神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

マーリン・キャロザースさんの感謝と賛美の教え-【2】-

2016年12月08日 | キリスト教
【縛られた魂】エリュー・ヴェッダー


 では、前回の続きをまた、「雲の間にある虹」2009年6月より、移させていただきたいと思いますm(_ _)m





 >>まず小さな事から始めましょう

 神さまを賛美することに敏感に反応する心。それをどうしたら持てるかを、私たちは学ばなければなりません。それには、まず小さな事から始める必要があります。行うのが簡単な小さな事です。

「どうも君が好きになれないな」という人がいるかもしれません。それに対する、ごく普通の反応は「僕も君が好きになれないね」でしょう。でも、神さまが私たちに学ばせたいのは、それとは違った反応でした。人が片方の頬を打ったらどうせよと、イエスさまはおっしゃいましたか?

 そうです。どうか別の頬も打ってくださいと言われたのです。通訳を叩いて、どう反応するか試してみますかな?(笑)

 この種のことを学ぶのは苦手でした。というのは、私は長年、人と戦うことを学んで来たからです。陸軍のパラシュート部隊にいた頃、あの人の頬など叩かない方がいいよと私は言われていたのでしょう。軍で繰り返し受けた訓練とは、普通に反応することなど考えるな。叩かれたらすぐ蹴飛ばし返せと言うものでした。蹴飛ばされた人間はうめいてしゃがみ込むかもしれません。そうしたら、何をしているんだと言って、もう一回蹴飛ばせと言うのです。そんなわけで、自分の力を押さえ、心を抑えることなど困難でした。

 でも、陸軍をやめてからは、私を叩いたり蹴飛ばしたりする人もいなくなりました。ところが、人々は別のことを私にし始めたのです。車に傷をつけられたり、必要もないことにお金を支払うように仕向けられたりなど、いやなことをされました。他人にされることで、私が不幸せになるもののリストはどんどん長くなって行きました。また、これとは別の種類の人たちもいます。私たちにはまったく見向きもしないのですが、私たちに不幸せな思いをさせる人たちです。

 そんな時には、どうしたらよいのでしょう?聖書の著者たちは、気違いじみたことをしてみなさいと書いています。聖書には、
「民たちよ、手を打ち鳴らせ」
 とありますが、これは、幼い子供たちがすることですね。私のような年寄りが手を叩いたりするでしょうか?そもそも、手を打ち鳴らせば幸せになれるのでしょうか?そう、なれるのです。だから、神さまが聖書の中で手を打ち鳴らせとおっしゃったのは、それが私たちの助けになるのをご存じだったからです。

 これは、実際にやってみなければ分からないでしょうな。
(マーリンさん、手を打ち鳴らす。会場がそれに続く)
 うん、これは、幸せになる音ですね!さて、誰かに気にくわないことを言われたら、皆さんはどうしますか?
(マーリンさん、手を打ち鳴らす)
 人はあなたを見て言うでしょうね。「君、気は確かかね?」要するに、神さまは、どうしたら幸せになれるかを、自分の身体に教え込みなさいと言っておられるのです。
 また、聖書は言います。
「勝利の声を上げて、神に向かって叫べ」

 しかし、今の自分の心は、とても叫びたくなるような気分ではないと人は言うかもしれませんね。でも、聖書が勝利の声を上げて神に叫べと言っているのですから、どうしたらそれができるかを学ぶべきです。人に聞かれないでやってのける名案があります。外に出て、神さま、おはようございます!とやるのです。さあ、一緒にやってみましょう。神さま、おはようございます!(会場、声を合わせる)しかし、神さま聞いていらっしゃらないのではと思うかもしれませんな。そうしたら、もっと大声を出すのです。

 あなた方やわたしの身体は、いや、私の身体はと言うべきでしょうか、それはとても頑固なのです。気分が良くないときには、なにもしたくないからほっといてくれと言います。しかし、聖書は、駄目、それは駄目だと言っています。そんなときも、勝利の声を上げて、神に向かって叫べと言っているのです。

 神の御前に出るときは、とても悲しげな表情をしている。人は生まれつきそんな傾向を持っています。だが、私たちはいつも思い出さなければなりません。聖書にはこう書かれているのです。

「しかし、神よ、あなたの御前にはいつも喜びがあります」

 私たちが悲しげな顔で御前に出ると、神さまは、「もっと近くへ、もっと近くへ来なさい」とおっしゃっていると私は思います。ダビデは言いました。

「あなたの右の御手には、永遠の喜びがある」と。

 こんなことをすれば、私たちが気違いじみたクリスチャンになってしまうのは、よく分かっています。しかし、聖書を見ると、いろいろな場面で、人々はまことに気違いじみた振る舞いをしているのです。

(「雲の間にある虹」、2009年6月号よりm(_ _)m)


 ――「神さま、おはようございます!

 もしわたしが外に出てそんなふうにしたとすれば、人に気違いと思われるかもしれません(笑)

 けれど、神を信じる、あるいは本当の意味で神さまを信じるというのは、そんなようなことだというのは確かだと思います。

 マーリンさんは、>>「聖書を見ると、いろいろな場面で、人々はまことに気違いじみた振る舞いをしているのです」とおっしゃっていますが、これは確かにそうですよね。たとえば、有名でわかりやすい例を引いたとすれば、旧約聖書の士師記に出て来るギデオンがいるでしょうか。彼は元は臆病な人であったらしく、のちにたったの三百人の兵によって十二万もの敵兵を打ち破る人であるとはとても思えません。

 けれど、神さまは彼に御使いを送って「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」と呼びかけられました。ギデオンは敵のミデヤン兵を打ち破り、イスラエル民族を救えとの命を神さまから受けるのですが、やっぱりなかなかそうは言っても元の臆病な性格もあってか、最後まで迷いがあったものと思われます。

 ギデオンはまず、神さまに自分が敵を打ち破れる保証として、次のことをしてくださいと頼みました。すなわち、打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置いておくから、もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、確かに自分の手で神さまがイスラエル民族を救おうとされていることがわかる、というのですね。

 けれど、ギデオンは実際にそのとおりになったにも関わらず、なおも神さまに保証を求めました。


 >>「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください」

 それで、神はその夜、そのようにされた。すなわち、羊の毛の上だけがかわいていて、土全体には露が降りていた。

(士師記、第6章39~40節)


 こののち、ギデオンはたったの三百人の兵で十二万ものミデヤン兵を打ち破るのですが、ただ神さまの出された指示のとおりにしたところ――ミデヤン兵の内にはまず同士打ちが起こり、そして逃げた陣営にさらに追撃をかけ、最後にはとうとうミデヤンの首領の首を取ることに成功したのでした。

 ギデオンがこの勝利に導かれるまでには、いくつか段階があるのですが、まずはギデオンは神さまのおっしゃることに従うという、信仰の踏み出しをしたということが大きなポイントだと思います。けれど、もしこの時ギデオンが神さまに聞き従わなかったとしたらどうなっていたのでしょうか。正直、わたしが推測するに、神さまはギデオンでなくても、他の器を立てることも出来たと思います。

 にも関わらず、やはりギデオンを「小さな臆病者よ」とは呼ばず、「勇士よ」と呼びかけたことには大きな理由があったのだと思います。たとえば、普段は隠れていたにしても、心の奥深くに神さまに対する信仰を秘めているといった、神さまがお選びになった器に共通の何かがギデオンにもあったのではないでしょうか。

 マーリンさんもおっしゃっているとおり、神さまを信じる、本当に心から信じるというのは――外の人には馬鹿げたことに見えることかもしれません。また、「神さまを信じたところでなんになるだろう」、「手を打ち鳴らせ?そんなこと程度でわたしの深刻な苦しみや悩みが癒えるとでも?」などなど、人は神さまをただ素直に正直に信じるよりも、自分の理屈のほうが大切なのだろうと思います(^^;)

 それでも、「人から見れば馬鹿げて見える」ことをクリスチャンがすると、何故喜びが溢れてくるのでしょう。

「神さま、おはようございます!今日、わたしはこれから何をしたらいいでしょうか?神さまのために出来ることを何かしたいのですが……」ともし心の中で言ったとすれば、イエスさまは必ず聖霊さまを通してわたしたちに指令を送ってくださると思います。

「ではまず、今日の御言葉を示すから、聖書を開きなさい」とおっしゃればそのとおりにし、「御言葉が示されるまで祈りなさい」と言われたとすれば、そのとおりにします。もちろん、最初は疑いがあるかもしれません。イエスさまの聖霊さまを通した声というのは聞き違えやすいので、必ず吟味が必要でもあります。でも、最初はまず「そう言われた気がする」ということでも、順に行っていくうちにだんだん理解が進んでわかるようになっていきます(言うまでもなく、この理解するための力というのも、聖霊さまが送ってくださるものです)。

 ただ、わたしたちは普段神さま以外のことで忙しいですから、このように「神さまに時間を捧げる」ということ自体がとても難しいと思います。まず、朝起きたらごはんを食べて学校や職場などへ行く準備をしなくてはいけないという方は圧倒的に多いはずですし、「それなのに神さまどころじゃないよ!」という場合のほうが多いとも思います。

 けれど実際、祈ることというのは、案外その気になると結構できることがわかります。たとえば、学校や職場において人間関係などに問題があったとしたらどうでしょう。それが深刻なものであればあるほど、神さまに祈る力というのは自然強いものとなります。たとえば、バスで移動する途中に心の中で祈ってみたり、あるいはほんの二十分程度でも、神さまに祈るための時間をあらかじめ取ってみたりと、人間はそれが本当に困ったことなら、行動としてそうせずにはいられないものなんですよね(^^;)

 そして、神さまは「今日」と聖書を通して語りかけを送っておられます。


 >>きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

(ヘブル人への手紙、第3章15節)


 もし今日、神さまのことを信じるという決意をしないなら、たぶん明日も明後日も信じることはなく、そして日々は過ぎ去っていくのではないでしょうか。

 神さまはギデオンのように<信仰の踏み出し>をする者を必ず祝福してくださいます。

 わたしもこのブログをはじめて、それなりに結構記事の数が並ぶようになりましたが、はじめた時にはこんなに色々書いたり出来ると思っていなかったかもしれません(笑)

 でも、ただ単純に「神さま、ブログに書くネタがありません」とわたしが祈ったとすれば、必ず神さまは書くネタを与えてくださいますし、そのような日常の小さなひとつひとつのことを神さまに祈っていくと、必ず人生に新しい道が開けてくるというのは本当のことです。

 聖書には>>三撚りの糸は簡単には切れない。(伝道者の書、第4章12節)という言葉がありますが、信仰を持ちはじめた最初の頃というのは、誰でもとうもろこしのひげ(?)のように、信仰の糸が切れやすいものかもしれません。けれど、とにかく毎日神さまに祈るということを続けていくと、自分で特に力を込めて何かする、物凄く意志の力を使って何かするというのではなく――ただ自然と、女性の綺麗な三つ編みの髪のようにしっかりとした信仰が撚り上げられていくものだと思います。

 声に出して神さまに挨拶するのは恥かしいことでしょうか?手を打ち叩いて、神さまがいかに素晴らしいことをなしてくださったかを、手を打ち鳴らしながら賛美することも?確かに人は笑うかもしれません。

「目が見えて耳が聞こえることを神さまに感謝していたところだ」とか、「今日も幸福な気持ちで目覚めたことを神さまに感謝していたところだ」と言ったとしたら……「なんだ、たったそれだけのことか」とか、「てっきり年末ジャンボで三億円でも当たったのかと思ったよ」という人もあるでしょう。

 けれど、わたしたちがガンなどの深刻な病いにかかった時にも、あるいは他の人生上の悩みや苦しみに出会う時にも、使う<信仰の原理>は同じものなのです。そして毎日神さまにあらゆることを感謝し、賛美している人というのは、普段の信仰の積み上げがある分、仮にサタンのような存在が罠にかけてきたとしても、>>真っ逆さまに倒されるということだけは決してないのです。


 >>人の歩みは主によって確かにされる。
 主はその人の道を喜ばれる。
 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。
 主がその手をささえておられるからだ。

(詩篇37篇、第23節~24節)


 ではまた、引き続き、マーリン・キャロザース先生のメッセージから学んでいきたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!



 この時(2009年)のマーリンさんの映像がこちらm(_ _)m


 また、マーリンさんの音声や映像をまとめた主の十字架クリスチャンセンターのサイトがこちらとなりますm(_ _)m






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