという言い方はなんとも不信仰ですが、とにかく机上の空論的に心理学を学ぶよりも、<行動する>、<実践する>という部分において、「人間の頭ではそれは考えつかない」、「ありえない」という、「それはイエスさまがなしてくださったことだ」という事柄がいくつも起きてくるのです。

 すると、ますますイエスさまに対する感謝と信頼が増し、祈ることや神さまに対する何かを行うことが心楽しく、その軌道に沿って生きることから離れたいとは決して思わなくなります。そして、そのことと自分の病気が完全に癒されるとか、問題が常に100%解決されるだとか、そうしたことよりも――より深い神さまの恵みに触れることで、すでに自分がその恵みの一部とされているということをひたすら喜ぶ者に変えていただけるのです。

 いえ、アドラーもユングもフロイトも、心理学者として歴史に名前を残した素晴らしい方だと思いますし、わたしも特にユングの書いていることにはそのすべてではなくても、心理学としては物凄く同調する向きが強いです。

 でも、それよりもイエスさまが送ってくださる聖霊さまによってフワッと救われるですとか、絶対に動かないと思っていた問題について、横から神さまが手を貸してくださったことで問題の岩が転がり落ちていくといったことのほうが――神さまを知らないでいて病気が治るといった奇跡を経験したり、人生上の問題がすべて解決したりするよりも、遥かに優れていると個人的にはそのように思うのです♪

 それではまた~!!





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