神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

マーリン・キャロザースさんの感謝と賛美の教え-【4】-

2016年12月16日 | キリスト教
【使徒ぺテロとアンデレの召命】ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m


 では、引き続きマーリンさんのメツセージから学んでいきたいと思いますm(_ _)m





 >>私たちは何も出来ない人間でしょうか?

 神さまがどんな方法で人を用いたいと願っておられるか、それを知るのはあなた方や私にとってきわめて重要なことです。なぜなら、もし私たちの内の誰か1人が、もう1人の人をイエスさまのところへ導き、永遠に天国に住まわせることが出来るなら、素晴らしいことだからです。

 そうなれば、私たちのこの地上での人生はとても重要なものとなるでしょう。それに私たちは、1人ではなく、5人の人たちをイエスさまに導ける可能性を持っているかもしれないのです。いや、10人かもしれません。100万人かもしれないじゃないですか。

 しかし、サタンはいつも私たちに囁きかけています。

「いやいや、君たちには何も出来はしないのだよ」

 だから私は、自分が何も出来ない人間なのだと感じながら大人になりました。

 あなた方の中には、おそらく非常に賢い人たちがいらっしゃるでしょう。学校ではいつも良い成績を収める人です。でも、私はそんな人間ではありませんでした。主はそのご計画として、あるタイプの頭脳を私にくださっていました。それは、なんでもかんでもすぐに忘れてしまう頭脳でした。だから、初期の教育課程から、私たちが高校と呼んでいる学校、さらに大学へと進む間、Aはいつもたったひとつだけでした。いつもそうだったのです。私の両脇に座っている人たちは、全科目がAの人たちでした。だから私は、いったい自分のどこが間違っているのだろうといつも考えていたのです。皆さん、そんなふうに感じたことはありませんか?

 しかし神さまは、私がいるべきところにいることを望んでおいでなのでした。そして、自分で気がついた事がありました。それは、私はものを書くのが大好きだということでした。だから先生が、なにか物語、世界のある場所のことを書いてみましょうと言うと、私は喜んで書いたのです。とにかく、ものを書くことが大好きでした。でも、その成績は決して良くありませんでした。

 神学校では良い説教者になるための学びをしました。そこでは、説教を書くのです。書いたものは、先生が見てから返してくれるのですが、そこにはいつも、「マーリン、君がベストを尽くして書いたのは良く分かるよ」と書いてあり、それを見て私はガッカリしたものでした。与えられた点も最悪でした。

 神さまはなぜ、私がこんなところを通るようにされたのでしょう?皆さまはお分かりになりますか?それは、私、マーリンが自分では何も出来ないことを知るためだったと私は信じています。神さまは私に、非常にはっきりしたメッセージをくださっていたのです。何を知って欲しいかについてのメッセージを。

(『雲の間にある虹』2010年7月号より)


 前回の【3】のところでマーリンさんの経歴について書いたとおり、その部分を見ただけでも「マーリンさんって凄い方なんだなあ!」と思うのですが、でもマーリンさんがおっしゃるには、自分は学校の成績もそう良くなかったし、書くことについて先生がそう褒めてくれたこともなければ、お説教のほうもまたそんなに……といった感じだったと、マーリンさんはそう自己申告されておられます(^^;)

 けれど、そのように自己評価しておられるマーリンさんが、のちに全世界で1900万部を越えるベストセラーの本(「獄中からの讃美」)を出版され、映像化もされ、さらには五十万人の方の前でもお話するという、主の器へと変えられていったのでした。

 わたし自身は1%聞き従って(これが自分の意志を使うところです)、残りの99%はすべて神さまにしていただく……というのが信仰の原則であると思うところがあるのですが、マーリンさんも最初は1の聞き従いからはじめて、1聞き従ったら、神さまが次から次へと道を開いてくださったという段階があったのではないかと思うんですよね。

 これは人間の目から見るととても小さなことで、最初は「こんな1の聞き従いがなんになるだろう」みたいに感じられても、続けていくと「これが最高にして最善の道」であることがわかっていくという、そんな感じのことだという気がします。

 神さまが誰か人を用いる時に――あなたは大学を出ているべきだとか、専門学校に通っているべきだとか、ある特殊な専門職に長く携わっていたという経歴が必要だとか、そういうことは一切ないということがわかります。イエスさまが最初に弟子にされたペテロやアンデレなども<無学な人>だったと言いますし、何か人間として立派な行いをしたからとか、神さまに聞き従う条件としてはあまり関係がないらしく。。。(^^;)


 >>ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」

 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。

 イエスは彼らに言われた。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」

 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。

 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

(マルコの福音書、第1章14~20節)


 つまり、神さまはわたしたちの<今、そのまま>、<ありのまま>の状態でわたしについて来なさい。とおっしゃっているということでした。

 でも、今わたしが仮に何かの専門職に就いていて、年収もある程度あり、社会的名声といったものもそれに伴ってあったとしたらどうでしょうか。たぶん、わたしなら「今ある安定した地位を捨ててまで」、神さまに聞き従うということはしないと思います。

 その点、ペテロやアンデレは、漁師という自分の本職を捨ててまでイエスさまについていきました。もちろん、彼らはその点もともと貧しかったから、それでイエスについていったのだろう……という見方もできるかもしれません。また、イエスさまから「この人は何かが違う」という雰囲気がはっきりと感じられたからとか、色々理由はあったかもしれません。

 でも普通は、やっぱりそう「すぐに信じる」とか「すぐに聞き従う」って出来ない気がするんですよね(^^;)

 たとえば、「家に帰ってとりあえず女房に相談してから」とか、「両親と話をしてから」とか、「ちょっと考えて」からイエスさまについていくかどうしようか考えて決めるような気がします。

 また、聖書の別の箇所では、ペテロが一晩中漁をして一匹も魚が取れなかったあとで、イエスさまに「網を下ろしなさい」と言われる場面があります。そこでペテロは>>「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と応答します。正直わたし、ペテロも心の中では半信半疑だったんじゃないかという気がします。「まあ、とりあえずイエスさまがそうおっしゃるから」くらいの気持ちだったのではないでしょうか。

 ところが、神さまの言葉があってからペテロが網を下ろしてみると――網いっぱいに魚が大漁に取れたのでした


 >>群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。

 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。

 するとシモンが答えて言った。

「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」

 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網はやぶれそうになった。

 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図して、助けに来てくれるよう頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
 
(ルカの福音書、第5章1~7節)


 たぶん、ノンクリスチャンの方などが物語として普通に新約聖書のこの部分を読んだ場合、「少し誇張されているのではないか」と疑うかもしれません。

 けれど、神さまの祝福を受けられるかどうかの違いって、本当に如実にこういうところに現れるという意味では、実際結構これは怖いことだとわたしなどは思っているのです(^^;)

 今は漁師の方というのは、大きな船でレーダーなどを用いて、ここに魚の大群がいるとか、そういうことがわかるっていいますよね。

 けれど、以前テレビで遠洋漁業に出ておられる方が、たくさんの乗組員を従えながら、なかなかその目当てとしている魚の群れに出会えなくて、「どうしよう、どうしよう」となっているところにようやくレーダーに魚の群れが映る――みたいなシーンを見たことがありました。

 確か、乗組員の方は軽く2~30名はいらっしゃって、もしあまり魚が取れずに帰った場合、とんでもない大赤字で、ひどければ責任者の方は首を吊るしかないといったこともあるとおっしゃっていたと思います。それに、乗組員の方も、漁師の方って結構気性の荒い方が多いですし、漁がうまくいってる時はニコニコ顔でも、これが空振りのボウズってことになると、本当に豹変するというか、そういうところがあると思うんですよね(生活がかかっているのですから、当然のことではありますけども^^;)

 しかも、一度そうしたことがあると、「あいつの船にはもう絶対に乗らねえ」ということで、優秀な乗組員の方を次に集めるのも大変だ……とのことでした。

 本当に、漁というのは命掛けであると同時に漁師家族の全生活がかかっているという意味では――今も昔も変わりがないのかもしれません(^^;)

 そしてイエスさまは、ペテロやアンデレのそうしたこともすべてご存じだったと思います。その上で「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしてあげよう」とおっしゃったのですよね。

 聖書にはそう書いてあるわけではありませんが、これはほとんど「(全財産を捨てて)わたしについてきなさい」、「(すべてのものを捨てて)わたしについてきなさい」ということであり、けれど、そのかわりのものは必ず神さまが保証してくださる……ということでもあったと思います。

 マーリンさんのおっしゃる、神さまから訓練され、整えを受けている時に起きる、「自分では何も出来ない」状態を知るというのは――イエスさまのことを信じ受け容れ、聞き従うことを決めたクリスチャンの多くの方が経験することだと思うんですよね。

 たとえば、病気で弱くされて、その時は「神さまを信じて聞き従うことに決めたのに、どうしてこんなことが」と思ったにしても、まずは「自分では何も出来ない」ことを学ぶというのは、本当によく起きることだと思います。たとえば、脳梗塞から回復する途中で、文字通り自分では何も出来ない状態にされ、のちに、箸を握れることも神さまに感謝、靴の紐を結ぶことが出来ることも感謝、何を行うにも人より時間のかかることも神さまに感謝……そのようにして回復した方がいらっしゃると、以前お聞きしたことがあります。

 けれど、「自分の力で何かする」というのではなく――「何があっても神さまに聞き従う」ということを心に決めたあとは、残りの99%に関しては神さまにやっていただく……というコツを学ぶには、そうしたところをまず最初に通されるということが、本当に多くあると思います(^^;)

 そして事実、神さまはこの法則のようなものをすべての人に当てはめておられますから、仮に今わたしがアルコールに溺れてようと、麻薬中毒に苦しんでいようと、人に蔑まれて捨てられていようと、刑務所に入っていたとしても――「アイツはもう終わりだ」と人々が噂していようと、神さまは人から「あんな人」とか「そんなヤツ」などと言われる好ましからざる人物ですらも、必ず用いてくださいます。

 神さまっていうのは本当に何もしてくれないとつぶやいたり、不満を言うのをやめ、今の自分のありのまま(たとえばアルコール中毒や麻薬中毒であることなど)も含めて、そのままの状態を神さまにお委ねして、イエスさまを信じて祈る時……神さまは必ずこれから人生でどうすれば良いかということを、聖霊さまを通して教えてくださると思います。

 それではまた~!!



 この時(2010年)のマーリンさんの映像がこちらm(_ _)m



 また、マーリンさんの音声や映像をまとめた主の十字架クリスチャンセンターのサイトがこちらとなりますm(_ _)m






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