神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

サウナーと辛いものが好きな人、そして体を鍛えるということ。

2020年03月16日 | キリスト教
【台湾ラーメン】


 サウナを好きな人のことをサウナーと言ったりするそうですが、最近テレビで時々、こうしたサウナ好きの方が「整う」という言葉について語るのを聞いたりしませんか?

 その方によって定義というのは微妙に違うようなのですが、「宇宙を感じる」、「一種のトランス状態」、「無我の境地」、「自己超越」、「恍惚状態」など……「たかがサウナで大袈裟なんじゃね?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、でも「なんとなくわかる」っていう部分もあったりしますよね(^^;)

 わたしも最近、温泉とかサウナとか行けてませんが、昔からサウナは大好きだったので、気持ちはわかるような気がしています。毛穴という毛穴からドッと汗が噴きでるあの感じ……めっちゃ熱い蒸し風呂から出て、外の冷気に触れた時の気持ちよさ……この感覚に嵌まる方がたくさんおられる、というのは、よくわかるような気がします。

 で、ですね。ちょっと話が飛ぶように感じると思うんですけど、最近というか、まあ結構前、あるいはかなり前から「辛いもの流行り」みたいなところがありますよね。テレビでもよく芸能人の方が辛いものを完食できるかどうかというのを競っている場面というのを見かけたりします。

 これはわたしが個人的に思ってることなんですけど……なんでも、辛いものを食べるとストレス値が下がるところがあるそうです。辛いものを食べると、こちらも汗がドッと噴きでたり、食べたあと冷たい水を飲んだりすると、「くぁ~っ!」とくるところがある。それで、わたし自身が辛いもの好きじゃないので、本当にはわからないんですけど、この「くぁ~っ!」が堪らなかったりとか、辛いもの好きさんはそのあたりに嵌まってるということらしいんですよね。

 つまり、辛いものを食べて、その辛味がなくなると一瞬スッとするというか、この繰り返しに嵌まる方というのがおられて、これってサウナとも似たところがあるんじゃないかなって思うんです。

 辛いものや蒸し熱い状況という、ある意味苦行というか、この場合は耐えられる範囲の嬉しい苦行というか、そもそも辛いもの好きさんは辛いものが大好きなので、苦行と呼ぶのはなんなんですけど、とにかくそうしたところがある。で、これは人間の脳がちょっとストレス与えられたあとにそれから解放されると快楽を覚えるというか、どうもそうした仕組みによるところがあるということなんですよ。

 それで、今はジムに通ったりして体を鍛えることに嵌まってる方も多いですよね。あと、マラソン好きな方もとっても多い。このことは健康にもいいことだと思うんですけど……でも、自分的に脳の報酬系のあたりが関わってたりするのかしら??と思わなくもなかったり。

 ようするに、単に体を鍛えるという以上のこと、痩せる・痩せればモテる・健康にいい・長生きできるなどのメリットが満載で、損なことはひとつもない……というか、そうした何かがあればこそ頑張ろうということ以上に、やっぱり感覚として体を動かして運動するのって気持ちのいいことですし、運動することによって小脳が刺激され、その刺激が他の脳の部位にも良い影響が大きく与えられることにより――全体として、まさに「整う」わけですよ。

 ついこの間、これもテレビで「体幹を整える体操」というのを見ました。つまり、人間は生きてるうちに日常の何かの癖によってちょっとずつ正しい体の位置がズレていく……ということでした。そして、それをきちんとした正しい位置に戻してあげると、肩こりや腰痛などの改善にも繋がる――って、これもまた結構前からよく聞くようになった言葉ですよね。

 で、ですね。個人的に思いますのに、こうした今の時代の「傾向」みたいなものは、一見健全そうに見えて、少し危険なところもあるのではないか、という気がしています。

 ジムに通って走りこんだり体鍛えたりするのは、本当に体にもいいことだと思うんですけど……サウナに入ったり辛いものを食べることで、肉体にちょっとストレスを与えて解放される、あるいは味覚に強い刺激を与えてそこから解放されると、脳内ではストレス値が若干下がる――ここに一種の快楽を覚えるということは、実は「普段からそれだけストレスが溜まっている」ということなのではないでしょうか(^^;)

 つまり、辛いもの好きさんの中には、この部分に味覚や脳が慣れてしまうと、「さらに辛いもの、さらに辛いもの」と刺激を求めるようになっていき、スープカリーの辛さで二十段階あるうち、十番目くらいじゃ「全然辛いと言えないね」みたいになってくると言います。

 これはもちろん特に、何かの精神病や味覚異常が疑われる……というのとも違うことかもしれませんが、とにかく「もしかして自分、実はそのくらい普段からストレス溜まっているのでは??」と、気づく必要があるのではないか、と思うのです。


 >>すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

(マタイの福音書、第12章28~30節)


 もしかしたら、自分で自分のことを「へりくだっていて優しい」なんていう奴のこと、信頼できるかという方もおられるかもしれませんが(笑)、神さまの御前に祈りとともに心を整えられることのほうが――自分的にはとても重要なことであるような気がしています。

 わたしもサウナは好きですし、キリスト教徒になったらサウナへ行く必要はないとか、クリスチャンの方でも辛いものを好きな方はたくさんいらしゃると思います(^^;)

 けれども、脳内で一時期的にストレス値が下がるからというので辛いものに嵌まっていたり、まるで宗教行為でもあるかのようにサウナへ通う……ことの根本原因には、何か別の問題が根づいているのだとしたら、別の意味で神さまの御前に「整う」、「整えられる者」とされない限りは――キリスト教徒が毎週日曜礼拝を守るようにサウナへ通い、礼拝中に聖餐を受けることに喜びを覚えるように何か辛いものを食べ続けなくてはならない……ということにも近い何かが存在するということなのではないでしょうか。


 >>もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。

 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。

 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

(コロサイ人への手紙、第2章20~23節)


 この世に属するもののことは、この世に属するもののこととして、この世のことだけのこととして、終わってゆきます。けれども、クリスチャンが毎週守る日曜礼拝も、主から受ける聖餐も、死後の永遠に繋がる事柄として、ずっと続いてゆきます。

 これはあくまでたとえ話なので、だからサウナへは行かないほうがよいとか、サウナ好きな方は宗教的渇望をサウナで満たしているのだ……といった大袈裟な話ではなく、辛いものだって度を越しすぎなければ体に良いという部分があるとも思っています。 

 ただ、人が己の苦しみや悩みといったものから真の意味で解放されるためには――サウナというのは一時的なストレス解消といった感じのことであり、辛いものにしても、またさらに辛いものが食べたくなるといったことのような気がするのです。

 それよりも、本当の意味で永遠に繋がる魂の世界のことに目を留めると、聖ペテロが「この曲がった時代から救われなさい」と語ったように、「曲がった時代に生きる、曲がった自分」というものを、己の曲がった姿勢で生きる姿そのものを神さまに矯正していただけると思います。

 そして、これはあくまで個人的な考えですが、このことこそが真の意味で「(人の前にではなく、神さまの御前に)整う」ということなのではないでしょうか。。。

 それではまた~!!





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