【人生の航路<老年期>】トマス・コール
『天国は、ほんとうにある』あらすじ。
>>ニューヨークタイムズのベストセラー『天国は、ほんとうにある』を原作とした本作品は、小さな街で暮らす家族の本当にあった体験の映画化。 アカデミー賞®ノミネートとエミー賞®受賞俳優のグレッグ・キニアがトッド・パーボ役、ケリー・ライリーがソンジャ・パーボ役を演じる。穿孔(せんこう)虫垂炎の手術で生死の境をさまよった3歳のコルトン(コナール・コラム)は、奇跡の回復の後、天国を旅してきた話を始める。子供らしい無邪気さで当然のことのようにその驚くべき旅の様子を話すコルトン。その話には彼が知っているはずのない、彼が生まれる前に起こった出来事も含まれていた……トッドと家族は、この驚くべき体験の意味を考えるようになる――。
正直わたし、クリスチャンとしてそういうことではいけないのかもしれませんが(^^;)、映画を見終わったあと、そんなに感じるところはありませんでした。
でも、あまぞん☆さんの原作本のレビューを見ると、とても評価が高かったので――「あ、そっか。これは原作の本読まないとダメなタイプの映画なのかな」と思ったという、何かそんな感じだったというか(すみませんww)
そのう……前回も書いたとおり、普通、クリスチャンとして聖書を学んである程度(?)教会にも通っていたとしたら――天国って、信じているのが当たり前なんじゃないのかなあという、自分としてはそんな感じだったのです。
でもやっぱり、マーリンさんもメッセージの中でおっしゃっていたように、キリスト教国であるアメリカにおいてさえ、>>「行くことを望んでいます」というのが多い答えだというのは……そうした種類の問題を多くの教会が抱えているということなのでしょうか。
何故といって、イエスさまが十字架で流してくださった血がわたしたち人間ひとりひとりの罪が赦されるためであったこと、また、ご自分を信じる者すべてが天国へ行けるようになるためにこそ、イエスさまはあれほどの苦しみを耐え忍んでくださったのだ……と、キリスト教徒は当然信じているわけですし、その必要最低限(?)の信仰さえあったら、天国へ行けると誰もが心から信じられるのが普通ではないのだろうか……と思うのですよね(聖霊のバプテスマさえ受けていたら、わたしたちの理性がどのように理屈をこねて拒もうとも、霊的な祝福を通して聖霊さまがそう教えてくださるのですから!)
けれど、何故人は時に心から神さま、イエスさまが神の御子であることを心から信じていながらも――天国、ということについてだけは、少し寂しそうな微笑みを浮かべて、「行けるといいですね」といったようにどこか消極的な答えを返してしまうのでしょうか。
わたしが思うに、日本の(特に福音派系の)信者の方であったとすれば、本当は天国へ行けると心から信じていながらも、ある種の謙遜の気持ちからそのような答え方をする……ということは多いのではないかと想像します。そしてこれもまた勝手な想像なのですが、欧米の方の場合は「自分の行い」といったことと比較して、「わたしは当然天国へ行きますよ!」みたいには答えにくいのではないかという気がするんですよね(^^;)
「そんなこと言っておまえ、大して熱心に教会にも通っていないし、献金だってそんなにしてもいねえだろー?それなのにどやって天国いくっちゅうねん!他にもおまえには、あんな罪やこんな罪やそんな罪もあるし、そうそう、きのうだっておまえは……イッヒッヒッ!!」といったよーな何かによって、「わたしは当然天国へ行きますよ!」とは、あまり大きな声では言いにくいのではないでしょうか。。。
>>あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(エペソ人への手紙、第2章8~9節)
わたしたちが救われる(天国へ行ける)のは、行いによってではなく、ただイエスさまの十字架の血の贖いを信じていることによるのですし、また、そのような一方的な神さまの恵みによってわたしたちは天国へ行ける、ということですよね。
つまり、この地上には立派な行いや善行をこんだけ積み上げたから☆という理由によって天国へ行けるという人はひとりもいなのです。また、もし仮に(あくまでも仮に、というお話^^;)そんな人がいたとしても、ほんの一握りの人だけでしょう。そして神さまはそんな一握りの人だけが自分の天国へ入れればいい……などと考えるような、心の狭い方ではあられませんでした。
ひとりでも多くの人が自分の天国へ入ることが出来るようにと、ご自身の御子を地上に遣わし、その子なる神であるイエスさまが十字架上で血の贖いをなすことによって――その血潮の力を信じるだけで、人は誰しも天国へ行くことが出来るという大きな道を開いてくださったのです。
わたしも自分がキリスト教徒になる前までは、色んなことを理屈で考えて、正直キリスト教のことはあまり好きではありませんでした。噂で伝え聞いていた、「神を信じる一部の人だけが天国へ行くことが出来る」という話にも反感を覚えていましたし、またエ○バの方などの輸血してはいけないといった教えにもおかしなものを感じ、「キリスト教の神だけは絶対にほんとうの神などではない」と心の中で決めつけていたものでした。
この話を続けると長くなりますし、他の記事の内容とも重複しますので端折ることにしようと思うのですが、わたしが『天国は、ほんとうにある』という映画を見て、作品として特に「良かった」と感じた点は、以下の二点かもしれません。
まず、主人公(ですよね?)の牧師のトッド・パーボさんが、野球(でしたよね?)でスライディングした時に怪我をしてしまって――松葉杖をついて日曜日に教会で牧師として話をしようとしたところ……「神さまはすべてを益としてくださる」といった聖書の言葉を引用しようとした時に、痛みが激しくなって倒れてしまうところ。
いえ、これこそマーリンさんのおっしゃる神さまの訓練というか、そういう種類のことですよねクリスチャンであれば、これと似たようなことが必ず人生上に起きてきます。けれど、そのような人生で「最悪」と思える時にも、神さまにそのすべてのことを感謝し、讃美する時――のちに、通常では考えられない、まさに神さまがなしてくださったとしか思えない出来事が起きてくるというか。
ところがトッドさんの場合、今度は息子さんが穿孔(せんこう)虫垂炎で病院に運びこまれ、生死を彷徨うことになってしまうのでした。流石のトッドさんも、ご自身の身の上のことならまだしも、息子の命を奪われようかという時には、神さまに向かって怒鳴ってしまいます(当然のことですよね)。
けれど、この時トッドさんの三歳の息子、コルトンくんは実は――肉体から意識(魂)が離れて、父親が神さまに怒鳴っているところや、また母親が携帯で息子のために祈ってもらおうと連絡しているところなどを目撃します。またそれだけでなく、天使やイエスさまとも教会で出会うという経験をして、九死に一生を得て戻って来るのでした。
天使が歌を歌って笑ったりしたことや、イエスさまの膝の上にのせてもらったことなど……最初に信じたのは父親のトッドさんのほうだったのですが、お母さんのほうではかなりのところ懐疑的です。けれど、コルトンくんが天国で流産していたお姉さんと出会ったと聞いて――そのことについては彼に話したことがなかったことから、息子の言っていることを信じるようになるのでした。
そのう……わたしは自分がクリスチャンなので、人々が何の形にせよ、イエスさまのことや天国といったメッセージに触れることが出来るというのは素晴らしいことだと思ってるので、そうした意味では「天国は、ほんとうにある」という映画のことを評価するという、何かそんな感じかもしれません(天邪鬼で、ほんとすみません)
ただ、普通にひとつの「映画」という作品として見た場合、実話に基づいているとはいえ、わたしだったら「それだけで天国があるという証拠や保証というにはほど遠い☆」としか思えなかったのではないかという気がします(ごめんなさい)
あ、あともうひとつ忘れてましたが、教会の役員の方で、牧師のトッドさんが話す天国のことを不快に思い、彼のことをクビにしようかという女性……彼女の息子さんが戦争で命を落としているというエピソード、またそのことで彼女がトッドさんと和解するシーンはとても良かったと思います。
神がいるなら、天国があるなら、どうしてこんなことが起きるの――実際、わたしたちの生きる現実世界はそんなことばっかりです。戦争、テロ、犯罪、陰口、悪口、人の心の醜い世界……またそうした不条理だけでなく、そうしたなんやかやを耐え忍べ、だって死んだらみんな天国へ行って幸せになれるのだから……なんて言われたら、そんな力のない神のことは信じたくないし、自分は無神論でいって自分の力を頼りにして生きていったほうが、まだしもましな人生を送ることが出来る――そう考える方がいるのも無理ないことなのではないでしょうか。
けれど、キリストの福音というのは、そういうことではないんですよね。死後に報いがあるから、現実に起きる耐え難いことも耐え忍べというだけなら、とっくにこの福音というもの自体が滅びていたかもしれません。神さまは聖書を通してご自分がどのような方かを啓示するということを望まれました。そして、そのことが真理であることを保証するため、イエスさまの復活ののち、彼が神の子であると信じる人々すべてに聖霊を送るということまでしてくださったのです。
このことに関しては理屈で五万語くらい費やして説明しても仕方なく、信者の「経験」によるところですので、その「経験」さえしてしまえば、誰もがキリスト教徒、クリスチャンになってしまう……ということだったりします(^^;)
今日は偶然クリスマス・イヴですが、12月25日はイエスさまの本当の誕生日じゃない――ということはともかくとして、日本各地、世界各地でイエスさまの誕生日を祝うイベントがたくさん行われていると思います。もし今日、何かのことをきっかけにして、イエスさまのことを真実救い主として受けいれる方がいらっしゃったとしたら……それこそが神さまのもっとも望まれる、最高のクリスマスなのではないでしょうか
それではまた~!!
『天国は、ほんとうにある』あらすじ。
>>ニューヨークタイムズのベストセラー『天国は、ほんとうにある』を原作とした本作品は、小さな街で暮らす家族の本当にあった体験の映画化。 アカデミー賞®ノミネートとエミー賞®受賞俳優のグレッグ・キニアがトッド・パーボ役、ケリー・ライリーがソンジャ・パーボ役を演じる。穿孔(せんこう)虫垂炎の手術で生死の境をさまよった3歳のコルトン(コナール・コラム)は、奇跡の回復の後、天国を旅してきた話を始める。子供らしい無邪気さで当然のことのようにその驚くべき旅の様子を話すコルトン。その話には彼が知っているはずのない、彼が生まれる前に起こった出来事も含まれていた……トッドと家族は、この驚くべき体験の意味を考えるようになる――。
正直わたし、クリスチャンとしてそういうことではいけないのかもしれませんが(^^;)、映画を見終わったあと、そんなに感じるところはありませんでした。
でも、あまぞん☆さんの原作本のレビューを見ると、とても評価が高かったので――「あ、そっか。これは原作の本読まないとダメなタイプの映画なのかな」と思ったという、何かそんな感じだったというか(すみませんww)
そのう……前回も書いたとおり、普通、クリスチャンとして聖書を学んである程度(?)教会にも通っていたとしたら――天国って、信じているのが当たり前なんじゃないのかなあという、自分としてはそんな感じだったのです。
でもやっぱり、マーリンさんもメッセージの中でおっしゃっていたように、キリスト教国であるアメリカにおいてさえ、>>「行くことを望んでいます」というのが多い答えだというのは……そうした種類の問題を多くの教会が抱えているということなのでしょうか。
何故といって、イエスさまが十字架で流してくださった血がわたしたち人間ひとりひとりの罪が赦されるためであったこと、また、ご自分を信じる者すべてが天国へ行けるようになるためにこそ、イエスさまはあれほどの苦しみを耐え忍んでくださったのだ……と、キリスト教徒は当然信じているわけですし、その必要最低限(?)の信仰さえあったら、天国へ行けると誰もが心から信じられるのが普通ではないのだろうか……と思うのですよね(聖霊のバプテスマさえ受けていたら、わたしたちの理性がどのように理屈をこねて拒もうとも、霊的な祝福を通して聖霊さまがそう教えてくださるのですから!)
けれど、何故人は時に心から神さま、イエスさまが神の御子であることを心から信じていながらも――天国、ということについてだけは、少し寂しそうな微笑みを浮かべて、「行けるといいですね」といったようにどこか消極的な答えを返してしまうのでしょうか。
わたしが思うに、日本の(特に福音派系の)信者の方であったとすれば、本当は天国へ行けると心から信じていながらも、ある種の謙遜の気持ちからそのような答え方をする……ということは多いのではないかと想像します。そしてこれもまた勝手な想像なのですが、欧米の方の場合は「自分の行い」といったことと比較して、「わたしは当然天国へ行きますよ!」みたいには答えにくいのではないかという気がするんですよね(^^;)
「そんなこと言っておまえ、大して熱心に教会にも通っていないし、献金だってそんなにしてもいねえだろー?それなのにどやって天国いくっちゅうねん!他にもおまえには、あんな罪やこんな罪やそんな罪もあるし、そうそう、きのうだっておまえは……イッヒッヒッ!!」といったよーな何かによって、「わたしは当然天国へ行きますよ!」とは、あまり大きな声では言いにくいのではないでしょうか。。。
>>あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
(エペソ人への手紙、第2章8~9節)
わたしたちが救われる(天国へ行ける)のは、行いによってではなく、ただイエスさまの十字架の血の贖いを信じていることによるのですし、また、そのような一方的な神さまの恵みによってわたしたちは天国へ行ける、ということですよね。
つまり、この地上には立派な行いや善行をこんだけ積み上げたから☆という理由によって天国へ行けるという人はひとりもいなのです。また、もし仮に(あくまでも仮に、というお話^^;)そんな人がいたとしても、ほんの一握りの人だけでしょう。そして神さまはそんな一握りの人だけが自分の天国へ入れればいい……などと考えるような、心の狭い方ではあられませんでした。
ひとりでも多くの人が自分の天国へ入ることが出来るようにと、ご自身の御子を地上に遣わし、その子なる神であるイエスさまが十字架上で血の贖いをなすことによって――その血潮の力を信じるだけで、人は誰しも天国へ行くことが出来るという大きな道を開いてくださったのです。
わたしも自分がキリスト教徒になる前までは、色んなことを理屈で考えて、正直キリスト教のことはあまり好きではありませんでした。噂で伝え聞いていた、「神を信じる一部の人だけが天国へ行くことが出来る」という話にも反感を覚えていましたし、またエ○バの方などの輸血してはいけないといった教えにもおかしなものを感じ、「キリスト教の神だけは絶対にほんとうの神などではない」と心の中で決めつけていたものでした。
この話を続けると長くなりますし、他の記事の内容とも重複しますので端折ることにしようと思うのですが、わたしが『天国は、ほんとうにある』という映画を見て、作品として特に「良かった」と感じた点は、以下の二点かもしれません。
まず、主人公(ですよね?)の牧師のトッド・パーボさんが、野球(でしたよね?)でスライディングした時に怪我をしてしまって――松葉杖をついて日曜日に教会で牧師として話をしようとしたところ……「神さまはすべてを益としてくださる」といった聖書の言葉を引用しようとした時に、痛みが激しくなって倒れてしまうところ。
いえ、これこそマーリンさんのおっしゃる神さまの訓練というか、そういう種類のことですよねクリスチャンであれば、これと似たようなことが必ず人生上に起きてきます。けれど、そのような人生で「最悪」と思える時にも、神さまにそのすべてのことを感謝し、讃美する時――のちに、通常では考えられない、まさに神さまがなしてくださったとしか思えない出来事が起きてくるというか。
ところがトッドさんの場合、今度は息子さんが穿孔(せんこう)虫垂炎で病院に運びこまれ、生死を彷徨うことになってしまうのでした。流石のトッドさんも、ご自身の身の上のことならまだしも、息子の命を奪われようかという時には、神さまに向かって怒鳴ってしまいます(当然のことですよね)。
けれど、この時トッドさんの三歳の息子、コルトンくんは実は――肉体から意識(魂)が離れて、父親が神さまに怒鳴っているところや、また母親が携帯で息子のために祈ってもらおうと連絡しているところなどを目撃します。またそれだけでなく、天使やイエスさまとも教会で出会うという経験をして、九死に一生を得て戻って来るのでした。
天使が歌を歌って笑ったりしたことや、イエスさまの膝の上にのせてもらったことなど……最初に信じたのは父親のトッドさんのほうだったのですが、お母さんのほうではかなりのところ懐疑的です。けれど、コルトンくんが天国で流産していたお姉さんと出会ったと聞いて――そのことについては彼に話したことがなかったことから、息子の言っていることを信じるようになるのでした。
そのう……わたしは自分がクリスチャンなので、人々が何の形にせよ、イエスさまのことや天国といったメッセージに触れることが出来るというのは素晴らしいことだと思ってるので、そうした意味では「天国は、ほんとうにある」という映画のことを評価するという、何かそんな感じかもしれません(天邪鬼で、ほんとすみません)
ただ、普通にひとつの「映画」という作品として見た場合、実話に基づいているとはいえ、わたしだったら「それだけで天国があるという証拠や保証というにはほど遠い☆」としか思えなかったのではないかという気がします(ごめんなさい)
あ、あともうひとつ忘れてましたが、教会の役員の方で、牧師のトッドさんが話す天国のことを不快に思い、彼のことをクビにしようかという女性……彼女の息子さんが戦争で命を落としているというエピソード、またそのことで彼女がトッドさんと和解するシーンはとても良かったと思います。
神がいるなら、天国があるなら、どうしてこんなことが起きるの――実際、わたしたちの生きる現実世界はそんなことばっかりです。戦争、テロ、犯罪、陰口、悪口、人の心の醜い世界……またそうした不条理だけでなく、そうしたなんやかやを耐え忍べ、だって死んだらみんな天国へ行って幸せになれるのだから……なんて言われたら、そんな力のない神のことは信じたくないし、自分は無神論でいって自分の力を頼りにして生きていったほうが、まだしもましな人生を送ることが出来る――そう考える方がいるのも無理ないことなのではないでしょうか。
けれど、キリストの福音というのは、そういうことではないんですよね。死後に報いがあるから、現実に起きる耐え難いことも耐え忍べというだけなら、とっくにこの福音というもの自体が滅びていたかもしれません。神さまは聖書を通してご自分がどのような方かを啓示するということを望まれました。そして、そのことが真理であることを保証するため、イエスさまの復活ののち、彼が神の子であると信じる人々すべてに聖霊を送るということまでしてくださったのです。
このことに関しては理屈で五万語くらい費やして説明しても仕方なく、信者の「経験」によるところですので、その「経験」さえしてしまえば、誰もがキリスト教徒、クリスチャンになってしまう……ということだったりします(^^;)
今日は偶然クリスマス・イヴですが、12月25日はイエスさまの本当の誕生日じゃない――ということはともかくとして、日本各地、世界各地でイエスさまの誕生日を祝うイベントがたくさん行われていると思います。もし今日、何かのことをきっかけにして、イエスさまのことを真実救い主として受けいれる方がいらっしゃったとしたら……それこそが神さまのもっとも望まれる、最高のクリスマスなのではないでしょうか
それではまた~!!
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