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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

魚を断って願いを叶えてもらう。

2025年04月19日 | キリスト教
 
 >>もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。
 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
 
(コロサイ人への手紙、第2章20~23節)

 

 わたしがクリスチャンになる前、「~~を断って△□という願い事を叶えてもらう」って、正しいことのような気がしていました。他に、「もう二度と嘘をついたりしませんから、□△という願い事を叶えてください!」など、割と間違った祈り方をしてしまい、あとからむしろ罪悪感に苦しむなど……子供の頃にこうした経験をした方というのは多いのではないでしょうか。

 

 また、これはあくまでわたしの個人的な体験ですが、わたしの場合そうしたやり方で何か願い事が叶ったことはありませんでしたし、そうこうするうち、「結局神さまなんていないんだ~」という気持ちになってゆきました(=祈ったり、願かけしたりしても無駄だし、無意味)。

 

 とはいえ、この間「神道は宗教ではなく日本人の文化です」という言葉を聞き、確かに日本人として生まれ日本という国で生きていると、自然と文化的にそうなると思うわけです。まず一月一日、あるいは三が日のうちどこかで神社へ拝みにゆき、おみくじ引いて破魔矢を買うという……それで何か本当に「運気が上がる」かどうかではなく、それを欠いてしまうと残りの一年祝福されないんじゃないかとか、悪いことが起きるんじゃないかという予感がすることから――習慣として日本人としての文化を守る、というのでしょうか。何かそんな感じと思います。

 

 また、わたし自身こうした神道と仏教の違いもわからず、両方をごっちゃにしたような形で育っても、そのことを特にどーとも思いませんでしたし、神棚=神道、でも仏壇=仏教であるとか、そんなこともまったく意識したことはありませんでした(また、日本人は外国の方などに「神道の神さまと仏教の神さまはどちらが正しいんだい?」などと聞かれても、多くの方は答えられないとか)。

 

 他に、占い系のものを信じている方もとても多く、こちらも「当たる・当たらない」というよりは、「面白いじゃない」、「当たるも八卦、当たらぬも八卦よ」という形で、罪のない楽しみとしている方はとても多いと思います。

 

 わたし自身はクリスチャンになって良かったことのひとつとして――イエスさまを信じたことによって、こうしたすべてが「本当の意味で無意味となり、霊的に解放された」ということだったと思うんですよね(^^;)。

 

 今までにも書いたことがあるとおり、わたし自身は仏教的な行事を守ったりですとか、そうしたことがもともと大好きな人間でした。また、神社をパワースポットとして何度もそこへ行ったりする方の気持ちもよくわかります。何故といって、自分ももともとはそうした人間であり、そういった「縁起のいい」とされる場所を多数訪ねて拝めば拝むほど、自分自身の運気が上がる(かもしれない)と感じるあの感覚が好きであるとか、すごくよくわかります。

 

 また、本当の意味で「そこには神はいない」、「むしろ神以外の何かしらの霊的な偶像が祀られた場所である」とはっきり目が開かれでもしない限りは、「習慣としてずっとそうしてきたし」といった事柄から脱却するということは、人間まずありえません。

 

 他に、日本人的な感覚として、キリスト教についてもイスラム教についても、「そんなん、本物の神であるはずあらへん」という話を色々聞いているため、自分から積極的にそちらへ行こう……ということも大抵ないのではないかという気がします。

 

 わたし自身もそうでしたし、ただキリスト教については特に「知識として知りたい」とずっと思っていたというか。やっぱり西欧の文化的なものを学ぶ基礎として、音楽や絵画や哲学といった事柄に関してはキリスト教の知識が基本にあるので、そこを理解しないことには「本当に理解した」とは言えないんじゃないかな……というか、そうした部分においてキリスト教徒になる気はないんだけれど、キリスト教について詳しくなりたいと思ったわけです。

 

 それで、他の方のお証しを聞いたり読んだりしていて、聖書を開いて読んでいたら、ある聖句が心の中に飛び込んできて、その言葉に心を捉えられた――といったことがあると思うんですけど、わたしの場合は聖書に書かれた言葉ではなく、「汝、聖書の散文の美しさゆえに聖書を読む者を友とするなかれ」という言葉に心を捉えられたわけです

 

 それは図書館で借りた聖書の解説書の間に挟まっていた薄い冊子で、その言葉に出会わなければもしかしたらわたし、教会へは行ってなかったかもしれません。わたしは「知識として」読むためだけに聖書に何が書かれているかを調べようとしていたのですし、きっと神さまがその時点で「そんなことは無意味なのだよ、可哀想な我が子よ」とでも思い、その冊子のその部分を読むよう導いてくださったのかもしれません。

 

 こうして結局、その後教会でキリスト教についてや聖書について教えてもらおうと思い、救いを受けました。また、聖霊さまを与えられなければ、おそらく今も「祈ることは無意味だ」と感じたり、時々神社へ行ってみたり仏教の行事を守って運気を上げようであるとか、占いの本を買って読んだりといった習慣へ逆戻りしていたかもしれません。

 

 でも、イエスさまのことを信じて聖霊さまを受けると、「継続して祈り続けることが出来」、神社へ行くことも仏教の行事を守ることも本当の意味で無意味であることがわかりますし、占いとも縁を切ることが出来ます(わたしが今思うのは、それでも「文化として大事」ということは理解するというそれだけです^^;)。

 

 ええと、こうしたことは何か一生懸命努力して行うことでもなく、「イエス・キリスト以外の神を拝みたいとは一切思わない」という信仰心が根底にあって当たり前のようにそうなることなので、むしろ以前信じていたものから悪しき霊的な影響を受けなくなることであり、占いで自分の運気が悪かろうとも――そうした惑わしから一切心が守られるということでもあると思います。何より、イエスさまから流れてくる聖霊さまの強い働きによって。

 

 なんというかようするに、わたしと同じように「小さい頃から神社とかお寺に神さまがいると思って色々な行事とか守ったりもしてるけどー、お祓いなんかいっても普通に悪いことなんか起きるし、むしろ本厄とか前厄とか後厄とか、実際のとこ迷惑なんだよねー。だって知らなきゃそれで済むことなのに、あえてそーゆー暗示とかかけてくんのずるくね?むしろそうしたせいで運気下がってる気がするくらいだよ。そういう自分自身の思い込みのせいでさ」……といった方の場合、キリスト教みたいに百八十度違うほうに向いてみると、「あ、自分はキリスト教について色々誤解してたんだなー」とわかったりもして、イエスさまのことを信じるに速い足を手に入れられるかもしれません。。。

 

 わたし自身はわたしなりに「時」があってイエスさまのことを信じることが出来た気がするので、とにかく神さまの最善の時に今もとても感謝しているといった次第であります

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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