青の破局 12番

2016年11月13日 | 十四行詩






   



冬天に見つめ返され
耳まで青い
眼の中の青 青の中の眼
その一点がみるみる鳩になる

鳩は 続けて飛んでくる
一羽は光の粒子を羽ばたき
一羽は冬の草をくわえて
それでも この破局は始まったばかりである

かつて 破局は
二〇〇年続いた と
ウォーラーシュタインは言う

いちじるしい あやうさ
はれわたりたる
この 青の あやうさ




※ 最終連は八木重吉の詩「朝の あやうさ」引用・コラージュ







kein ort aber krähengelächter(5)

2016年11月11日 | Romie Lie






schneelicht
flüchtig

an wolkenrändern
die gaukler

und das summen
von samen

verworfen
alle deutung





kein ort aber krähengelächter von Romie Lie








雪の光は
はかない

だるま鷲が
雲に縁取りをしている

そして種子の


すべての解釈は
拒絶されている


ロミー・リー著 連作詩『どこにもない場所、だが鴉が笑う』から




Paul Celan (14)

2016年11月11日 | Paul Celan




FLÜGELNACHT



Flügelnacht,weither gekommen und nun
für immer gespannt
über Kreide und Kalk.
Kiesel, abgrundhin rollend.
Schnee. Und mehr noch des Weißen.

Unsichtbar,
was braun schien,
gedankenfarben und wild
überwuchert von Worten.

Kalk ist und Kreide.
Und Kiesel.
Schnee. Und mehr noch des Wießen.

Du, du selbst:
in das fremde
Auge gebettet, das dies
uberblickt.







翼の夜



翼の夜が 遠くからやってきた そして今度は
永遠に翼を拡げた
チョークと石灰の上に。
小石が 奈落へ転がってゆく。
雪。そしてふたたび白の。

見えない
褐色に見えたものは
思想の色そして荒々しく
言葉が繁茂している。

石灰が存在しチョークも存在する。
そして小石も、
雪。そしてふたたび白の。

おまえ おまえ自身が
他人の眼の中へ祈った その眼は
すべてを見ぬいている。





■この詩は、最終ブロックのdies(これ)がなにを指すのか、すこし迷いました。はじめ、duかとも思いましたが、それなら、4格dichでないとつじつまが合いません。幸い、このテクストは、ツェランのフランス語訳がついています。それで確認すると、embrasse tout ça d'un regard「このすべてを一目で見て取る」、となっていました。tout(すべて)を入れてメリハリをつけているのですね。そこで、日本語でも、そのニュアンスを生かすことにしたわけです。

この詩は、おそらく、ツェランの収容所体験が反映されているのでしょう。色に注目すると、チョークや石灰、小石、雪、褐色の思想の色といった白とグレーと褐色で統一されていることがわかります。きびしく悲惨な冬の収容所の風景を色でも表現していると言えるのではないでしょうか。






Georg Trakl: Passion

2016年11月06日 | Georg Trakl






熱情   ゲオルク・トラークル


オルフェウスが竪琴を銀色に奏で
夕べの庭で死者を悼んでいるとき、
高い木々の下で安らう者よ おまえは誰なのか。
秋の葦がさやいで嘆きの音を立てている。
青い沼は
芽生えの木々の下で息絶えて、
妹の影を追う。
奔放な種族の
昏い愛。
黄金の車に乗った昼が轟音を立てて飛び去る。
静かな夜。

暗鬱な樅木の下で
二頭の狼が石のように抱き合って
その血を混ぜた。
雲が
小橋の上で金色に消えた。
子ども時代の忍耐と沈黙。
ふたたび 華奢な屍が
トリトンの沼で会う、
そのヒヤシンスの髪の中でまどろみながら。
この冷たい頭がはやく砕けてくれますように!

いまも一頭の青い獣が
たそがれゆく木々の下を 眼光らせながら
さらに昏いこの径をたどっているから。
夜の快い響きに眠りを忘れ
柔かな狂気に心奪われて。
そして 昏い恍惚に満ちた
この弦の響きは
石の都会で罪を贖っている女の
冷たい足元に届いていたから。







Antonin Artaud (2)

2016年11月06日 | Antonin Artaud





アントナン・アルトー(1896-1948)



Ce qu’ils prennent en moi n’est pas moi
ni rien,
c’est l’entrelacs biseau
de l’irruption de vivre
où se forme ce monde cha
fouin, suturé de faux, entre glace, fil et carreau,


et le corps est ce qui de cette
douleur déroutante se sera
tiré vivant et permanent.



連中がわたしの中に見ているものは、わたしでも
なんでもない
それは生の乱入で錯綜した斜面である
そこでこの世界は作られている
氷と糸と窓ガラスの間に、虚偽で繕われた陰険な世界が


そして身体とは、この
困惑する痛みから
生命と永遠性を救い出すものなのだろう




※ この詩はいくつか難しい点があります。一つは、 l’entrelacs biseau/ de l’irruption de vivreという二行です。これは、「生の乱入で錯綜した斜面」と訳出しましたが、これで良いかどうかは、まだ検討の余地があります。朗読会で、この箇所のわかりにくさのご指摘を受けて、きょう、あらためて考えてみたものです。しかし、まだ、よくわかりませんね。もう一つ、この詩で難しいのは、cha/ foinと二段に分けて書かれている箇所です。これは、二重の意味でわかりにくい。まず、chafoinという言葉であること。これが分断されて表記されていること。さらに、この言葉は、存在しません。chafouin(陰険な)の誤植と思います。意図的に、uを除いた可能性もゼロではありませんが、そうなると、その意図は、まったく理解できなくなります。

※ この詩は、ある意味、アルトーの基本思想が出ていると言えるかもしれません。ce monde chafouin(陰険なこの世界)の真っただ中にわれわれは、存在しています。その世界が存在する場を、アルトーは、l’entrelacs biseau/ de l’irruption de vivre(生の乱入で錯綜した斜面)という非常に印象的なフレーズで表現しています。そこで、この世界は作られていると。アルトーは、最後の三行で、希望を語ります。le corps(身体)というものが、vivant et permanent(生命と永遠性)を救い出すのだと。この思想の延長線上には、身体表現である演劇が視野に入ってくるでしょう。