
【最後の審判三部作之三:天国の平原】ジョン・マーティン
>>なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
(ローマ人への手紙、第10章9~10節)
天の父なる神さま、
私はあなたを信じます。
今まで信じて来なかったことを赦してください。
私は自分が罪びとであることを認めます。
私の罪の身代わりとなって、
イエスさまが十字架にかかって死んでくださった事を信じます。
私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださった事を感謝します。
私は、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えします。
約束通りイエスさまが、私の心の中に入ってくださった事を感謝します。
私のこれからの人生は、あなたのものです。
私をあなたが望んでおられるような者に変えてください。
イエスさまのお名前によってお祈りします。
アーメン。
実をいうとわたし、こういった信仰告白を「あとに続いて言ってください
」みたいに言われて、「あーっ、これでわたしは救われたんだ~!!
」みたいな救われ方ではなかったんですよね(^^;)
ただ、自分が救われてから(聖霊のバプテスマを受けてから)、イエスさまの生涯などを描いた映画や、他に福音を伝えるための、そうした映像の最後のほうに――この信仰告白と大体同じような言葉が流れてきて、ほとんど強制されるような文言が書いてあったような記憶があります
アメリカなどで製作されたものを日本語に訳してあるせいで、余計に「強制感強め」みたいに感じたと思うんですけど、「イエス・キリストのことを受け容れ、今すぐこの言葉を続けて言ってください。そして魂に救いを受けましょう」みたいな文章が、赤い文字で書いてあったりして、「え?なんかちょっと怖いんですけど……
」みたいな印象を強く受けた記憶があります。
つまり、わたし自身はその時すでにイエスさまのことを信じてクリスチャンになっていたので良かったものの――何も知らない方が強制的にこうしたビデオやDVDを見せられた場合……日本人の感覚としては「やっぱりキリスト教ってのはけったいなもんやな
」というか、そんな印象や、むしろ拒絶感しか持たないと思うわけです(^^;)
また、わたしはキリスト教徒になって割と長い年月が流れたので、こうした信仰告白の言葉を読んでもなんとも思わないものの――クリスチャンになってあまり経ってない頃は、この信仰告白の言葉自体に「ん?
」と感じるものがあったと思います。
どういうことかというと、「今まであなたを信じてこなかったことを許してください」とか、知る機会がなかったこと自体はわたしの責任じゃないよなあ……という反発感があったり、あと、この言葉を仮に口に出して言ってみたところで――「救われたような実感はゼロ☆」であったりとか、色々あるのではないでしょうか。
でも、もしその教会が聖霊さまの臨在の強い教会であればあるほど、そうした理屈では納得できないことすらも越えて、何故か「信じる力」が聖霊さまに与えられることによって、イエスさまのことを自分の救い主として迎えることが出来ると思います
わたし、このブログの中で結構理屈っぽいことを色々書いてる気がするのですが(笑)、マザー・テレサもそうおっしゃっているとおり、「信仰の道」それ自体は本当にシンプルなものだと思っています。ただ、イエスさまのことを自分の救い主として信じ、生涯の終わりに至るまで、さらにその後天国に至るまで――その信仰を固く持ち続けるという、ただそれだけのことなのですから。
では、何故他にも色々理屈っぽいことも書いているかというと……自分がそうした理屈っぽさを持っているがゆえに、「そこで躓いてしまい、イエスさまのことを信じるまでに至らない
」ですとか、その気持ちも物凄くよくわかるがゆえに、書くことはほとんど無限に生じてくることになると言いますか、なんというか(^^;)
それはさておき、確か電話を発明したと言われるグラハム=ベルさんだったでしょうか。ベルさんはルピナスの種をポケットに忍ばせておいて、よくそれを行く先々で蒔いていたそうです。確かルピナスって一度生えると根のほうがかなりしっかり張り巡らされるそうで……それを今度は取り除こうとすると、大変だということだったんですよね。
>>「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐ芽を出した。
しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
また、別の種が良い地に落ちた。すると芽生え、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」
そしてイエスは言われた。
「聞く耳のある者は聞きなさい」
(マルコの福音書、第4章3~9節)
最近、とある植物学者の方の本を少し読んだんですけど……植物の種たちというのはよく考えて、気温その他「今だ」という瞬間を選んで発芽する。それでも、これはわたしたち人間の目から見ると、どうも博打のように思える。というのも、種自体にはそこがのちに日陰となって日当たりが悪くなるかもしれないとか、もっと引いた視点で俯瞰して見渡してから――「よし、ここの場所なら成長して花を咲かせるのに最高だぞ!!
」ということがわかるわけではない。
まあ、わたしたちは草花や昆虫に対して「そこのところがわからないから、その後こんなことに……
」など、高い位置から眺めてわかるわけですけど、かといって人間のほうが彼らよりも勝っているかと言えば、個人的にそんなことでもないと思ったりするわけです。
ある植物は花を咲かせずに、あるいは自分の子孫を残せぬまま、枯れて終わるかもしれない。ある昆虫はあんなにも苦労してエネルギーを費やし、羽化するまで頑張ったのに、最後の最後「さあ、飛び立つぞ!!」という瞬間に、自分の天敵に捕食されて終わるかも知れず……そして、こんなことは人間の世界でも結構あったりするわけですよね。
でも、「天国」ということを考えると、わたし自身としては幸福な気持ちになれます。そんなふうに枯れてしまった花は、その直後に天国の庭に移されて花を咲かせているかもしれないのですし、死んだ昆虫のほうはそんな花のまわりで、もはや蜜を求めるようなこともなく、ただ慕わしげに飛び回っているかもしれません。
そして、人間はそんな天国の庭の完璧さを見て、神さまのことを地上でと同じく、あるいはそれ以上に歓喜を持ってその大いなる御業を褒め称えているのではないでしょうか。自分が今見、認識している世界も――ただ自然界の<美>のみを抽出して見たとすれば――とても美しいものと思うけれど、天国はその十倍も素晴らしいところだ……というくらいのところまでしか、わたしたちの現実を認識する脳では追いついていかないような気がします。つまり、今いる世界よりも百倍も素晴らしいところ、と聞いても本当には全然ピンと来ません。だって、そんな世界については何も知らないし、想像することすら不可能なのですから!!
さらに、今いる世界よりも千倍も素晴らしくて美しいところと聞いたとしたら――もうそんな場所のことはまったくわかりませんし、同じようにわたしたち人間には神さまのことを本当の意味で理解することは不可能なのだと思います。つまり、その入口のところに立って、少しくらい天国という世界を垣間見たとしても、おそらくは限定された範囲内で「理解できるよう」わたしたちの脳が伝達・処理したものを見たというくらいのことに過ぎないのではないでしょうか。
そのくらい、神さまがプレゼントしてくださる死後の世界というのは、想像を絶するほど素晴らしく美しい世界なのではないか……と、時々そんなふうに感じ、想像したりしています♪
それではまた~!!
>>なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
(ローマ人への手紙、第10章9~10節)
天の父なる神さま、
私はあなたを信じます。
今まで信じて来なかったことを赦してください。
私は自分が罪びとであることを認めます。
私の罪の身代わりとなって、
イエスさまが十字架にかかって死んでくださった事を信じます。
私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださった事を感謝します。
私は、あなたを私の罪からの救い主、主としてお迎えします。
約束通りイエスさまが、私の心の中に入ってくださった事を感謝します。
私のこれからの人生は、あなたのものです。
私をあなたが望んでおられるような者に変えてください。
イエスさまのお名前によってお祈りします。
アーメン。
実をいうとわたし、こういった信仰告白を「あとに続いて言ってください


ただ、自分が救われてから(聖霊のバプテスマを受けてから)、イエスさまの生涯などを描いた映画や、他に福音を伝えるための、そうした映像の最後のほうに――この信仰告白と大体同じような言葉が流れてきて、ほとんど強制されるような文言が書いてあったような記憶があります

アメリカなどで製作されたものを日本語に訳してあるせいで、余計に「強制感強め」みたいに感じたと思うんですけど、「イエス・キリストのことを受け容れ、今すぐこの言葉を続けて言ってください。そして魂に救いを受けましょう」みたいな文章が、赤い文字で書いてあったりして、「え?なんかちょっと怖いんですけど……

つまり、わたし自身はその時すでにイエスさまのことを信じてクリスチャンになっていたので良かったものの――何も知らない方が強制的にこうしたビデオやDVDを見せられた場合……日本人の感覚としては「やっぱりキリスト教ってのはけったいなもんやな

また、わたしはキリスト教徒になって割と長い年月が流れたので、こうした信仰告白の言葉を読んでもなんとも思わないものの――クリスチャンになってあまり経ってない頃は、この信仰告白の言葉自体に「ん?

どういうことかというと、「今まであなたを信じてこなかったことを許してください」とか、知る機会がなかったこと自体はわたしの責任じゃないよなあ……という反発感があったり、あと、この言葉を仮に口に出して言ってみたところで――「救われたような実感はゼロ☆」であったりとか、色々あるのではないでしょうか。
でも、もしその教会が聖霊さまの臨在の強い教会であればあるほど、そうした理屈では納得できないことすらも越えて、何故か「信じる力」が聖霊さまに与えられることによって、イエスさまのことを自分の救い主として迎えることが出来ると思います

わたし、このブログの中で結構理屈っぽいことを色々書いてる気がするのですが(笑)、マザー・テレサもそうおっしゃっているとおり、「信仰の道」それ自体は本当にシンプルなものだと思っています。ただ、イエスさまのことを自分の救い主として信じ、生涯の終わりに至るまで、さらにその後天国に至るまで――その信仰を固く持ち続けるという、ただそれだけのことなのですから。
では、何故他にも色々理屈っぽいことも書いているかというと……自分がそうした理屈っぽさを持っているがゆえに、「そこで躓いてしまい、イエスさまのことを信じるまでに至らない

それはさておき、確か電話を発明したと言われるグラハム=ベルさんだったでしょうか。ベルさんはルピナスの種をポケットに忍ばせておいて、よくそれを行く先々で蒔いていたそうです。確かルピナスって一度生えると根のほうがかなりしっかり張り巡らされるそうで……それを今度は取り除こうとすると、大変だということだったんですよね。
>>「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐ芽を出した。
しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
また、別の種が良い地に落ちた。すると芽生え、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」
そしてイエスは言われた。
「聞く耳のある者は聞きなさい」
(マルコの福音書、第4章3~9節)
最近、とある植物学者の方の本を少し読んだんですけど……植物の種たちというのはよく考えて、気温その他「今だ」という瞬間を選んで発芽する。それでも、これはわたしたち人間の目から見ると、どうも博打のように思える。というのも、種自体にはそこがのちに日陰となって日当たりが悪くなるかもしれないとか、もっと引いた視点で俯瞰して見渡してから――「よし、ここの場所なら成長して花を咲かせるのに最高だぞ!!

まあ、わたしたちは草花や昆虫に対して「そこのところがわからないから、その後こんなことに……

ある植物は花を咲かせずに、あるいは自分の子孫を残せぬまま、枯れて終わるかもしれない。ある昆虫はあんなにも苦労してエネルギーを費やし、羽化するまで頑張ったのに、最後の最後「さあ、飛び立つぞ!!」という瞬間に、自分の天敵に捕食されて終わるかも知れず……そして、こんなことは人間の世界でも結構あったりするわけですよね。
でも、「天国」ということを考えると、わたし自身としては幸福な気持ちになれます。そんなふうに枯れてしまった花は、その直後に天国の庭に移されて花を咲かせているかもしれないのですし、死んだ昆虫のほうはそんな花のまわりで、もはや蜜を求めるようなこともなく、ただ慕わしげに飛び回っているかもしれません。
そして、人間はそんな天国の庭の完璧さを見て、神さまのことを地上でと同じく、あるいはそれ以上に歓喜を持ってその大いなる御業を褒め称えているのではないでしょうか。自分が今見、認識している世界も――ただ自然界の<美>のみを抽出して見たとすれば――とても美しいものと思うけれど、天国はその十倍も素晴らしいところだ……というくらいのところまでしか、わたしたちの現実を認識する脳では追いついていかないような気がします。つまり、今いる世界よりも百倍も素晴らしいところ、と聞いても本当には全然ピンと来ません。だって、そんな世界については何も知らないし、想像することすら不可能なのですから!!
さらに、今いる世界よりも千倍も素晴らしくて美しいところと聞いたとしたら――もうそんな場所のことはまったくわかりませんし、同じようにわたしたち人間には神さまのことを本当の意味で理解することは不可能なのだと思います。つまり、その入口のところに立って、少しくらい天国という世界を垣間見たとしても、おそらくは限定された範囲内で「理解できるよう」わたしたちの脳が伝達・処理したものを見たというくらいのことに過ぎないのではないでしょうか。
そのくらい、神さまがプレゼントしてくださる死後の世界というのは、想像を絶するほど素晴らしく美しい世界なのではないか……と、時々そんなふうに感じ、想像したりしています♪

それではまた~!!

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