
【楽園追放】トマス・コール
まだマーリンさんの感謝と讃美の教えについての途中なんですけど(汗)、ちょっと天国のことについて書いてみようかなと思いますm(_ _)m
といっても、このこともまたマーリンさんのお話とも繋がってることなので、先に書いても問題ないかなあ……なんて(^^;)
では、まず最初に『雲の間にある虹』2012年6月号より、マーリンさんのメッセージを引用させていたたぎたいと思いますm(_ _)m

>>あなたは天国に行けますか?
みなさん、幸せですか?
(幸せです!と会場)
なぜ幸せなのですか?
(声なし。マーリンさん、手を耳に当てて聴くそぶり)(笑)
みなさん、なぜ幸せなのですか?どなたかなぜ幸せなのかおっしゃって下さい。
(会場の声)=「神さまを知っているからです」
神さまを知っているから。そうですね、でも、いつでも、すぐに返事ができること。これはとても重要なことです。英語でとは言いません。日本語でも結構ですから。
ここアメリカでは、たくさんの人が教会に通っていますが、最も重要なことを知らない人が本当にたくさんいます。
そこで私は、あなたは天国に行けますかと言う質問を相手にしてみることを覚えました。そんな質問をしたとき、どんな返事が返ってくると思いますか?たとえば、あなたが誰かに、「あなたは天国に行けますか」と聞いたとき、どんな返事が返ってくると思うか通訳者に言って下さい。
(会場の声)=「行けたらいいなあ」。(女性の声で)「私は行きますよ」
アメリカで多い答えは、「行くことを望んでいます」です。
これは私の祈りですが、今日、みなさんがこの場を去るまでに、いまそこのご婦人がおっしゃったように、私は、自分が天国に行くのがわかっていますと言えるようになって欲しいのです。これを英語で言いますと、"I know I am going to heaven."ですが、みなさん、どうぞ声を出して英語で言ってみて下さい。
(会場、英語で唱和)
おお、素晴らしいじゃないですか!
でも、天国へ行くのはわかっていますと私が言うと、多くの人は戸惑います。そして、天国に行けることがどうして分かるのかねと聞くのです。答えは簡単です。聖書に書いてあることを信じれば良いのです。みなさんのなかで、自分は間違いなく天国に行く資格があるほど良い人間だと思っている方はおられますか?私は違います。私が行けると信じているのは、イエスさまを信じているからです。以前、自分が天国に行けるとわかったらどれほど素晴らしいだろうと思っていたときがありました。そこで私は本を書き始めました。天国に行けるかどうかを知るにはどうしたら良いかが主題でした。
(『雲の間にある虹』2012年6月号より)
(マーリン・キャロザースさんの音声・映像などはこちらからm(_ _)m)
ええと、実はですね、わたし『天国は、ほんとうにある』という映画を見まして、映画見終わって思ったのは元になった原作の本を読んでから天国について何か書く……というふうにしたほうがいいのかなということでした。でも、わたしの頭は基本的にザル+トリ
なので、映画の内容を忘れないうちにちょっと書き留めておきたいと思ったのです(^^;)
日本でもし、「あなたは天国へ行けると思いますか?」と聞いた場合――やっぱり「行けるといいですね
」くらいな感覚でお答えになる方が多いのではないでしょうか。
わたし自身の答えはどうかというと、わたし自身が天国へ行けるとか、イエスさまのことを信じているんだから、そりゃ行けるでしょ☆とか思っているわけでもなく……イエスさまを信じた時に与えられた聖霊さまがそう保証してくださっているから、死んだら天国へ行くことになるというか、天国へ行くことが出来るとわかっているという、何かそんな感じです(^^;)
たとえば、イエスさまのことを信じるきっかけとして、生死に関わる病気を通して……という方がいらっしゃると思います。それでも日本だとあまりピンと来ないところがありますが(汗)、欧米のキリスト教国だと特に、病床に牧師さんがやって来て「今この時、信じませんか?」と言われ、酸素マスク越しに患者さんが頷くみたいな、そうしたイメージがわたしの中にはあります。
でもわたしの場合、イエスさまのことを信じた時には、「自分が天国へ行けるか」とか「死後の世界に不安がある」ということがイエスさまのことを信じる動機ではなかったので……イエスさまが十字架上で流された血潮を信じるだけで、イエスさまが神の御子であることを告白しただけで、永遠の罪の赦しや天国へ行けるという特権が与えられる――といったことを理屈で信じたわけではありませんでした。
言ってみれば、「よし、イエスさまを信じるとそんな特典がついてくるのか!そいつはラッキーだな。そんじゃひとつ信じてみようじゃないか!」みたいな、そんな感じでは当然なかったのです(^^;)
正直、わたし自身はずっと死んだあとは無の暗闇があるばかり……でも、それがどうして不幸なのだろうか?という、そのような死生観でずっと生きてきましたし、天国などというものは、死を恐れる人間が作りだした幻想に過ぎない……という方の意見も、実にもっともだなと、理屈や理性によってはある程度納得します。
わたし、臨死体験系の本をずっと色々読んでみようと思ってて、いまだに読んでなかったりするのですが、でも、「天国は、ほんとうにある」という映画の中でもそのことに軽く触れられているシーンがありました。つまり、死が迫った時人間は安らぎを得ようとして脳がそうした種類のホルモンを出すということでした。その時に、キリスト教を信じている人であればイエス・キリストを、イスラム教を信じている人であればマホメット(ムハンマド)を見たりすることもあるだろう、と。よく、生きるか死ぬかのところを生還した方が、天国のお花畑とか、野原の向こうに虹のある光景が見えたとか――そういう種類の同一の報告がたくさんあるのも、それで説明がつく、というのでしょうか(^^;)
でもやっぱり、それとはまた別に多くの方が、「それを越えたもっと大きな何かがあるはずだ」と信じていますし、実際天国があるかどうかは別として、「生まれ変わりはある」と信じている方もいらっしゃいます。ようするに、死んだあとその魂は意識を離れて、その場所をなんと呼ぶかはそれぞれとしても、ここではとりあえず<霊界>(笑)としておきたいと思います。そこで、生前の罪から魂が清められるのを待ってから、人は再び地球(また、別の惑星に生まれ変わると信じている方もいます)へ生まれ、そうして輪廻転生していく……という死生観を持っていらっしゃる方もいます。
正直、わたしの場合、次もまたこの世に生まれ変わってきたいなといった望みがなかったため、それであればむしろ死後は<無>で、死ぬというのはその<無>の一部になることだ……と考えていたほうが気楽(?)だったというか(^^;)
また、イエス・キリストも仏陀もマホメットも信じていないけれども、<神>というのはやはり存在していて、そうした存在のことを大いなる存在といったように呼び、人間というのは、その大いなる存在の意識の一部であり、死んだあとはまたその大いなる存在の元に帰るのだ……といった形の死生観をお持ちの方もいらっしゃると思います。
「メメント・モリ(死を想え)」という言葉がありますけれども、普段人はそう天国はあるかどうかとか、死後の世界はどんなか……みたいなことはあまり考えずに日々を生きてることのほうが多いですよね。また、「わたしは何故存在しているのだろうか」といったことも……実際、わたしがキリスト教を信じることになったのも、死んだあとがどうこうではなく、今この瞬間生きているがゆえに起きる問題を解決して欲しいという望みがあったから信じた――という部分のほうが絶対的に大きいのです。
たとえば、もし明日食べるものがなかったらとか、借金を払えなかったらどうしようとか、そうした逼迫した悩みがある時、死後の世界がどーだの、正直考えてる余裕なんてありませんよね(^^;)
わたしは思う この世ははかなく
苦悩がさけがたく
痛手に満ちていると
だがそんなことが何だろう
わたしは思う わたしたちはやがて死に
どんなに若々しい生命も
やはり死にはかてないと
だがそんなことが何だろう
わたしは思う 天国では
とにかくすべてが公平にされ
何らかの新しい配分にあずかると
だがそんなことが何だろう
(『ディキンスン詩集』(新倉俊一さん編・訳、思潮社刊)
これは、エミリー・ディキンスンの詩の中でわたしが特に好きなもののひとつなのですが、結局のところすべての人は死ねば平等になるというのなら――では、生きている間にある格差や不平等によって割を食って死んだ人が生きている間に受けた傷はどうなるのかとか……天国がどうのじゃなくて、今この瞬間、地上でどう生きるのかということのほうがよほど重要じゃないかと、わたし自身、その意見こそまったくもっともだといったようにも思うのです。
ただ、これは理屈とか理性の問題ではなく、イエスさまを信じて聖霊のバプテスマを受ける時――確かにその人の魂に「これであなたは天国へ行けますよ」という保証の印が押されるというのは本当のことなのです。もしこのことを主張するのがわたしだけだというのなら、わたしひとりの頭がおかしいということで済む話なのですが、クリスチャンというのは言ってみれば「ああ、あなたもあの体験をなさったのですね」という経験をした人々の集まりといっていいと思います(^^;)
つまり、わたしが天国を信じている理由というのは、第一にそのことがあるわけですが、第二に、それが人間の頭では思いつかない、神さま独自の方法だった、ということがあると思います。
たとえば、日本のごく平均的な家庭で育った場合、家には当然仏壇がありますよね。でも、その前で手を合わせる時、ご先祖さまたちが全員天国/極楽浄土にいる……といったように、具体的に想像したりしない場合のほうが多いのではないでしょうか。「ただ漠然となんとなく」そのような場所で今は苦しみもなく微笑んで暮らしているといい……といったように、曖昧に天国/極楽浄土について考えているような感じですよね、たぶん(そして実際、外国の方などに「日本人は仏教徒としてどんなふうに死後の世界を捉えているのか」などと質問されると、答えに詰まるというのがわたしたち日本人だと思います
「そこは曖昧でええやんか。なんでそうおまえら欧米人はそんなに白黒はっきりさせたがるねん!」みたいな
)
でもキリスト教って、生前にいいことをした人だけが天国へ行けるというのではなく、イエス・キリストを信じている、イエス・キリストの血の贖いを信じている、イエス・キリストが神の御子であることを告白する魂を持つ人だけが――聖書の言う天国へ行くことができるのです。
また、聖書を読むと、「天国ってこんなところらしい」という情報が書いてはあるものの、正直その全体像についてははっきりとまではわかりません。もちろん、人間の頭では想像できなくらい素晴らしいところであるらしい……ということはわかるとはいえ、にも関わらず何故わたしたちクリスチャンはこんなにもはっきりと天国を信じているのでしょうか。
正直、生まれ変わりというのは、ないとは言いませんが(何故なら、死後の世界のことを「これが真理です」と証明してみせることの出来る人は地上に誰もいないからです)、これはわたし、人間として頭の悪いわたしの頭脳でも理性で考えつくことだなと思うんですよね。わたし自身、自分がクリスチャンになる前まではたまに思ってました。だって、地球上に人類が誕生して以来、一体何兆人(兆ではきかないですよね・笑)が生まれては死にということを繰り返してきたのでしょうか。
その人たちが全員<天国>にいるって、なんか変だなって感じるというか。だったら、その中の人たちが生まれ変わりを繰り返して輪廻転生してるって考えるのが一番合理的な気がします(^^;)
また、死後の世界が<無>であるなら、これはまあ、この宇宙全体自体が結局のところ偶然の連続で生まれて神はいないということに、この論理を突き詰めていくとなるでしょうか。でもやっぱり、「もしこの世界に神がいる」と仮定した場合、この死後の虚無世界というものも、ちょっとおかしいと思うんですよね。
他に、死後は<その人が生前信じたとおりの場所>へ行くという考え方などもあるかもしれませんが、これもやはり人間が理性的かつ合理的に考えた結論だという気がします。
ただ、死後の世界、第二の生、天国というものがもしあるとしたら――それはようするにパラダイムシフト後の世界だということだけは言えるのではないでしょうか。
つまり、天国というのはわたしたちが今肉体を持って脳で考える、その想像を越えた世界なわけですが、ある程度わかりやすくたとえるとしたら、かつてのわたしたち人類のご先祖さまが、携帯などという端末を個々人が持つようになる……などとは想像もできないということに似ています。
今はなんでも携帯やパソコンなどによって「繋がって」いますが、わたしたちは何故そんなことが出来るのか、このシステムの大元がどんなことになっているのか、知っているのはある程度コンピューターについて専門的な知識を持っている人だけでしょう。クリスチャンというのは言ってみれば、神さまと信仰や祈りの力を通してこのすべての世界の<大元>となっている方と常に霊的に繋がっている人々と言っていいのかもしれません。
もちろん、「それをどう説明、あるいは証明するのですか?」と多くの方が聞くかもしれません。けれど、おそらくわたしたちの答えはひとつです。「携帯やパソコンであなた方がいつでも何かにアクセスするのと同じく、それはまったく確かなことなのです」と。
さて、長くなりましたので、このことについては、また何か書くことにしようと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
まだマーリンさんの感謝と讃美の教えについての途中なんですけど(汗)、ちょっと天国のことについて書いてみようかなと思いますm(_ _)m
といっても、このこともまたマーリンさんのお話とも繋がってることなので、先に書いても問題ないかなあ……なんて(^^;)
では、まず最初に『雲の間にある虹』2012年6月号より、マーリンさんのメッセージを引用させていたたぎたいと思いますm(_ _)m

>>あなたは天国に行けますか?
みなさん、幸せですか?
(幸せです!と会場)
なぜ幸せなのですか?
(声なし。マーリンさん、手を耳に当てて聴くそぶり)(笑)
みなさん、なぜ幸せなのですか?どなたかなぜ幸せなのかおっしゃって下さい。
(会場の声)=「神さまを知っているからです」
神さまを知っているから。そうですね、でも、いつでも、すぐに返事ができること。これはとても重要なことです。英語でとは言いません。日本語でも結構ですから。
ここアメリカでは、たくさんの人が教会に通っていますが、最も重要なことを知らない人が本当にたくさんいます。
そこで私は、あなたは天国に行けますかと言う質問を相手にしてみることを覚えました。そんな質問をしたとき、どんな返事が返ってくると思いますか?たとえば、あなたが誰かに、「あなたは天国に行けますか」と聞いたとき、どんな返事が返ってくると思うか通訳者に言って下さい。
(会場の声)=「行けたらいいなあ」。(女性の声で)「私は行きますよ」
アメリカで多い答えは、「行くことを望んでいます」です。
これは私の祈りですが、今日、みなさんがこの場を去るまでに、いまそこのご婦人がおっしゃったように、私は、自分が天国に行くのがわかっていますと言えるようになって欲しいのです。これを英語で言いますと、"I know I am going to heaven."ですが、みなさん、どうぞ声を出して英語で言ってみて下さい。
(会場、英語で唱和)
おお、素晴らしいじゃないですか!
でも、天国へ行くのはわかっていますと私が言うと、多くの人は戸惑います。そして、天国に行けることがどうして分かるのかねと聞くのです。答えは簡単です。聖書に書いてあることを信じれば良いのです。みなさんのなかで、自分は間違いなく天国に行く資格があるほど良い人間だと思っている方はおられますか?私は違います。私が行けると信じているのは、イエスさまを信じているからです。以前、自分が天国に行けるとわかったらどれほど素晴らしいだろうと思っていたときがありました。そこで私は本を書き始めました。天国に行けるかどうかを知るにはどうしたら良いかが主題でした。
(『雲の間にある虹』2012年6月号より)
(マーリン・キャロザースさんの音声・映像などはこちらからm(_ _)m)
ええと、実はですね、わたし『天国は、ほんとうにある』という映画を見まして、映画見終わって思ったのは元になった原作の本を読んでから天国について何か書く……というふうにしたほうがいいのかなということでした。でも、わたしの頭は基本的にザル+トリ

日本でもし、「あなたは天国へ行けると思いますか?」と聞いた場合――やっぱり「行けるといいですね

わたし自身の答えはどうかというと、わたし自身が天国へ行けるとか、イエスさまのことを信じているんだから、そりゃ行けるでしょ☆とか思っているわけでもなく……イエスさまを信じた時に与えられた聖霊さまがそう保証してくださっているから、死んだら天国へ行くことになるというか、天国へ行くことが出来るとわかっているという、何かそんな感じです(^^;)
たとえば、イエスさまのことを信じるきっかけとして、生死に関わる病気を通して……という方がいらっしゃると思います。それでも日本だとあまりピンと来ないところがありますが(汗)、欧米のキリスト教国だと特に、病床に牧師さんがやって来て「今この時、信じませんか?」と言われ、酸素マスク越しに患者さんが頷くみたいな、そうしたイメージがわたしの中にはあります。
でもわたしの場合、イエスさまのことを信じた時には、「自分が天国へ行けるか」とか「死後の世界に不安がある」ということがイエスさまのことを信じる動機ではなかったので……イエスさまが十字架上で流された血潮を信じるだけで、イエスさまが神の御子であることを告白しただけで、永遠の罪の赦しや天国へ行けるという特権が与えられる――といったことを理屈で信じたわけではありませんでした。
言ってみれば、「よし、イエスさまを信じるとそんな特典がついてくるのか!そいつはラッキーだな。そんじゃひとつ信じてみようじゃないか!」みたいな、そんな感じでは当然なかったのです(^^;)
正直、わたし自身はずっと死んだあとは無の暗闇があるばかり……でも、それがどうして不幸なのだろうか?という、そのような死生観でずっと生きてきましたし、天国などというものは、死を恐れる人間が作りだした幻想に過ぎない……という方の意見も、実にもっともだなと、理屈や理性によってはある程度納得します。
わたし、臨死体験系の本をずっと色々読んでみようと思ってて、いまだに読んでなかったりするのですが、でも、「天国は、ほんとうにある」という映画の中でもそのことに軽く触れられているシーンがありました。つまり、死が迫った時人間は安らぎを得ようとして脳がそうした種類のホルモンを出すということでした。その時に、キリスト教を信じている人であればイエス・キリストを、イスラム教を信じている人であればマホメット(ムハンマド)を見たりすることもあるだろう、と。よく、生きるか死ぬかのところを生還した方が、天国のお花畑とか、野原の向こうに虹のある光景が見えたとか――そういう種類の同一の報告がたくさんあるのも、それで説明がつく、というのでしょうか(^^;)
でもやっぱり、それとはまた別に多くの方が、「それを越えたもっと大きな何かがあるはずだ」と信じていますし、実際天国があるかどうかは別として、「生まれ変わりはある」と信じている方もいらっしゃいます。ようするに、死んだあとその魂は意識を離れて、その場所をなんと呼ぶかはそれぞれとしても、ここではとりあえず<霊界>(笑)としておきたいと思います。そこで、生前の罪から魂が清められるのを待ってから、人は再び地球(また、別の惑星に生まれ変わると信じている方もいます)へ生まれ、そうして輪廻転生していく……という死生観を持っていらっしゃる方もいます。
正直、わたしの場合、次もまたこの世に生まれ変わってきたいなといった望みがなかったため、それであればむしろ死後は<無>で、死ぬというのはその<無>の一部になることだ……と考えていたほうが気楽(?)だったというか(^^;)
また、イエス・キリストも仏陀もマホメットも信じていないけれども、<神>というのはやはり存在していて、そうした存在のことを大いなる存在といったように呼び、人間というのは、その大いなる存在の意識の一部であり、死んだあとはまたその大いなる存在の元に帰るのだ……といった形の死生観をお持ちの方もいらっしゃると思います。
「メメント・モリ(死を想え)」という言葉がありますけれども、普段人はそう天国はあるかどうかとか、死後の世界はどんなか……みたいなことはあまり考えずに日々を生きてることのほうが多いですよね。また、「わたしは何故存在しているのだろうか」といったことも……実際、わたしがキリスト教を信じることになったのも、死んだあとがどうこうではなく、今この瞬間生きているがゆえに起きる問題を解決して欲しいという望みがあったから信じた――という部分のほうが絶対的に大きいのです。
たとえば、もし明日食べるものがなかったらとか、借金を払えなかったらどうしようとか、そうした逼迫した悩みがある時、死後の世界がどーだの、正直考えてる余裕なんてありませんよね(^^;)
わたしは思う この世ははかなく
苦悩がさけがたく
痛手に満ちていると
だがそんなことが何だろう
わたしは思う わたしたちはやがて死に
どんなに若々しい生命も
やはり死にはかてないと
だがそんなことが何だろう
わたしは思う 天国では
とにかくすべてが公平にされ
何らかの新しい配分にあずかると
だがそんなことが何だろう
(『ディキンスン詩集』(新倉俊一さん編・訳、思潮社刊)
これは、エミリー・ディキンスンの詩の中でわたしが特に好きなもののひとつなのですが、結局のところすべての人は死ねば平等になるというのなら――では、生きている間にある格差や不平等によって割を食って死んだ人が生きている間に受けた傷はどうなるのかとか……天国がどうのじゃなくて、今この瞬間、地上でどう生きるのかということのほうがよほど重要じゃないかと、わたし自身、その意見こそまったくもっともだといったようにも思うのです。
ただ、これは理屈とか理性の問題ではなく、イエスさまを信じて聖霊のバプテスマを受ける時――確かにその人の魂に「これであなたは天国へ行けますよ」という保証の印が押されるというのは本当のことなのです。もしこのことを主張するのがわたしだけだというのなら、わたしひとりの頭がおかしいということで済む話なのですが、クリスチャンというのは言ってみれば「ああ、あなたもあの体験をなさったのですね」という経験をした人々の集まりといっていいと思います(^^;)
つまり、わたしが天国を信じている理由というのは、第一にそのことがあるわけですが、第二に、それが人間の頭では思いつかない、神さま独自の方法だった、ということがあると思います。
たとえば、日本のごく平均的な家庭で育った場合、家には当然仏壇がありますよね。でも、その前で手を合わせる時、ご先祖さまたちが全員天国/極楽浄土にいる……といったように、具体的に想像したりしない場合のほうが多いのではないでしょうか。「ただ漠然となんとなく」そのような場所で今は苦しみもなく微笑んで暮らしているといい……といったように、曖昧に天国/極楽浄土について考えているような感じですよね、たぶん(そして実際、外国の方などに「日本人は仏教徒としてどんなふうに死後の世界を捉えているのか」などと質問されると、答えに詰まるというのがわたしたち日本人だと思います


でもキリスト教って、生前にいいことをした人だけが天国へ行けるというのではなく、イエス・キリストを信じている、イエス・キリストの血の贖いを信じている、イエス・キリストが神の御子であることを告白する魂を持つ人だけが――聖書の言う天国へ行くことができるのです。
また、聖書を読むと、「天国ってこんなところらしい」という情報が書いてはあるものの、正直その全体像についてははっきりとまではわかりません。もちろん、人間の頭では想像できなくらい素晴らしいところであるらしい……ということはわかるとはいえ、にも関わらず何故わたしたちクリスチャンはこんなにもはっきりと天国を信じているのでしょうか。
正直、生まれ変わりというのは、ないとは言いませんが(何故なら、死後の世界のことを「これが真理です」と証明してみせることの出来る人は地上に誰もいないからです)、これはわたし、人間として頭の悪いわたしの頭脳でも理性で考えつくことだなと思うんですよね。わたし自身、自分がクリスチャンになる前まではたまに思ってました。だって、地球上に人類が誕生して以来、一体何兆人(兆ではきかないですよね・笑)が生まれては死にということを繰り返してきたのでしょうか。
その人たちが全員<天国>にいるって、なんか変だなって感じるというか。だったら、その中の人たちが生まれ変わりを繰り返して輪廻転生してるって考えるのが一番合理的な気がします(^^;)
また、死後の世界が<無>であるなら、これはまあ、この宇宙全体自体が結局のところ偶然の連続で生まれて神はいないということに、この論理を突き詰めていくとなるでしょうか。でもやっぱり、「もしこの世界に神がいる」と仮定した場合、この死後の虚無世界というものも、ちょっとおかしいと思うんですよね。
他に、死後は<その人が生前信じたとおりの場所>へ行くという考え方などもあるかもしれませんが、これもやはり人間が理性的かつ合理的に考えた結論だという気がします。
ただ、死後の世界、第二の生、天国というものがもしあるとしたら――それはようするにパラダイムシフト後の世界だということだけは言えるのではないでしょうか。
つまり、天国というのはわたしたちが今肉体を持って脳で考える、その想像を越えた世界なわけですが、ある程度わかりやすくたとえるとしたら、かつてのわたしたち人類のご先祖さまが、携帯などという端末を個々人が持つようになる……などとは想像もできないということに似ています。
今はなんでも携帯やパソコンなどによって「繋がって」いますが、わたしたちは何故そんなことが出来るのか、このシステムの大元がどんなことになっているのか、知っているのはある程度コンピューターについて専門的な知識を持っている人だけでしょう。クリスチャンというのは言ってみれば、神さまと信仰や祈りの力を通してこのすべての世界の<大元>となっている方と常に霊的に繋がっている人々と言っていいのかもしれません。
もちろん、「それをどう説明、あるいは証明するのですか?」と多くの方が聞くかもしれません。けれど、おそらくわたしたちの答えはひとつです。「携帯やパソコンであなた方がいつでも何かにアクセスするのと同じく、それはまったく確かなことなのです」と。
さて、長くなりましたので、このことについては、また何か書くことにしようと思いますm(_ _)m
それではまた~!!

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