【アブラハムとイサク】レンブラント・ファン・レイン
感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。
その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。
(詩篇、第50編23節)
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
(ヘブル人への手紙、第13章15節)
「感謝のいけにえ」、「賛美のいけにえ」?
日本語的にあまり聞きなれない言葉ですよね(^^;)
また、聖書には別の箇所に、
>>するとサムエルは言った。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを
喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、
従わないことは偶像礼拝の罪だ。
あなたが主のことばを退けたので、
主もあなたを王位から退けた」
(サムエル記第一、第15章22~23節)
ともあります。
旧約聖書には、山羊や羊などを屠って捧げる方法について、細かい規定があるわけですが、神さまは本当に山羊や羊を焼いた匂いを嗅いで満足している……というわけではなく、捧げ物をするわたしたちの<心>を見ておられるわけですよね。
>>「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である」
(出エジプト記、第15章26節)
また、イエスさまが全焼のいけにえとして御自身を十字架上で捧げてくださった新約時代の今日、クリスチャンの方で山羊や羊を神殿で捧げるといった方は誰もいません。
キリスト教徒の方は誰も、日曜礼拝を通して感謝のいけにえ、賛美のにけにえを捧げることによって、イエスさまに心のいけにえを捧げていると思います。
まあ、「いけにえ」なんて言うと、ホラー映画の連続殺人鬼をなんとなく連想してしまいますが(笑)、そうしたことではなく、わたしたちはいつでもなんでも神さま、イエスさまに感謝し賛美できるといいのですが、心に苦しみや悲しみがある時にも――マーリン・キャロザース先生の「感謝と賛美の教え」を実行する人々は、悲しみつつもそのことを感謝し、苦しみながらもそのことを賛美する……ということがあるわけですよね(^^;)
何より、イエスさまに最後まで聞き従うということは、イエスさまと同じく自身を全焼のいけにえとして捧げ尽くすということが、究極的に求められてくるわけですから……。
旧約聖書を読むと、この「いけにえ」の規定に関して、随分事細かく書いてあって、その後だんだんに祭司階級の人々が「面倒くせえなあ」となっていったというか、そのようになる人々が出てきた気持ちというのも、自分的にはわからなくもありません(^^;)
>>「あなたがたはわたしに
かたくななことを言う」と主は仰せられる。
あなたがたは言う。
「私たちはあなたに対して、何を言いましたか」
あなたがたは言う。
「神に仕えるのはむなしいことだ。
神の戒めを守っても、
万軍の主の前で悲しんで歩いても、
何の益になろう。
今、私たちは、
高ぶる者をしあわせ者と言おう。
悪を行なっても栄え、
神を試みても罰を免れる」と。
(マラキ書、第3章14~15節)
けれど、そのように神さまに仕える祭司階級の人々が堕落しきった時、その神さまの遣わされた救世主(メシア)であるイエス・キリストがお現れになりました。
イエスさまは神さまの言葉を空文にし、私腹を肥やしているこうした司祭階級の人々を「まむしのすえ」と呼び、その行ないを戒められました。簡単にいえば、「あなたがたは律法の教えに通じ、表面的にそれを守りもするが、信仰としては実質的に意味がない」ということですよね。わたしたちも、「あなたはこうしたところがよくない」と人から指摘され、それが図星であった場合――まあ、基本的には腹が立つものと思います、たぶん。
そこで、こうしたパリサイ人といった祭司階級の人々は、イエスさまの人間の口から出たとは思えない神の教えを聞き、不治の病いの癒し、悪霊の追い出しといった奇跡の御業を見たり聞いたりしていながらも、イエスさまの神の子としての権威を認めず、旧約聖書の預言にあるとおり、彼を十字架上で罪の生贄として殺してしまうことにしたのです。
神さまは「感謝と賛美のいけにえを喜ばれる?」、それは確かに間違いなくそうとは思うのですが、わたし自身は時々、神さまの御配慮というのはもっと深いところにあるのではないかと感じることがあります。つまり、イエスさまは大変親切な方なので、「何かあるごとに、そのことを神に感謝せよ」、「賛美せよ」というのは、とどのつまり、それがわたしたちのためになることだからだと思うんですよね。わたしたちは普段、誰かから親切にしてもらったり、良くしてもらったりしたら当然、「どうもありがとう」と言ったり、何か感謝の品を贈ったりするものだと思います。
でも、神さまは人とは違いますから、わたしたちが神さまが良くしてくださったことに対して、いちいち感謝しないというので不機嫌になるとか、そうした方ではもちろんありません(笑)。ただ、わたしたち信徒に与えられている聖霊を通して、そのような交わりがある時、わたしたちが信仰によって輝くその瞬間、神さまはご自分のためにではなく、それがわたしたちの幸福のためであるがゆえに、その至福の状態を「わたしたちのために」喜んでおられる……ということなのではないでしょうか。
旧約聖書に書き記された、生贄に関しての事細かな規定に関してもそうです。わたしも最初、こうした規定に関して読むのが「多少面倒だなあ」と感じたりしましたし、「まったくこの通りに行うというのは、昔の人々にとっても相当大変だっただろうな」と思ったりしたものでした。けれど、この「生贄」というのは最終的に――アブラハムが息子のイサクを神さまに捧げようとしたのと同じく、そのすべてが人間にとって「意味のあることだった」ということが、イエスさまが十字架で贖いの御業を完成させたのちの今の世を生きるわたしたちにはよくわかっています。
アブラハムにしても、天国で神さまのみそばへ行かれてから、「何故約束の子イサクを捧げる必要があったのか」について、神さまの深いお考えに畏敬の念しか覚えることが出来なかったのではないでしょうか。実際には天使の手が入って止められることになるとはいえ……この時、アブラハムにはおそらく、「神は息子イサクを甦らせられるほど力のある方だ」との信仰があり、また、イサクも「お父さん、あなたはわたしに何をされるのですか」と抵抗するでもなく、父親のなそうとすることに全面的に信頼しきっていたものと思われます。
これは、非常に重要な信仰の<型>ですが、わたしたちも地上で試練が許される時、「この一見無意味にさえ思える苦しみには、何か意味があるのだろうか」と感じることがよくあります。けれど、あの偉大な信仰の父アブラハムでさえ――神の友とされたアブラハムでさえ、生きている間、神さまの深遠なお考えについて理解していたわけではありません。
約束の子を与えると神さまに語られていながら、自分も妻も子供など望めぬ高齢であり、まずは人間的な考えに頼り、妻のサラの女奴隷によってアブラハムはイシュマエルという子を得ています。ところが、約束の子イサクが与えられてみると、今度はその子と母のハガルを追放せざるをえなくなり……アブラハムは「このことでは非常に悩んだ」と聖書にありますから、神さまの約束の言葉のみ信じてさえいたら良かったのかもしれませんが、今日の信仰時代を生きるわたしたちも、大体のところ似たような失敗を犯してしまいます。
たとえば、祈りの中で「こう語れた気がする」という思いが来ても、それが自分にとって都合の悪いものだと「いやあ、気のせいでしょ!」と、耳を塞いで口笛を吹いてみたり、聖霊さまを通して語られたイエスさまの御言葉が成就しないと、人間的な方策、人間の肉の腕に頼った手段を講じはじめてしまい、本当の神さまの言葉の成就がやってきた時――「あんなにアタフタしたりして、自分は本当に不信仰だなあ」と思わされたりします(^^;)
そして、こうした人間的にこれ以上もなく低くされる立場にあったり、弱くされている時でも……聖霊さまを通して神さまに祈り、感謝と賛美を捧げることの出来る恵みが、クリスチャンの方には誰にでも与えられています。なんと言いますか、神さまはやっぱり「そうされると気持ちいいから、わたし(神)に感謝したり賛美したりしなさいよ」というのではなく――そうすることで、わたしたちが聖霊さまに満たされる喜びに満ち満ちている至福の状態を喜ばれるがゆえに、そのような恵みの道をもわたしたち人間に備えてくださったのだと思います。
それではまた~!!
感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。
その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。
(詩篇、第50編23節)
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
(ヘブル人への手紙、第13章15節)
「感謝のいけにえ」、「賛美のいけにえ」?
日本語的にあまり聞きなれない言葉ですよね(^^;)
また、聖書には別の箇所に、
>>するとサムエルは言った。
「主は主の御声に聞き従うことほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを
喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、
従わないことは偶像礼拝の罪だ。
あなたが主のことばを退けたので、
主もあなたを王位から退けた」
(サムエル記第一、第15章22~23節)
ともあります。
旧約聖書には、山羊や羊などを屠って捧げる方法について、細かい規定があるわけですが、神さまは本当に山羊や羊を焼いた匂いを嗅いで満足している……というわけではなく、捧げ物をするわたしたちの<心>を見ておられるわけですよね。
>>「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である」
(出エジプト記、第15章26節)
また、イエスさまが全焼のいけにえとして御自身を十字架上で捧げてくださった新約時代の今日、クリスチャンの方で山羊や羊を神殿で捧げるといった方は誰もいません。
キリスト教徒の方は誰も、日曜礼拝を通して感謝のいけにえ、賛美のにけにえを捧げることによって、イエスさまに心のいけにえを捧げていると思います。
まあ、「いけにえ」なんて言うと、ホラー映画の連続殺人鬼をなんとなく連想してしまいますが(笑)、そうしたことではなく、わたしたちはいつでもなんでも神さま、イエスさまに感謝し賛美できるといいのですが、心に苦しみや悲しみがある時にも――マーリン・キャロザース先生の「感謝と賛美の教え」を実行する人々は、悲しみつつもそのことを感謝し、苦しみながらもそのことを賛美する……ということがあるわけですよね(^^;)
何より、イエスさまに最後まで聞き従うということは、イエスさまと同じく自身を全焼のいけにえとして捧げ尽くすということが、究極的に求められてくるわけですから……。
旧約聖書を読むと、この「いけにえ」の規定に関して、随分事細かく書いてあって、その後だんだんに祭司階級の人々が「面倒くせえなあ」となっていったというか、そのようになる人々が出てきた気持ちというのも、自分的にはわからなくもありません(^^;)
>>「あなたがたはわたしに
かたくななことを言う」と主は仰せられる。
あなたがたは言う。
「私たちはあなたに対して、何を言いましたか」
あなたがたは言う。
「神に仕えるのはむなしいことだ。
神の戒めを守っても、
万軍の主の前で悲しんで歩いても、
何の益になろう。
今、私たちは、
高ぶる者をしあわせ者と言おう。
悪を行なっても栄え、
神を試みても罰を免れる」と。
(マラキ書、第3章14~15節)
けれど、そのように神さまに仕える祭司階級の人々が堕落しきった時、その神さまの遣わされた救世主(メシア)であるイエス・キリストがお現れになりました。
イエスさまは神さまの言葉を空文にし、私腹を肥やしているこうした司祭階級の人々を「まむしのすえ」と呼び、その行ないを戒められました。簡単にいえば、「あなたがたは律法の教えに通じ、表面的にそれを守りもするが、信仰としては実質的に意味がない」ということですよね。わたしたちも、「あなたはこうしたところがよくない」と人から指摘され、それが図星であった場合――まあ、基本的には腹が立つものと思います、たぶん。
そこで、こうしたパリサイ人といった祭司階級の人々は、イエスさまの人間の口から出たとは思えない神の教えを聞き、不治の病いの癒し、悪霊の追い出しといった奇跡の御業を見たり聞いたりしていながらも、イエスさまの神の子としての権威を認めず、旧約聖書の預言にあるとおり、彼を十字架上で罪の生贄として殺してしまうことにしたのです。
神さまは「感謝と賛美のいけにえを喜ばれる?」、それは確かに間違いなくそうとは思うのですが、わたし自身は時々、神さまの御配慮というのはもっと深いところにあるのではないかと感じることがあります。つまり、イエスさまは大変親切な方なので、「何かあるごとに、そのことを神に感謝せよ」、「賛美せよ」というのは、とどのつまり、それがわたしたちのためになることだからだと思うんですよね。わたしたちは普段、誰かから親切にしてもらったり、良くしてもらったりしたら当然、「どうもありがとう」と言ったり、何か感謝の品を贈ったりするものだと思います。
でも、神さまは人とは違いますから、わたしたちが神さまが良くしてくださったことに対して、いちいち感謝しないというので不機嫌になるとか、そうした方ではもちろんありません(笑)。ただ、わたしたち信徒に与えられている聖霊を通して、そのような交わりがある時、わたしたちが信仰によって輝くその瞬間、神さまはご自分のためにではなく、それがわたしたちの幸福のためであるがゆえに、その至福の状態を「わたしたちのために」喜んでおられる……ということなのではないでしょうか。
旧約聖書に書き記された、生贄に関しての事細かな規定に関してもそうです。わたしも最初、こうした規定に関して読むのが「多少面倒だなあ」と感じたりしましたし、「まったくこの通りに行うというのは、昔の人々にとっても相当大変だっただろうな」と思ったりしたものでした。けれど、この「生贄」というのは最終的に――アブラハムが息子のイサクを神さまに捧げようとしたのと同じく、そのすべてが人間にとって「意味のあることだった」ということが、イエスさまが十字架で贖いの御業を完成させたのちの今の世を生きるわたしたちにはよくわかっています。
アブラハムにしても、天国で神さまのみそばへ行かれてから、「何故約束の子イサクを捧げる必要があったのか」について、神さまの深いお考えに畏敬の念しか覚えることが出来なかったのではないでしょうか。実際には天使の手が入って止められることになるとはいえ……この時、アブラハムにはおそらく、「神は息子イサクを甦らせられるほど力のある方だ」との信仰があり、また、イサクも「お父さん、あなたはわたしに何をされるのですか」と抵抗するでもなく、父親のなそうとすることに全面的に信頼しきっていたものと思われます。
これは、非常に重要な信仰の<型>ですが、わたしたちも地上で試練が許される時、「この一見無意味にさえ思える苦しみには、何か意味があるのだろうか」と感じることがよくあります。けれど、あの偉大な信仰の父アブラハムでさえ――神の友とされたアブラハムでさえ、生きている間、神さまの深遠なお考えについて理解していたわけではありません。
約束の子を与えると神さまに語られていながら、自分も妻も子供など望めぬ高齢であり、まずは人間的な考えに頼り、妻のサラの女奴隷によってアブラハムはイシュマエルという子を得ています。ところが、約束の子イサクが与えられてみると、今度はその子と母のハガルを追放せざるをえなくなり……アブラハムは「このことでは非常に悩んだ」と聖書にありますから、神さまの約束の言葉のみ信じてさえいたら良かったのかもしれませんが、今日の信仰時代を生きるわたしたちも、大体のところ似たような失敗を犯してしまいます。
たとえば、祈りの中で「こう語れた気がする」という思いが来ても、それが自分にとって都合の悪いものだと「いやあ、気のせいでしょ!」と、耳を塞いで口笛を吹いてみたり、聖霊さまを通して語られたイエスさまの御言葉が成就しないと、人間的な方策、人間の肉の腕に頼った手段を講じはじめてしまい、本当の神さまの言葉の成就がやってきた時――「あんなにアタフタしたりして、自分は本当に不信仰だなあ」と思わされたりします(^^;)
そして、こうした人間的にこれ以上もなく低くされる立場にあったり、弱くされている時でも……聖霊さまを通して神さまに祈り、感謝と賛美を捧げることの出来る恵みが、クリスチャンの方には誰にでも与えられています。なんと言いますか、神さまはやっぱり「そうされると気持ちいいから、わたし(神)に感謝したり賛美したりしなさいよ」というのではなく――そうすることで、わたしたちが聖霊さまに満たされる喜びに満ち満ちている至福の状態を喜ばれるがゆえに、そのような恵みの道をもわたしたち人間に備えてくださったのだと思います。
それではまた~!!
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