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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

決断。一日に3万5千回。

2022年09月16日 | キリスト教

 いつだったか、何かで聞いたところによると、人は1日に3万5千回も何かの選択を行っているそうです。

 少し前に「朝のルーティン」というのが流行ってた気がしますが(今もかな?)、朝起きて会社や学校へ行くまで「何をどの順序でするか」決まってる方は多いと思うんですよね。

 でも、そんな中でも「今朝はパンじゃなくてごはんにしようかな」とか、時折変更することがあったり、その前日にもし着ていくものが決まってなかったとしたら、「何を着ていくか」というのも選択のひとつと思います。あるいは、不測の事態ということもありますよね。「目覚まし時計が鳴ったのに気づかなかったあ~!!」とか、色々……。

 すると、いつも決まっている「朝起きたら順にすること」の順序を変えたり省いたり、そのひとつひとつの必要最低限しなきゃいけないことの時間を短縮したりと、現代社会を生きるわたしたちはとかく忙しく、あくせくしています。

 そんなわけで(どんなわけだか☆)、人生は決断の連続なのです(真顔)。それで、人間というのは間違う生き物であり、究極、何が<人間らしさ>かというと、人間は間違うからこそ人間なのであり、人間から「間違い」を抜くと人間らしさが失われる……みたいなことが、某海外ドラマで言われていたことがありました。

 わたし最初、哲学的すぎて「?」と思ったのですが、一日3万5千回何かの決断をするとして――人類の全員がその3万5千回、常に正しい決断を行えるとしたら、すなわちそれが地上の楽園、ユートピアということになると思いませんか?(^^;)

 そうしたら、わたしたちから「間違わないことによって人間らしさは失われる」かもしれませんし、誰もがみな清く正しく生きる社会というのは、信号機を無視する人間ひとりいない、素晴らしいけれども退屈でつまらない社会……になる可能性もあるにせよ、おそらく争いごとはなくなるか、あっても軽度のものということになるかもしれません。

 けれど、人間には<自由意志>が与えられていることにより、物凄くだらしなく堕落して生きることを選択することも出来、その他軽微な罪から重度な罪に至るまで、何かの罪を犯す自由がわたしたちにはあります。でも、「知らない間に誰かを深く傷つけている」ことも含め、何かの罪を犯したくて犯している人というのは基本的にあまりいないと思うわけです。

 それどころかむしろ、「生まれた時から死に至るまで、何ひとつ罪など犯したくない」と思い、「出来うる限り清らかな生涯を送りたい」といくら願ったところで……わたしたちは必ずなんらかの罪に引っかかってしまいます。これは全人類、誰ひとりとして例外なくそうでしょう。キリスト教では「すべての人は罪人である」と言われるらしい、聖書にそう書いてあるらしい――ということを知っている方はノンクリスチャンの方にも多いと思います。

 それは人類の始祖アダムとエヴァが罪を犯したからで、この原罪によって、「すべての人は罪人となった」、彼らから生まれた子孫の我々もまた同じように原罪を背負う罪人となった……もちろんまあ、「だからキリスト教はおかしーんだっつの!」という、この場合の批判については長くなるのであえて取り上げませんが、キリスト教において、この原罪を人間から取り除くことが出来るのは、ただひとり神の子イエス・キリストだけです。

 ただひとり、イエス・キリストだけが人々を罪のくびきから解放することがお出来になります。これはそのまま「罪の奴隷のままでいるか」、「それとも神の幸いな奴隷となるか」の選択とも言えます。

 わたしもたぶん、「神は全能であるのだからして、アダムとエヴァが罪を犯さないようにすることも出来たはずだ」とか、「罪を犯しても仕方ないシチュエーションを与えておいて、ほれ見よ、おまえは罪を犯したな。楽園から追放するぞ……などとは、そのような心の狭い神を自分は信じたいと思わない」などなど、心の中で理屈をこねていたとしたら、わたしはいつまでもイエス・キリストの救いに与ることはなかったでしょう。

 一日に選択するという3万5千回のうち、どのくらいのことを「そのことは神さまにお任せします」、「おっしゃる通りに致します」と言えるかどうかはわたし自身、まったく心許ないとはいえ――最低でも1日1回以上、そう言えることが大切なのかもしれないと思ったりするんですよね(^^;)

 ある信仰者の方が「1日1回、5分祈ることから人生は変わる」とおっしゃっていましたが、これはある方にとってはとても大きなチャレンジと思います。「1日1回、たったの5分?いや、むしろたったの5分なら祈っても祈らなくても何も変わらないって!」と考えることにより、結局のところ何も変わらないということはあると思います。

 でも、このブログ内で何度も言及しているマーリン・キャロザース先生の「すべてのことを神さまに感謝し賛美する」ことの実践というのは――マーリンさんの『讃美の力』といったご著書の中に何度も言及のあるとおり、「馬鹿げているが、それ以外わたしたちには他にどうしようもない」とか、「そうしたところで、これ以上事態は悪くなりようがないのだから」と考え、神さま、イエスさまの御前に膝を屈めた人だけが、なんらかの事態の解決を見ていったのです。

 また、クリスチャンの祈りというのは「聖霊さまに思いを潜める」ということでもあります。イエスさまはわたしたちが一歩近づくと二歩離れるといったような方ではなく、「聖霊さまを通して、いつでも繋がっている」ことを知らせてくださる方なのですから。


 >>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

(ローマ人の手紙、第8章28節)


 わたしたちは一日に3万5千回も正しい選択を行なうことは出来ませんが、イエスさまはわたしたちが間違った時にも、それを不思議な形で益としてくださろうとする方です。この方にすべてをお委ねし、助けていただきましょう!

 それではまた~!!






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