
今、北海道の道路はあちこちががったんびっこん☆です(笑)
がったんびっこん☆という擬音(?)で通じるかどうかわからないのですが、一度少し気温の上がった昼間に三十センチ以上は積もっているように思える雪がとけだし――その上を車が通ると、その部分がよりいっそうへこみますよね

そうなると、まだ硬い氷雪の部分との間で高低ができて、夜に気温が下がると道路がなんともがったんびっこん☆に固まってしまうのです(笑)
ここ何日間かで、そのような轍のようなものに嵌まってしまい、スコップでタイヤまわりの雪をかきだし、「よいせっ!」と後ろから車を押す……といったような光景を二度ほど見かけました。どちらの車も運転席にひとり乗って、残りの三人ほどが雪をかきだしたり車を押したりされてたので、手伝うことまではしなかったんですけど……。
でもたまに、ほんとの四輪駆動じゃなくて、なんちゃって四輪駆動みたいな車ありますよね(笑)

わたしも昔乗ってた車が軽くそれっぽくって、まあ軽だったから仕方ないのかもしれませんが、見事朝の出社時に大雪にはまってしまい……もう何年も昔の話ですが、その時は本当にすごい雪が積もってて、どこのおうちもスコップ持って朝は雪かきしてたんですよね。なので、そうしたご家族の方がもう速攻で駆けつけてくださって、物凄い速さでズコズコ☆タイヤのまわりを掘ってくださって……ものの三分もしないうちに車は動くことが出来たというか(^^;)
でも、お礼言おうと思ったら、もうそのふたりの方は走ってどっかいってました(笑)

いえ、わたしこの気持ちすんごいわかります。わたしも、埋まってる車があったらたぶん助けようとすると思うのですが、かといってそれでお礼言われたりするのは恥かしいんですよね(ちなみにこれはわたしが北方人気質と呼んでいるもののひとつです・笑)。
それはさておき、三人がかりで車を押してもなかなか車が動かないのを見た時――何かがわたしの頭の中を掠めていきました。
あの車が深い轍に嵌まって、なかなか抜け出せない様子は……わたしたちがなかなか自分の罪の轍や不幸の轍から抜けだせない様子に似ているな、と(^^;)
そこから抜けだそうと、アクセルを踏めば踏むほどタイヤは空回りし……けれど、わたしたちが「ああ、困った困った

いえ、自分の努力の力でどうにか出来る間は、「神さまなんて、いるのかいないのかよくわかんない☆

わたしも昔、ありました……冬に某田舎の地方をドライブしていたところ、車が轍みたいなものに嵌まってしまって、どうにもならなくなったことが。何分、まわりに人もいないようなど田舎でしたし、スコップを車に積んでなかったのも致命的でした。
結局この時、少し離れたところに一軒たつおうちからスコップをお借りして、どうにか事なきをえたというか

なんていうか、それは決して深い轍というわけではなかったのです。どっちかっていうと、「え!?なんでこんくらいで車が動かなくなるの!?

いえ、ほんっとにーまわりは大自然に囲まれてるってだけで、なんにもなかったですからね。「わー!神さま。わー!神さま……

これは一種の比喩ですが、人生でも何かこうしたことってありますよね(^^;)
何故そんなものに自分が嵌まったのかわからない……みたいな、あとにしてみれば「なんであんなことに嵌まっていたのだろう」といったことに肉の努力や力やお金や欲望や、何かそんなものを物凄く使ってそのような結果になってしまい、まわりの人に助けてもらってどうにかそこから抜けだしたとか、あるいは自分ひとりだけの力でそのような危機を脱したとか、そんなことが……。
そして、まさにこうした瞬間にこそ、神さま(イエスさま)のことを知る機会が与えられ、人生がその後180度変わったという信仰体験をお持ちの方は本当に多いですよね。
いえ、キリスト教の一般教理的なものとして「何度罪を犯しても、悔い改めるなら何度でも赦される」というのをなんとなく聞いて「なんかそれ、おかしくね?

けれど、神さまはわたしたち人間の本性というものを本当によくご存じだったのです。
そこで、どうにかやっとのことでひとつの罪の轍や不幸の轍を抜けだしたあとも――わたしたちがまたそのような形で罪を犯したり、神さまに助けていただいたことも忘れ、再びまたそのような道に嵌まりこむ時……わたしたちが真に悔い改めるならば、何度でも赦してくださり、チャンスを与えてくださるのです。
そしてこの方にすべてをゆだねて歩むことこそ、二度とはそのような道に嵌まりこまぬ最善の人生の道であるように、一クリスチャンとしてはそのように思います。
それではまた~!!

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