神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

わたしは弱いときにこそ強いからです。

2024年04月29日 | キリスト教
【ダビデとゴリアテ】オスマール・シンドラー

 >>すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

(コリント人への手紙第二、第12章10節)


 わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています……果たしてこれは、「やせがまん」の信仰ということでしょうか。

 もちろん、わたしはそう思いませんし、他のイエス・キリストを愛するすべての人がそうだろうと思います


 >>あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

(コリント人への手紙第一、第10章13節)

 弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まり……それがもし、低~中度なものであれば、「何くそ!!」という人間的な努力、あるいは火事場の馬鹿力的な底力によってでも――人はそうした困難や試練といったものを乗り越えてゆけるかもしれません。

 でも、究極的に徹底的な弱さ、徹底的な侮辱、徹底的な迫害、そしてどこを見ても脱出の道などないようにしか見えないどん詰まりという状況に人が陥った場合……わたし個人の経験として言えば、それはもう神さま以外、救いうる存在は何もないと確信しています。

 たとえば、T字路。幅2メートルしかない、両側が煉瓦塀に挟まれた道を進んでいった先、実際そこまで行ってみないと、そこがT字路なのかすら、その手前十メートルくらいのところにいるというのではわからない……みたいなことがよくあると思います。あるいはそこが行き止まりで終わってるのか、右にだけ曲がって他に通じているのか、左側がそうなっているのかどうか――知らない住宅街などでも、案外こうしたことは時々あります。

 でも、人はそこがもう袋小路だとすでに決めてかかるということはよくあると思います。だって、見た目として今はそうとしか見えないし、そしてそこへ辿り着くまでにお金がなくなるとか、もしそうなったら右へ道に通じてようが左へ通じてようがどうにもならない……などなど、人が困難や試練に出会う時、「幸せになれるという見通しがない」、「不幸になる見通ししかない」ようにしか感じられないといった場合――わたし自身は、一番必要になるのは神さまの力ではないかという気がしています。

 もちろん、日本はクリスチャン人口が少ないですから、キリスト教徒はそれで良くても、他の方々は仏教的な神さまに縋ってどうにか困難や試練から脱出するのか、それとも神など最早関係ないという境地で、とにかく人間的な努力一本の積み重ねで、そうした境地を脱するのか……いえ、わたしが今まで物凄く感動した人生の困難や病気を乗り越えたというお話は、その方がクリスチャンでない場合も多かったですし、その一方、イエスさまのことをこの方が信じておられたら、もしかして自殺されることはなかったのではないかなど、思うことは色々あります。。。


 >>最も小さい者も氏族となり、
 最も弱い者も強国となる。

(イザヤ書、第60章22節)


 聖書には、ダビデが自分よりも体の大きい、巨人のような怪力男ゴリアテに打ち勝ったという話や、ギデオンという元は気の弱かった人物が主によって強くされ、十三万五千人の軍を三百人の兵士で打ち破るなど――「蟻が大きな象に勝つ」ような、奇跡的なお話がいくつもあります。

 さらには、モーセがイスラエル民族を率いてエジプトを脱出するという時、追い詰められに追い詰められて、最後に紅海が真っ二つに割れるという神さまが起こした奇跡によって出エジプトを果たしたという脱出劇は、とても有名なお話と思います。

 もちろん、こうした事柄を「旧約聖書に収められた、ただの物語」と感じられるノンクリスチャンの方も多いかもしれません。でも、クリスチャンにとってはそうではありません。信仰を持ってこのことを自分、あるいは自分の家族、所属する教会や自分の所属するグループなどに適用していく時――聖霊さまを通したイエスさまの奇跡が必ず現わされてきます。

 もっともこれは、キリスト教徒でない方にとっては「愚かなこと」であり、あるいは「気狂いじみた宗教気違いのたわごと」と捉えられる可能性すらあるかもしれません。


 >>だれも自分を欺いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分は今の世の知者だと思う者がいたら、知者になるためには愚かになりなさい。
 なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える」
 また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる」

(コリント人への手紙第一、第3章18~20節)

 
 事実、イエス・キリストにあって愚かに見えることは、クリスチャンには喜びなのです。「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ」、とも聖書にはあります。また、「あなた方が困難な時こそ、踊りあがって喜べ」とも……このことは、わたしたちが人間的に努力を重ねることで到達できる精神境地ではなく、ただイエス・キリストを信じた時に与えられる聖霊さまを通してのみ可能なことなのです。

 わたしも今までに、「こうした状況で喜んでいる自分は頭がおかしいのではないか」と、マーリン・キャロザース先生の「感謝と賛美の実践」を行っている自分を(いい意味で)笑いたくなったことが何度もあります。けれども、自分でもわかるんですよね。歯を食いしばって、この困難の大きな石の数々を、あの高い山の上まで運び、一生懸命克服するんだ――というよりも、こちらのほうが優れて幸福な、喜びに満ちた、神にある平安に満ちた、霊肉ともに極めて安全な道であるということが……。

 イエスさま、今日もそのようにあなたを信じるすべての人々に、そのように聖霊さまを通した業をなしてくださることを感謝します。さらなるリバイバルの力と熱い炎が全世界に燃え広がり、すべての人々が父なる神とイエスさまに立ち返りますように……栄光在主、プレイズ・ザ・ロード!!

 それではまた~!!






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« わたしは愛のない人間です。 | トップ | 嗚呼、蟻地獄。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事