神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

絶望することにもすっかり慣れてしまい、それが普通になった症候群。

2024年03月14日 | キリスト教
【希望をなくして】フリーダ・カーロ

「わたし、この不幸なままでいたいの」という人がいたとしたら、誰もが「そんなことじゃいけないよ」とか、「君は幸せにならなきゃ」、「いや、今だってきっと幸せと思えることはいくつかあるに違いない。そのことにだって感謝しなきゃ」など、そういった言葉によって相手を慰めようとするかも知れません。

 前回の記事とも若干重なることとしては、これはたぶん「今までの自分の人生を振り返ってみて、不幸の数より幸福の数のほうが若干勝っているから、わたしは幸福なのだ。いや、そう思わなくっちゃ」……というようなこととも違い、さらには一時的な気分障害の落ち込みとして経験しているのであれば、すごく美味しいものを食べたら元気になった、誰か共感的に話を聞いてくれる人がいて、その人の優しい言葉や態度で元気になった……など、そうしたこととも少し違うことだったりします。

 とはいえ、わたし自身は「不幸なままでいたい」とまで思ったことはないため、想像が少し高度で難しいことにもなるのですが、戦争や災害などを経験された方に、「不幸なままでいたい」というより、それ以上に根深い問題として――「自分は生きていてはいけないのではないか」というような、存在の根本に関わるアイデンティティの問題を抱え、常にそのことに立ち返る……という深刻な問題を持つ方がいらっしゃるとお聞きしました。

 つまりそれは、戦争や災害によって、「何故自分が助かって、家族や友人である△□ちゃんや□△くんは助からなかったのか」、「自分ではなく彼らが助かるべきでなかったか」、「実際、わたしも生きていて何もいいことがないとは言わないし、苦労もしているけれど、亡くなった方の分も生きなければならないと頭ではわかっていても、心や体が動かない」……という根本原因が常に心のどこかに存在し、仕事をしている間などは明るく振る舞っているように見えても、自分ひとりになるといつでもそうした精神状態に戻ったり、幸せなことや幸運なことがあっても、「わたし、こんなに幸せでいていいのかな」、「いや、ダメなんじゃないか」など、複雑な心理状態にあり、なかなか人にも理解してもらうのが難しいというのでしょうか。

 また、虐待を経験された方なども、絶望の檻にいた時間が長かったせいで、親からの虐待といった原因が取り除かれたあとでも――もうそこから出てくる気力がないというか、たとえば人生に希望を持ったり、少しでも幸福になると、またちょっとしたことが原因ですぐどん底へ突き落とされる……それが嫌で、もう何にも期待しない、そのほうが楽だから、失敗したり何かがうまくいかなかったりするたび、「どうせそんなことになると思ってた」という、その不幸のループにいたほうが、そこがあまりに見慣れた世界になっているがゆえに楽だ……ということがある、ということなんですよね。

 何故このことを書こうと思ったかというと、実は躁鬱病の女性が躁状態にある時、自分が世界をどんなふうに感じるか、鬱状態の時にはその逆にどれほどの落ち込みを経験するか――といった文章を読んだからだったりします。わたしも自殺を考える鬱病みたいになってたことがあるため、鬱状態については理解が難しくないものの、躁状態の時についての感覚描写が、「ああ、そうなんだな」と、妙にすごくわかるものだったのです。

 躁鬱病患者さんの躁状態の時というのは、ほとんど神にも近いような全能感と言いますか、これから人生は何もかもうまくいく(だって、他でもないこの『私』の人生だよ!当然じゃない)、全世界はわたしの友達で、空が青いことも草や花が美しいことも何もかもが嬉しい、この世界とわたしは一体!!実現不可能なことなんて絶対ない――さらには、そうした気分の高揚とともに気力・体力の充実感が物凄く、この期間、この女性は「自分にはなんでも出来る」との全能感の元、考えられないくらい精力的に仕事その他のことをこなします。

 でもやがて、この逆の状態の精神状態が、昼に対する夜のようにいずれ訪れることになり、この気分の<落差>が非常に苦しいものだ……ということでした。それでも今は、割といいお薬を処方してもらえるということだったんですけど、この深い『苦しみ』自体については、わたし自身は経験したことのない方でない限りわからないだろうなと読んでいて思いました。

 それで、人生の幸・不幸というのは結局、ちょっとした脳の不具合、化学伝達物質のちょっとした加減に左右される程度のものにしか過ぎないのか――あるいはその部分を「気の持ちよう」によってうまくコントロールする術を持つことが、結局のところ幸福への早道だとか、そんなことを言いたいわけでもないのです。。。

 サウナが流行っていることの理由のひとつに、わたし自身はもしかしたら、「コントロール出来ない領域のことをコントロール出来るような部分」があるのかなあと思ったりしてます。わたしたちはたぶん、「リラックスしよう」と意識して強く思うとむしろ変に緊張してしまったり、「自分のことであるはずなのに」コントロール出来ないことってたくさんあるわけですよね。

 サウナの場合は、交感神経の優位な状態と副交感神経が優位になる状態を強制的に繰り返すことで生まれるリラックス効果が「整う」ということなのではないか――みたいなことだった気がしますが(うろ覚えですみません^^;)、わたしたちは「交感神経よりも副交感神経のほうが優位になっている時がリラックスしている時」、「だからそのような状態を作りだそう!!」と理屈でわかっていても、実際には難しいわけですよね。そして、ピラティスなどが流行っているのも、純粋に体にいいこともそうですが、精神面としてはそのような状態を呼吸法などによって作りだせるとか、そうしたことでもあるんだろうなと思っています(マインドフルネス流行りもまたしかり、というか)。

 サウナの「整う」を、解脱状態に近いと言いますか、そんなふうに表現される方もいらっしゃいますよね。また、サウナ好きさんが集まって、二十人も三十人もの方が同時に「この状態最高~」、「整ってるよね、おれら~」みたいになってる、あのユルダルな状態っていうのは、ある意味宗教的な雰囲気すら漂っているような気がしたり(^^;)。

 でも、自分という存在の根本に強い「不安」がある方にとっては、サウナもピラティスもマインドフルネスも、確かに「友達とピラティス行って楽しかった」とか、「サウナのあとに読んだ漫画、めちゃ面白かった」とか、気分転換にはある程度効く気はするものの――また再び精神はちょっとしたことが原因で暗黒へと戻っていく……そんなところがあるような気がします。

 わたし自身はキリスト教徒なわけですけど、仏教の内観療法ですとか、イスラム教徒の方でしたら、生涯に一度は成すべきとされる聖地巡礼を経験するですとか、こうした根深い問題を抱える方には宗教や哲学の思想が救いになるっていうのは、本当のことだと思っています。


 >>わたしの目には、あなたは高価で尊い。
 わたしはあなたを愛している。

(イザヤ書、第43章4節)


 >>やみと死の陰に座す者、
 悩みと鉄のかせに縛られている者、
 彼らは、神のことばに逆らい、
 いと高き方のさとしを侮ったのである。
 それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。
 彼らはよろけたが、だれも助けなかった。

 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から救われた。
 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、
 彼らのかせを打ち砕かれた。
 彼らは、主の恵みと、
 人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
 まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、
 鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

(詩篇、107編10~16節)


 一クリスチャンとしては、こうした聖書の言葉の他に、教会で聖霊さまの臨在に触れると、理屈は関係なく突然涙が止まらなくなって救われるですとか、そうしたこともあると思っていて。

 本当に、テレビの報道を見ていると、胸の痛むことばかりですが、「自分の△□が悪かったのだ」、「だから今こんなことになってしまった」など、全然関係のないことを結びつけ、強い罪悪感の縛りにある方も多いと知り、心・精神・霊的解放について引き続き祈っていくことの重要性についてあらためて思わされました

 それではまた~!!






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