神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

思いやりと共感に関して。

2024年05月15日 | キリスト教


「思いやりと共感に関して」なんて言うと、なんだかいかにも「これからいいこと書きそうっぽい☆」風タイトルですが、今回は(も)違います(^^;)

 いえ、結構前にラジオで「こっちはこんなにつれえのに、共感してもらえねえってこと、あるよな」的話を聞いたことがあって……たとえば、ぎっくり腰。一度でも実際にぎっくり腰になったことのある方は、それはもう深く同情を寄せて話を聞いてくれる。「くしゃみしただけでもまたギクッ☆となるんじゃねえかと思ってビクビクしてよお」――なんて話すと、相手はものすごく共感的に頷いてくれる。「わかる、わかる。わたしなんてねえ、車乗っててマンホールのところを通ってガコッ☆と揺れただけでギクっとなっちゃってさあ。もう地獄よ」なんていうふうに。

 でも、一度もギックリ腰を経験したことない方って……笑っちゃいけないと思うから、そうした話をうんうん頷いて聞いてはくれるものの――「くしゃみしただけでギックリ腰?それゃお可哀想に。ププっ、あらやだ。笑っちゃいけないわ」というのでしょうか。ギックリ腰サイドの被害妄想というのではなく、どこかそういうところがあるという話だったんですよね。

 他にも花粉症など、花粉症になる方の人口は年々増えているそうなんですけど、なったことがなく、風邪意外であまり鼻がぐずついたことのない方にとっては……「花粉症?あらあ、大変ねえ。本当に心から気の毒に感じるわ。わたし、なったことないけど!」的、花粉症マウント(?)を、口には出さずとも取られることがある――とか、まあこれに類する経験というのは、誰しも何かしらあるような気がします。

 まあ、それがもし、たとえばガンであるとか、深刻な病いであれば、誰も笑ったりなどしないし、そんな気配を微塵も感じることはないと思う。でも、日常のちょっとしたことなど、本人には物凄い困り事でも……「同じ経験をしたことがない限り、本当の意味ではわかってもらえない」系のことって、案外結構ありますよね。。。

 たとえば、朝なかなか起きられないことにはじまって、普通の人より腸がゆるいであるとか、あるいはトイレが近いであるとか……特に、下系の話っていうのは、笑い話と紙一重になりやすいことも多く、人にも話しづらいなどなど。たとえば、過敏性腸症候群など、病名やその症状のことを聞くと、誰も一ミリたりと笑ったり出来ないと思うのですが、トイレに関していえば、切迫性尿失禁という病気があったりと、個人的には「普通に日常生活を送る」のに、どちらも本当に大変な病気と思います。

 しかも、よほど関係として親しくなった人でもない限り、話したりすることも出来ないし、表面上は「わたしの人生、何も問題なんかありません!!」という笑顔でいつつ、水面下ではこの上もない苦しみを日常生活で味わわなくてはならない……それがどんな悩みでも苦しみでも、割と「人に相談できた」段階で、問題の一割か、それ以下であっても、少しくらいは何かが変わるところがあると思う。

 でも、こういった種類のことで悩んでる方は多いだろうなあと個人的に思いますし、ワーグナーの作品に「パルジファル」という作品があるのですが、この作品に出てくる王さまがちょうどそうでした。この王さまの場合、自分が罪を犯したことがその原因となっているとはいえ、「この上もない苦しみを味わいつつ、それを誰にも理解してもらえない」ことで苦しんでいます。それどころか、周囲の自分の父や騎士といった部下たちでさえも、ある秘跡を行うよう苦しみを強要してくるような状況へ王さまを追い込もうとしてくるわけです。

 問題は、こうした地獄がいつまで続くか、それを終わらせるために王さまは死さえ望んでいるわけですが、主人公のパルジファルがとうとうその呪いを終わらせてくれるという……それは、呪いを解かれるための究極の癒しと言えると思うわけですが、自分的にこのあたりの展開が結構驚きだったというか

 いえ、「誰にも理解されない」、「本人にしかわからぬ苦悩」によってこの上もなく苦しんでいるというのに、周囲の理解が得られない――ということの普遍的な、ある意味誰にでも当てはまる表現として、これ以上のものがあるだろうかと自分的に思った、ということがあって。

 なんていうか、わたし自身、死ぬことを考えていた時などは、哲学の本であるとか、ほんの一行か二行でも、「今の自分の心理にぴったりくる表現」を見つけると、本当に心に癒しを受けることが出来ましたもちろん、歌劇パルジファルを見たところで、わたしの抱える病いであるとか、他の方の抱える深刻な問題が根本的に癒されるわけではないとは思います。

 それでも、特にクリスチャンの方にとっては、キリスト教の深い思想との関わりということもあって、物凄く考えさせられる作品と思うんですよね。今ある戦争といった事柄についても……もし、解決の糸口のようなものがあるとしたら、「アムフォルタス王の抱えるような苦しみについてどうするか」ということを議論のテーブルにのせることが出来るだけでも、人々の間にそうした認識できる「共通事項」があるだけでも全然違うと思った
わけです(^^;)

 ええと、わたしもそうでしたが、「パルジファル」はあらすじなどを読んでみたりするだけでは、はっきり言ってよくわからないというか、「本当に面白いの?」といった感じがすると思うんですよね。でも、わたし自身一度見て以来、このことについてはずっと考え続けています。

「誰にも知られぬ苦しみについて、この上もなく苦しんでいるというのに、そのことを理解してもらえない状況、そんなシチュエーションがすべて揃っていたとしたら」、その人を救うために、一体何をどうしたらいいだろうか……という、それは難問なわけですが、この広い世界で、そんな人がたったひとりいるだけでも多いと思うのに、実際にはそんな方が本当に数多くいる――そのことについて、神さまに祈るという以外にも、具体的にもっと深く掘り下げるなり、行動するなりすることが大切とは思いつつ、実際には何も出来ないということについて……世界中の人が今相対しているような、そんな気がしています。。。

 それではまた~!!






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