神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」(マタイの福音書、第14章31節)。

2024年03月25日 | キリスト教

 以前、とある近未来が舞台の小説を読んだことがありました

 タイトルを伏せるのは、「大体こんなよーなお話だった」ということは覚えているものの、もう一度読み返すなどして細かい点について確認してないためで(汗)、実はここで書きたいことというのが「どうすれば人間は戦争をなくすことが出来るか」ということだったりします。

 今、わたしたちの間ではスマートフォンが日常生活に不可欠なものとなり、時々出先のトイレなどに酔っ払って忘れたりしないためにも……これを体内の一部として内臓できないだろうか、ということを本気で考えられる方がいると聞いたりします。そして、「安全性さえ確認されるなら」そうしても良いと決断される方というのは、おそらく将来的にはそちらを選択される人のほうが多くなる――ということだったと思います。

 その小説の中ではすでに、そのようなことが当たり前になっており、映画の「AI崩壊」ではありませんが、まず入口がそのことを通して「全身の健康状態をチェック」し、悪いところがあればすぐに治療が可能……という大義名分があったことから、ほとんどすべての人がそれを簡単に装着したり外したりすることが可能になっている。

 でも逆にそのことによって、逆にいうとすべての人の行動などを監視することが可能になったということでもあり、その果てに何が待っているのか……というと、「すべての人の意識の結合」ということだったんですよね。ちょっと話のほうが飛躍しすぎかもしれませんが、ようするにこの世界から戦争をなくそうと思ったら他に手はないと考えた人物がいて、今わたしたちは「わたし」とか「おれ」とか「ぼく」といったように、それぞれ「自分の意識」と思えるものを持っている(「我思う、ゆえに我あり」という世界)。ところが、すべての人の意識を強制的に「わたしたち」であるとしてひとつに結合する方法があり、一度その選択をしてしまうと、二度とわたしたちは元の状態の「わたし」、「おれ」、「ぼく」といった個別性のある状態を失うことになるものの――メリットとしては、まず「戦争」どころか、人の間で喧嘩するとか言い争いをするということがなくなるわけです。また、「自分はひとりぼっちだ」という孤独感からも解放される……ということになると思うのですが、大抵の方が思うのは「そうかもしれないけど、そんなのやだな」ということではないでしょうか(^^;)。

 これは、アニメ「エヴァンゲリオン」の中に出てくる「人類補完計画」にも似たことかもしれませんが、まあ「わたし」と「あなた」の間には壁があり、そのすべての意識の壁が崩れ、強制的にひとつの「意識共同体」にされるということなんですよね。以後、わたしたちは「わたし」とか「おれ」とか「ぼく」という言い方はすることなく、「わたしたち」、「おれたち」、「ぼくたち」としか自分のことを認識することが出来なくなる。

 こうした「心の壁」を越えてわたしたち人間が繋がりあうことは難しいことかもしれないけれど、それでも強制的に「わたしたち」という意識共同体にされるよりは……時に殴りあうほどの喧嘩をすることがあってもいい。わたしたちにはその「壁」というものがむしろ適度に必要なんだ――と思う方のほうがやはり多いのではないでしょうか。

 ここからは小説の内容や設定とは少し外れますが、今後AIが発達してゆくある段階において……AIが「人類の完全平和を成し遂げるにはそれしかない」と判断し、強制される可能性というのは、遥か未来の世界で絶対にない、そうした可能性はゼロである、とまでは言い切れない気がします。何分、一度そのような状態が成し遂げられ、最初から「わたしたち」という意識状態しか知らず、むしろ「わたし」や「おれ」、「ぼく」ひとりだけという意識状態を知らなかったとしたら、それが普通であることが当たり前の社会になったら、その状態こそが「常識である」として受け入れられていくものなのかもしれません。

 さて、ここからはキリスト教における天国のお話。。。聖書には、今エルサレムのある真上あたりに天国が下りてくる――といったように読める箇所があるのですが、その天国でわたしたちがどんなふうに暮らしてゆくのか、そこがどのような場所かといったことについては断片的なことしかわかりません。悩みや苦しみや悲しみがなくなることなどは約束されていますし、死後の魂が永遠にイエスさまとともにいるようになる……といったことはわかっているとはいえ、そこでは毎日カレンダーをめくったり、一日は24時間だといった感覚もないのでしょうから、そういった死後の天国における「新常識」というものがどのようなものか、わたしたちには聖書の語る真理などから推して想像することしか出来ません。

 でも、あるひとつのことだけはわかっているような気がします。その<天国>にすべての人が集まってくる時――それは「あるひとつの意識集合体となり、永遠に神とともに幸せに暮らす」といったことではないらしい、ということです。つまり、わたしたちはあくまで生前の「わたし」という個別性を保ったまま、それでいてイエスさまの御前に一致した霊の状態を保つ……キリスト教の語る天国という場所は、そのようなところではないでしょうか。


 >>御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と子羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。

 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。

 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。

(黙示録、第22章1~5節)


 果たして、天国には「飲食」ということがあったりするのでしょうか。でも、イエスさまが最後の晩餐の中で「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マルコの福音書、第14章25節)とおっしゃっているということは、おそらく肉の欲求を満たすという意味でない、なんらかの神聖な霊の食事といった事柄はありそうです。

 そして、こういった形によって聖書の行間から<天国>という場所を部分的に想像できたりもするわけですが、<霊の体>、魂において人は、それらが肉体でのように消化管で消化され、天国の雲の間のトイレにて地上へ排泄される――なんて考えなくていいわけですよね(決しておかしな意味で言うのではなく、そうした穢れの多い事柄すべてから解放されるだけでも、わたしたちはお互いに対する軽蔑であるとか、下の事柄に関する下品さからも一切無縁になると思うわけです^^;)。

 なんにしても、人間の脳の中の「わたし」を形成する部分を特定し、それをなんらかの形によって人間そっくりにコピーされた体に移植することが出来れば、もしかしたらそれが「不老不死」、「永遠のいのち」にも近い状態だと、いつかそこまで科学というものが進歩したとして……それをあまり「本当の幸福」みたいに思えないのは何故なのでしょうか。

 といったようなことを、この間HKの立花隆先生の「死ぬとき心はどうなるのか」という番組を見ていてぼんやり思ったような次第であります。いえ、「死について考える」ということは、とりも直さず「生についてよりよく捉え直す」ことに他ならず、立花先生の哲学や思索の深さにあらためて驚嘆したのでありました。。。

 それではまた~!!






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