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大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

駅の待合室1

2018-12-26 17:00:00 | Weblog

日本全国に網羅されている鉄道という鉄道、その一つひとつの駅を
片っ端から(下車してそれぞれの駅で切符を購入してそれを証明)踏破
し、掲載写真にあるように、ギネス世界記録を2つも達成した同級生
杉原巨久(たかひさ)くん。
この部屋は、杉原くんにそれらを通じての様々な知見を披露してもらう
ために用意しました。皆さん、お楽しみに。

 註)ギネスの2つの記録とは、
   「平成16年のJR全線全駅下車最速」
   「平成17年の日本の鉄道全線全駅下車最速」
   会社勤務の傍らに達成したのですから、すごいことです。
   なお、これら記録を達成するまでのアレコレをまとめた以下の
   書籍が文芸社から発売中です。興味あるひとは是非買ってね。
   『全駅下車見聞の旅―日本の鉄道全駅9600駅―』\1,500+税


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ギネス裏話1 (5組杉原です)
2014-06-03 10:00:06
同窓の皆様へ

1日の合同同窓会お疲れさまでした。
楽しいひと時を過ごすことが出来、積もる話に時間もあっという間にたってしまいました。
小生など今回が初めてで卒業以来半世紀ぶりにお目にかかる方ばかりでもう浦島太郎の気分です。
再会できた喜びも感じました。
幹事の皆様には大変お世話になり感謝しております。

さて、ブログを開くと私のことが出ていてびっくり。
拙著の中味は書かれている通りです。 
何か事前に掲載しますという連絡などあってもいいところ突然の内容。 今で言う個人情報とやら訳の分らぬことをいう世の中。
昔そんなこともなかった純真無垢の気持を持った頃の感覚がそのまま残った我々同志ということで無罪放免。 お咎めも何もなし。
掲載して頂いた方には本来なら自分が書いてもおかしくないところ公表して頂き恐れ入ります。
有り難う御座います。

私としてもギネスという珍しい賞を頂いた以上皆さんにも一知識としてお知らせするのもありだなということで、また当ブログを賑やかにという思いで次のように考えました。
人生表街道ばかりでは面白くないので、ギネスの裏話ということで何回かに分けて自分しか知らないことを披歴しようと思います。

今回は第1回として

旅とか鉄道自体好きで、皆さんも良く知っている京急大森町駅が原点です。 もう小学校高学年当たりから私以上に旅が好きな兄と一緒に交通博物館とか東京駅に電車特急「こだま」をよく見に行きました。
この源から駅下車と言う誰でもがやっているけれども滅多な人しかやらないことをやったことになりました。 以上まず前提条件のお話から。

最初はギネス申請など微塵も感じていなかったのですが、終わって会社の飲み会でこれはギネス級だなと言われたのを真に受け、幸い記念兼記録兼証拠として殆どの駅でビデオ後半はカメラも併せて撮っていたので申請しようと思いました。
申請するにもどう申請すればいいのか分からないから、NHKに聞けば分かるかと思い連絡したところ京都の関連したことをやっている会社(ギネス社とは何の資本関係もない)が分かり、問い合わせ。
内容を話すと脈があるという。
必要書類を聞くと証人宣誓文、証明するもの他、でそれぞれ揃えることに。

大変なのが証人宣誓文で、これが記録作成以上に大変。 利害関係のない大人2人の間違いありませんと言う自筆の文書が必要。
普通、見てもいないことの証人などになる人はいない。 もし間違えていたら大変だからなってくれる人などいない。
スポーツの世界記録などは公の報道機関があるから当の本人はスポーツに打ち込めばいいだけ。
このなってくれる人が見つからなかったから一時は申請を断念。
無理だなと思った。
あるときふと思ったのが突破口となり話が進んだ。
この詳細については次回お楽しみに。

因みに、テレビを見ていると芸人が記録に挑んで成功するとすぐ認定書が渡されるが、私も最初おかしいなと思いました。 (こういうのあまり好きでないのですが)
というのは私の場合提出してから2枚もらうのにそれぞれ1年半も待たされ途中何も言ってこないものだからもう最後当たりはいらいらし通し、でありました。
テレビの場合英国から出張認定員(テレビに良く出る日本人女性。近年渋谷にも日本支社ができた模様。
日本からの申請も多いということか)が旅費代何十万円、日当何十万円、他もろもろ何十万円と相当なお金がかかる。 掛っても費用は局負担、最終的には我々消費者負担。
芸人には一銭もかからない。
そうやって来てもらい認定員の目の前で実施。 認定書も事前にすべて準備されていて成功した場合渡す、となっているようです。
失敗した場合については不明。 廃棄しかないだろうな。

再度因みに。 申請自体無料。
認定された場合もB4のよく見る紙切れ1枚のみ。 賞金は1円もなし。
名誉だけが御褒美。

ということで 「ギネス裏話1」 以上で。 今後話が色々飛ぶかも知れませんが、悪しからず。

杉原

 

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ギネス裏話2 (5組の杉原です)
2014-06-07 22:50:57
ギネス裏話2

私如き者のために欄を設けて頂き恐れ入ります。 過去大分たったにしろ同窓生として皆様と同じ空気を吸い同じ境遇にいたよしみで私が経験出来たことをこれから回を重ねて記すべく頑張ってみようと思います。
徐々に欄名の通り駅の事に移って行こうと考えております。
しばらくギネスのお話を。

前回、証人が得られないため申請を断念した所まででした。
この証人宣誓文は例えば地方のそれなりの地位の人になってもらえれば良いということなのですが、そもそもそんな人などいるはずがない。

そんな或る時私が毎日の通勤に使う京急の井土ヶ谷駅で議員さんが駅頭で演説をしているのを目にしました。 「あ、そうだ。 議員さんという手がある。 この方たち地域の人達の手助けになることをやっているはずだ。 頼んでみよう。」
そう思って何のつてもなく事務所に電話する。 「日本のJR全駅を下車したのでギネス申請したいのですが証人となって頂けませんでしょうか。」受けた方も最初何のことか分からないのも無理はない。 キョトンとした感じ。 内容を話すと考えておきます、と。 先方から連絡があるはずがないのでこちらから例の件、どうでしょうか? と聞く。
どうもあまり良い返事がない。 最終的には利害関係があるというのでこの方にはなってもらえなかった。

この方、その時はまだ議員歴の浅かったころの今は毎日マスコミに出る菅官房長官でした。
私たちとほぼ同じ世代で、出身は秋田で金の卵として集団就職で東京に出てきた方。 履歴によると昼間ダンボール工場で働き夜は学校に行っていたという苦労人。 授業料は当然そこから出たであろう。 私など親に皆出してもらった部類。 恥ずかしい限り。 

結果的には菅氏には証人になってもらえなかったが別の地元の議員さんにお話しすることに。
同じように「あのギネスの申請のことですか?」 最初はいぶかしがっていたが、何回かやりとりするうちに分かってくれたのか、私が書いた通りに書けばいいということで話がまとまり宣誓文を書いて頂いた。

これで最大の難関の一つを越したことになりそうでした。

申請後も私の毎日の通勤駅頭で菅氏が演説中の所、私と目が合うと演説を途中でやめて深々と挨拶をするのでした。 
こちらオーバーコートを着ても寒い冬の朝でもコート無しで演説をしているのを見ると大変だなと思うのでした。
氏はその後第1次安倍内閣の総務大臣をやって第2次の時現在の地位にあることはご存じのとおりです。

2回目の申請の時も同じ2名の議員さんから頂いたが、前と同じくまたお願い出来ませんでしょうか、と言うと先方も要領を得たのか何のトラブルもなくすいすいと頂く。

その宣誓文をもらって感じたことは、その頃私は小さい会社ながらそれなりの地位にいたことが関係していると感じました。
そのころ30年近く同じ会社に勤めた結果地位を得られたのであってその信用があって議員さんも書いてくれたと今でも思っています。
もし同じことを毎日会社にも勤めないプータローがやっても誰が書いてくれるでしょうか。 
毎日片道2時間近く(もっとも鉄道が好きだからあまり苦ではなかったが)混んだ、蒸し暑い電車に乗って会社では家族のために意にそわないこともやらないといけないことがあったりと、そういう中で他人が認めてくれるものだと感じます。
毎日の少しずつの積み重ねが大きな結果となることを頭に入れておくのがいいようです。

第2回 以上で。



 
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最近のトピックを (5組の杉原です)
2014-06-16 21:49:37
今晩は。
今日はいつもの話とちがい最近話題に上っていることを少し。
段々歳をとるとどうも思い出すのは昔のことばかり。 
こう言う高齢者は多いようです。皆さんは如何でしょうか。 これは年寄りの特権なのか、先に希望が持てないからなのか、我ながら不思議な気持です。

さて話の題名からして我々男性は少し意識的に避けてきたようなことなのですが、家でも身内からその話が出てきて何なのだろうと思うのでした。どうもテレビで大森のことが出ているらしいということで、その目でいるとその通りでした。
それはもうご存じの方も多いのではと思いますが、NHK朝の連続小説ドラマ 「花子とアン」であります。
数年前も蒲田の 梅ちゃん先生 の連続ドラマが放送され、今度は隣の大森と、我々同郷の事が取り上げられるのは誠に嬉しく喜ばしいことです。

調べていくと最後まで訳者がいらした場所が大田区中央3丁目。 昭和43年に亡くなられたとのこと。
この場所、東海道線と旧大田区役所の間あたり。
小生も八中のすぐ近く、八中に行った面々は知っていると思いますが、角の文具店(杉原商店 私のおじがやっていましたが、近年鬼たび通りの拡幅に伴い閉店。)の隣にその年まで住んでいて、中央・・丁目当たりは、自転車で店の配達の手伝いでよく通ったところ、池上本門寺に遊びに行く時通る場所。 そのあたり土地鑑あり。
だけども村岡花子 という方がお住まいだったとは失礼ながら知りませんでした。
今その場所がそのまま公開されているようです。(常時ではないよう)
昔この近辺でニアミスしているかもしれません。
そう思うとこの番組、作者に親近感がわくのであります。

この前私用でこの当たりもう何十年かぶりに行くと元の大田区役所が
文化の森 というモダンな建物に変身。 いかにも役所の感じの旧建物のイメージが残っているからまばゆいばかりの感じでした。

いまここで村岡花子さんの作品の展示がされているようです。 
そのうち行ってみようかな。

花子さん 4月15日の大森・蒲田の空襲も経験されているようで、連続ドラマの方はそんな訳で毎日みるべし。
視聴率も高いようです。
皆さんもどうでしょうか。

因みにもう一つ経験談を。
この当たりに昔から住んでいれば知らない人はいないのがトニー谷の住まいが大森日赤の当たりにあったこと(今はどうなのか不明)。
トニー谷と言っても若い人は知らないと思うも、我々世代は知らない人はいない人。一世を風靡した芸人。
名前を聞くと懐かしいと思う人は多いはず。 

有名なのが昭和30年小学校入学の我々と同世代の長男大谷正美の誘拐事件。
小学校は我々と当然違うが、私は高輪中学に行くもそこでその本人と同時入学。 私も入学まで知らなかったが亡き親父が入学式で母親を見たと言っていたのを思い出します。
本人にもそのあと学校で話仲間になる。
授業中もある先生が本人にその事件の顛末を聞いていたことがありました。
本人は高校は別の高校に行ったが、そのあと池上通りの旧大田区役所の近くで小料理屋をやっていたのを知っているが今はどうしているのか、生きているのかも消息が全く不明。
 
旧大田区役所が出てくるとどうも
トニー谷の事が思い出されます。
どうも余計な事を書いて申し訳ありません。 

これも歳をとると色々体験、経験が増えるからかどうも長々となってしまいます。

以上

杉原

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ギネス裏話3 ビデオの編 (5組の杉原です)
2014-06-24 11:04:50
同窓の皆様へ

お早うございます。 前回は話題を変えて故村岡花子さんのことを書かせてもらいました。
今回は元に戻ります。

その前にこの前何気なくNHK総合テレビを見ていると若い日本人が4足歩行の記録を狙っている番組が放送されていました。 これなどもギネスの出張認定で、それ相当の出張料とか掛っているはずです。 記録を狙っている人の負担と思われます。

以前はお硬いNHKではギネスというのは単なるイギリスの一民間会社(本業はビール会社。 記録の方はその子会社という関係。)であって宣伝するにはふさわしくないということで、また公共放送という立場上
おたく的な内容はこれまたふさわしくないということでギネス記録という言葉は使わないで世界一の記録認定会社とかを使っていました。

最近それがゆるんだのか公にギネス記録という言葉を使っています。
また何カ月前にはNHK総合でギネス本社を訪ねた番組をやっていました。 (確か 「地球一番」 という番組。 実は私も3年前ある目的で英国に行った時そこに挨拶に行っていたので懐かしい場面が出てきました。 この時お会いした日本人スタッフが前述4足歩行認定員の石川という方でした。
日本人スタッフは数名と限られているのでTVで時々お目にかかります。 少し前もマツコと対談されていました。 出張は原則一人で行い、何で記録にしてくれないのだと身の危険を感じることもあるとのこと。
私思うにこの世界の色々な事象、聞いたこともないような言葉とか内容とか英語が主だと思うが理解するのにすごい語学力が必要だろうと。 

この私の英国旅行については色々面白いことがあったので後日記すつもりです。

話を申請の方に戻して。

証人宣誓文は何とか準備できました。 あと、証拠となるものが必要となるのは当然の流れ。
それはビデオテープと記録ノート等。 それらはしっかりあって自信を持っていました。

ビデオテープについてはHi8テープを最初から記念兼記録兼証拠として地方に行く時はもう各駅下車の記念の目的で各駅撮っていたので自分だけのことで殆ど問題なし。

撮っている途中も何年もやっていると、雨の時濡らして基板を駄目にして大修理を何回も出したり、費用も随分掛ったがそれでも使いやすくよく動いてくれた。
それでも後日修理不能になってミニDVの方に変えたりしたが。

とは言っても撮ったのがJRで最終的に2時間テープで70本もあると膨大な量。 申請にはヨーロッパ基準のVHSテープでないと受け付けないという。 幸い日本の基準と殆ど同じだと言うので、毎日夜テープの変換作業。 作業は機械がやってくれるからいいが。 機械も壊れずよくやってくれた。
 
本来なら行った駅順に編集するのが良いのだろうが、もう量が多く、そんな編集などする時間もないから、オリジナルテープをそのまま何も加工しないでダビングだけ。 だから同じような場所があったり、内部時計のセットが狂っていたり日本人なら多少類推してここはダブって写しているなとか分かるが、実際見るのは日本に行ったこともあるかどうかも分からない英国の人。
見る人もどうやって見たか、全部見たのか今以って私には不明。
色々情報によると嘘の申請も多いよう。 チェックとして証拠テープなどが必須だが、それを見破るスタッフもしっかり見ているらしい。

まあ、それは向こうの判断だから敢えて全部チェックしましたか? とか聞いても意味のないことなのでまあ、これでよしとしよう。 
向こうが記録を認めてくれたのだから文句は言えないし。

因みに年間申請6万件位あるそうだが、認定されるのは2~3千件位だという。 それだけでもすごく狭い門だこと。 
もっともこれは私見だが申請とは言っても問い合わせなども含まれているような気配で、実際はもっと少ないのでは。 私見が違うならどんな分野でも世界一というのはすごいものだ。 30件に1件の認定?!

テープの件は以上で。
他の書類として記録ノート。
これまた膨大な量の駅数。
今まで国鉄のときからすれば何回も降りている駅は沢山だが、駅巡り始めて(1999.6.2.)からノートへの記載を以って下車したとした。
大学ノート1ページに6駅の記載。
これは現地ではA4の紙を手のひらにおける位に畳んで、駅の事を記入。 だから急いでいる時は乱れていたり。 家に帰ってから大学ノートにきれいに記載。 書き終えると一種の満足感、達成感が。 但しそれは一瞬。 書き終えればすぐ次回行くところの案を時刻表を片手に考える。 それも時間がかかる。 
時刻は勿論、時間があって歩くところはどこか、道は分かるか、地図で事前にしっかり予定を組んでおく。
これが終わるともう行った気分になるのでした。
組んだ時刻と実際の時刻、日本の鉄道の優れているところ、ほとんど予定通り行けた。 これは本当に素晴らしいと思ったのであります。

さて、ノートを見るとびっくりするのだが(後日「となりのマエストロ」というテレビ番組に出たとき、志村けんさんがそれを見てびっくり仰天していた。)細かい字でこと細かに。
こちらも1時間待ちとかになれば何もすることがないから駅の階段数まで書いたり。 駅舎の簡単なスケッチとか設置物とかもう目につく特徴のあるものすべて。  
でもこれがあると帰った時どんな駅だったか思い出せないとき見なおすと思いだすことがあって非常に重宝した。
駅間歩く時もその様子を書いておく。 道順、コンビニで何を買ったとか。 いくらとか。 途中入った温泉の様子とか。

そういった諸々の事を書いたノート。 何冊もびっしり書くも、そのあとも大変なことが。  

続きはまた次回で。

杉原




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ベルリン ナウ (5組の杉原です)
2014-07-06 01:26:53
今晩は。
今、こちら夕方5時過ぎ。 日本は真夜中。 今回も少し予定を変えてのお話をしようと思います。

表題のように今私はドイツ ベルリンにいてそこからメールしています。 今日はこちら30度ほどあって、街の人はコーラ、冷たい水ボトルを片手にして街散策をしています。
こちらの女性、青い目で彫が深く、美人も多く皆肌が真っ白で触りたい気ですが、それは少し出来ないといったところ。

去年は今頃ローマと、国内の駅下車もひと段落し、海外も良いなと、地上線は世界でいくつあるか私も分からないから、せめて旅行も兼ねて世界の地下鉄をということで下車をやっている次第です。

6月26日に成田を出たのは良いのですが、乗り継ぎのコペンハーゲンで荷物積み込み作業員のストに遭い、1週間後にやっとそれが泊っているホテルに着きました。 幸い大事なものはすべて手荷物だったので、バッテリー充電器が現地調達になった程度で済みましたが、一時は言葉もよく通じないしあせりました。

今後半に掛り、ご当地ナウとすると長くなるので後日ゆっくりと話すとし、今回は驚いたことを中心にいくつかお話しようと思います。

駅に改札がない!!
これには長いこと改札を通ることを以って下車したとする定義からすると誠に信じられない光景でした。
皆さんもまさか、と思うでしょうが無いのです。
あるのは大きな切符販売機と日付刻印機だけで、駅員が入る改札ブースが無いのです。
大きな駅でも日本のように販売機は多くありません。 それでいて、切符を買うのに行列をしている場面はありません。
(遠くに行く列車では販売所で列を作っていますが)

世界の地下鉄でも駅員がいるのが普通ですが、当地メイン駅でもほんの少しの駅員、それもその目で見て初めて気がつく程度、それ以外の駅では全く見ません。
それですから、よく見てみると、地元の人は切符も買わず、そのまま電車へ。 つまり殆どの人は無賃(他の形で払っているのかも知れないが)乗車。 買うのはまごついている旅行者位。
私の今までの経験からしても全くの不思議。 
私はちゃんと7日間フリー切符というのを買いましたが、フルに使っても改札での提示は1回も無し。
全くどうなっているのだろうと。
駅に来て、知らない間にホームに立って、電車に乗って降りて知らない間に外にいた、という感じ。
もっとも抜き打ち的に車内検札があるとのこと、私も1回だけあるも、見つかると40ユーロだったか罰金がとられるとのこと。
そのとき乗客を見てもおそらく無賃のところ、罰金を払っている場面はありませんでした。
これでは運賃収入は極めて少ない。
経営が成り立つのか。  
定期券があるのか不明。
ともあれ、何とも不思議。

車両はクーラーが入らないのか(夏も暑くならないからか)屋根部分がほとんどないような形となっていました。 降りるときは自分でボタンを押すと開きます。
 
電車の運転手は一人だけ、制服はなし。 私服のよう。 最後尾に車掌は不在。 完全に一人運転。
路線運行は日本と逆の右側。

当地地下鉄駅は全部で173駅。 予定通り6日間で無事終了。
1日平均30位。
この位が丁度良いところ。
ニューヨークの468駅に比べると全然楽でした。 
ここ銀座線みたいに浅いところを通っているから外に出るのに階段が少ないからこの点では可。
 
ロンドン、パリでは長いところもあってまいりましたが、ここは助かるところです。
今は大がかりなのは年1回の巡りとなって加齢とともにきつくなる感じ。何時も3時過ぎになると、疲れと飽きがくるも、それを越えると元の調子が出てくるのが常です。

ベルリンと言えば1936年のオリンピック。 この時のメインスタジアムが今も同じ所にあり、地下鉄駅もあり、当然中に入って見学。 何も競技はしていなかったが、緑の芝生がきれい。 
ここであのヒットラーが宣言をしていたのです。 

もう一つ。 重大な出来事。
それはベルリンと言えばベルリンの壁。 戦後色々ないきさつで丁度私たちが小学校を卒業した昭和36年の8月壁が出来たのであります。
其の当時私も東ドイツの首都のベルリンが東西に分かれたと聞いてはいたのですが、ベルリン空輸とか何しろ遠い地の事、報道も十分でなかった頃、まだ子供であったような頃よく理解できなかったのですが、皆さんも同じような気持であったと思います。

それから28年閉鎖したままで、崩壊もこの前の感じですが、現地に行って、色々事前事後勉強するとその意味、市民の困惑度、鉄道網の対応、よく理解できました。 この点、後日しっかり説明したいと思っています。

最後にもう1点、私はナチス信奉者でもありませんが、歴史を正しく知っておくのは重要だと思っていることから新たな知識を得ました。
言わずもがな、ヒットラーが自殺したのが45年4月末。 メディアでは総統指令(正しくはこの名称ではない)の場所を聖地化されるとまずいので公表されなかったのですが、近年明らかになり、その場所が知れています。
私もベルリンに来た以上、一応知っておきたいので、本日初めて行ってきました。
ユダヤ人の慰霊の石が沢山あるところからすぐで案内板が出ていました。 ここで自殺したのでした。
戦後破壊するのにコンクリが厚過ぎて開発をあきらめたとか言っていました。
歴史の一コマに触れた感じでした。

以上、当地からはこれで。

杉原 

返信する
ベルリンナウー後半 (5組の杉原です)
2014-07-15 11:06:29
2週間のベルリン訪問を終えて帰国しました。 時差ボケでこちら真夜中丁度熟睡しているころの頭のところ、成田は午前9時過ぎ。
いやに日本は暑いなと思ったところ台風の後ということでした。 向こうは30度くらいになっても木陰などでは涼しくしのぎやすいのはいいなと思うことです。

現地続きの話。
これまた地名的に暗い話になるのはご勘弁。
ベルリン郊外に電車でも少しの所。 日本人にとっては忘れがたき名前。 ポツダム宣言。
これがまとまったのがベルリン郊外のポツダム。
今も大きい建物とその内部そのままの姿で残っており、チャーチル他が座った丸い円卓もそのままに。 
日本人観光客も来ていて、イヤホンで聞くより、ツアーコンダクターの説明の方に耳がいってしまう。団体の日本人からは何この人、一緒の人だったかなと思われていた模様。
ここにしたのはベルリンが被害を受け、適当な場所が無かったからとのこと。
貴族の人の住まいだっという。 

日本の新幹線のような車両でベルリンから約2時間。 日本以外の鉄道はあまり時間に正確でないというのは本当。 私自身西洋の地上の鉄道はほとんど未経験でこれを実感。 乗ったベルリン中央駅でも大きな飛行機の旅行カバンを持った人が沢山乗り込んで、なかなか中に入れないし、時間になっても日本のようにヤジが飛ぶこともなく、あせった風もなく皆黙っていてのんびりしたもの。 10分位遅れてやっと発車。
こうして行った先がドレスデン。 ここは戦前は立派な古い建物が沢山あったというところ。 ここも大戦で壊滅的な被害を受けるも懸命な復興でほぼ戦前の姿に戻ったといいます。 
ツビンガー宮殿という大きなきれいな宮殿があり、観光客も沢山来ていました。
ポーランドのワルシャワも似たような必死の努力で戻ったとテレビで言っていました。
日本の各都市もひどくやられましたが、それ以上やられた西洋は建物の傷一つ直したといいます。
ベルリンにしろ、日本の場合は首都まで敵軍が侵攻してくることはなかったが、こちらは中心部まで侵攻。 ベルリン攻防戦は聞いてはいたが、実際その場に立ってみると、ここが瓦礫の山の中、弾が飛び交い、多くの人が悲惨な目にあったということをなにか忘れてはいけない気持ちになるのでした。  
日本に住むから日本ばかりが被害を受けたと思いがちですが、そうでないことを学びます。

最終日、ベルリンから北約30キロの所にある、ザクセンハウゼン強制収容所に電車で団体で行くのでありました。
説明が全部現地の人の英語のため十分に理解できないのですが、現地を見て説明文に目を通せば大体納得。
敷地は広く、約10万人が殺されたといいます。
9割方ほとんどの建物は壊され一部しか残っていないのですが、よくテレビなどで見る場面はありました。 動物扱いのベッドとかトイレ(これも時間を決められてしか行けなかったという)、監獄、焼却場、実験場。冬は零下20度にもなるという。 人間扱いされていなかった状況。
もう博物館みたいに整理整頓されていて、実際の時のリアルさはないが、重要な場面では皆シーンと見入る。
ここで露骨に書くのもはばかれる位。
30キロというと東京ー横浜位。 その位の所に収容所があったということ。 今ではとても考えられないが、その時はもう(普通の人の)感覚がマヒしていたのか。 
色々研究するとユダヤ人は卑しいとされていた職業にしか就けず、周りの人からも疎んじられて、隣にいたユダヤ人が近頃いなくなったと(ドイツ人が)思っていても丁度良かったくらいにしか思っていなかったとか、ヒトラーが我々が貧しいのはユダヤ人がいるからだとうまく政治的に利用したという。

この地にいると本当に歴史に翻弄されたと思われるのでした。
帰ってからも今までと違った強い関心を持つようになったのは大きな収穫でした。

最後に暗い話ばかりの所、明るい話を少し。
ドイツ人というのが何人というのか正確には知りませんが、現地の人をまじまじと(さっと見る程度の)見ると、英国、仏人とも違う感じです。
若い女性など少し血の気があると言う位の本当に色が白に近く、目はブルーで窪んで、金髪、あちこちモデルが歩いている感じ。
但し、年を取ると精悍そうなそのままの人もいるが、段々肉がついてしまう。
地下鉄駅他で老夫婦が階段を大変そうに棒に掴まって上るところを沢山見た。
栄養摂取過多もあるのかな、とも思ってしまう。
大きなスーパーに入っても日本では見たこともないような品物が各種あり、安いから皆たくさん買い込んでいる。
私も海外旅行の楽しみの一つがアメリカンチェりーが安く沢山飽きるほど食べられ、冷たいのを歩きながらほおばるのがいい。
もっともつらいと思うのが、時差ボケと食が口に合わないということ。 
パンも1日1回位ならいいが、3食だともうパンを見るのもいやになってしまう。 甘ったるいし。 そこでご飯食を必死になって探す。 そういう状況です。 以上余談でした。

2014サッカー世界大会がドイツ優勝ということで幕を閉じました。 この前行った国が優勝というのは本当に寄寓の感じです。
ベルリンにいた時もブランデンブルグ門あたり、黒赤黄の国旗まがいのものを持った若者が沢山応援していました。 女性は頬などにひげみたいなプチ化粧をしていたのが印象に残ります。
メルケルおばさんは東ドイツ出身、有名な選手は(名前は?)西ドイツ出身とのこと。
まさに東西ドイツ一体となっての優勝は地元にとって記念すべきものでした。

以上 ベルリンの巻完

杉原







 
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ベルリンナウ 追記 (5組の杉原です)
2014-07-28 13:16:52
お早うございます。
毎日暑い日が続いて体力的にきついこの頃です。皆さんも同じ状況だと思います。
さて、前回で終えようとしていたベルリンナウで、帰国直後私も疲れていて、また暑かったり経験したことの漏れもありましたので更なる記述をしました。
最後まで読んでいただければ幸いです。
重複記述のところは悪しからず。

街中の一般的な風景:

駅等については前述しましたが、泊まったホテルのフロントの人に改札がなく、駅員もいない理由を聞くと、現地の人は年単位の切符、月当たりにすると60ユーロ(8千円位)前後の切符を駅で購入するとのこと。 矢張り何も切符を買わないで入っているわけではないと一応納得。
その代り抜き打ちの検札に見つかると、旅行者で知らなかったなどの理由は一切聞いてくれないらしい。 私も全旅行中3回検札にあった。 当然ながら7日間通用の切符とか買っていたので何もお咎めはなかったが。 この3回というのも頻度として高い感じ。 頻繁に検札を行っているという証左にもなる。
車内のガラスはすべて例の有名なブランデンブルク門の透かしの入ったガラスとなっている。 
ナチスドイツの象徴のような建物が映り込んでいるというのは何か違和感を感じるが、現地の人はどう思っているのか、聞いてみたい。
同じく車内の人たちを見ると、今東京都心に出ると電車の中は多くの人が携帯かスマホを見て、何も持たない私など異端児に見えるが、こちらほとんどの人はおとなしく座っているだけ。 ほんのわずかな人が携帯か、見ているくらい。
これから爆発的に増える前段階なのか今後を見てみないと不明の所ではあります。
2、3センチの厚みのある本を読む人も散見される。

1回こちらのオフィス街に相当するあたりを夕方のラッシュアワー頃に通ったとき昼間の空いた時と変わらないくらいで、車内に自転車を載せている人がいるくらいで、東京と随分違うなと実感。 向こうは日本と違って一極集中でなく、各地人口が分散していて、最大のベルリンでさえ、横浜市より少し多い位。 日本ではこの一極集中が大きな問題となっているが。

消費税から見た庶民の税金について:
こちら最高税率西洋では決して高くない19%だが、これは生活必需品以外の税率。
必需品の税率は7%。 私も近くの大きなスーパーで買い物をするも、内訳を見るとほとんどの商品(ミルク、パン、肉、アイスほか)は7%。
19%は何だったかわずか。 日本はこの前何でも8%に。 もうすでに1%越している。国は日本の税率はまだ低いと言っているがとんでもないウソ。 高級車ならかかってもいいが、大根1本108円を100円ショップで買う年金暮らしの年寄りには酷なこと、目に見えている。
国は来年にもまた上げる予定らしいが、お上の言っていることだから逆らえないと思わない方がいい。
前回も書いたが向こうのさくらんぼ。 アメリカンチェリーだが、日本の品物をスーパーで見ると、1g当たり約1.5円。 現地1キロ当たり3.9ユーロ(約540円)で1g当たり0.54円。 実に日本のは3倍もする。
日本の生産者保護で高い関税がかかっているらしいが。
現地の果物店では店頭にうず高く積まれたアメリカンチェリーを卓球のラケットと同じくらいの木製のシャベルで量り売りしてくれる。
他にも日本で見たこともない果物があって食べたい気もするがへたな目にあうと怖いので、小さいのは少し失敬して食べるが、日本人の口に合うのと合わないのがある。
アメリカンチェリーは冷たくするとおいしく、街中歩きながらほおばるのが何とも楽しい。 海外旅行の意外と多くはない楽しみの一つとなっている。 日本で高くて買えないうっぷんをこちらで晴らすべく毎日せっせと飽きるまで食べるのでありました。 最終日飛行機に乗るまで沢山残るも、出国の時見つかると面倒なことになりそうなので沢山捨てたのが惜しいと思うのでありました。

不思議に思うのが缶コーヒーがほとんどないこと。 海外旅行をしたことがある人は気が付くかもしれないが、全く不思議。 自販機がないのは知られているが。
コーヒーは暖かいのを飲む以外考えられないらしい。 飲むカップは向こうでもプラスチックは一般的だが。 缶コーヒーわずかにあるのを見つけるも、値段が高く飲むと砂糖が一杯、の感じで甘すぎ。 

海外行くと困るのが食べ物。 毎食パンだと本当に困る。 海外、中国人とかが最近多くなったからか、米を出すところもあって旅の後半やっと食べられるところがあるのが分かりそこに集中的に行くことになる。 Asia Snackなどといった名前の店が地下構内などにある。 ほぼ八宝菜に近いのが最も口に合った。
そこのある店員、中国系なのか、顔も優しそうな笑みがよく似合う実に愛想のよい女性であいさつもよくしてくれ言葉はさっぱり通じないが、2回くらいでこちらの顔も覚えてくれて実に感動した。
滞在期間がもう少し長ければと思うのでありました。

街中では移動販売車でトルコ料理のケバプデナーを売る店が多く、何とか食べられるので時々食べたが。 パンの間に肉と野菜を挟んだもので、トルコ人が多いからこういう店が多いのだろう。
実際今ドイツではトルコ移民の問題が大きいらしい。 過去労働力不足の時、移民者が入ってきてそれが今に至っているらしい。
日本も労働力不足が云々されているが、いっときのために安易に外国人を入れると、それは何百年もそれ以降も問題が続く可能性があるので気をつけるべき。
矢張り現地生粋のドイツ人とは違って、顔も体もごっつい。 ただ、移民がすごく多いフランスほどではないが。 黒人はほんの少しみられるくらいであった。

ユーロという貨幣を見るとどうも分かりにくい。特に硬貨が分かりにくい。 日本の硬貨の場合、金額によって色が違うから分かりやすいが、ユーロの硬貨は大きさも大きく違わないし、色も1,2、5セントが銅製で他は白色で、違うのは周りのぎざぎざと厚みの違い位で、現地の人はあっという間に金種計算をしてしまう。 こちらなど、面倒くさくどうしてもすぐ分からなくなってくると小銭入れを全部開いて取ってくださいといった態度をとると向こうの人も取ってくれる。時には間違いをされているかもしれないが。もうどうでもよくなってくる。

ベルリン中心部を歩いているとたまたまベンツのショールームがあり、入ってもよさそうな雰囲気なので入ると、品のよさそうなアーリア人というのか現地の美人受付嬢がいる。 色々な車があったが、気になる値段を見ると安いので3万ユーロ(400万円)位か、高そうな立派な車を見るとその何倍もするのが置いてある。 どっちにしろ手が届かないが。 日本車はアメリカほどは見ず、わずかにトヨタのが善戦しているといった感じ。

昨年日本のテレビ番組を見ていると僕らの小さい頃可愛い子だった鰐淵晴子はいまドイツにいるらしい。 いうまでもなく「ノンちゃん雲にのる」である。

現地の可愛い小さい女の子と話す機会があったが向こうの女の子も本当に可愛い。
この前日本でも女児の誘拐があって、掴まった者は育てて将来の妻にしたかったなどと言っているらしい(苦笑いしてしまう)が、この気持ちもよく分かる。 これ以上書くと問題があるから書かないが。

当地に行ったのは地下鉄の関係もあったが、物心つきドイツのことを知ってからどんな所かこの目で見たかったからでもあった。
それはナチスとかほか歴史上の有名な出来事の起こったところでもあるからです。
以下そのことに触れないわけにはいかないので記します。
まずベルリンの壁について
今はもうほとんど残っていないがわずかに記念として残っている程度。1キロにも満たない位。
壁といってもその距離東西ベルリンの区切りが43キロ、西ベルリンと東ドイツの区切りが112キロ。 合わせて155キロ。 随分長い。 西ベルリンでは徴兵制がなく、国政参政権もなかったという。 徴兵制がないということで西ドイツからくる若者も多かったという。 逆に西ベルリンの人口が減らないようにとの政策もあったらしい。
地下鉄も壁に沿って線路があったわけではないから、その運行も苦労したらしい。 西ベルリン始発東ベルリンを通って西ベルリンに行く線(6号線と8号線)では途中東ベルリンにかかる駅は、そこからこっそりと電車に乗られては困るから、当然止まらずホームは明かりが消え、銃を持った兵がいたという。 電車が故障した時は混乱をきわめたらしい。そういう駅が6つだか、あったという。
そして単純に思うのが、西ベルリンと西ドイツの交易方法。 西ベルリンに入ってしまえば、もう西ドイツに入ったのと同じになってしまうという。それだからその交易方法がどうなっているか調べたところ、それは3本3本の鉄道とアウトバーンがあって、途中停車も下車も途中抜けもできなくなっていたという。 ことの性質上当然といえば当然だがそうなっていたのか、改めて知る状況ではあります。

最後にベルリンという以上、ナチのことを取り上げないわけにはいかないので自分なりに帰国後色々本を読んだり、ネットで調べてみた。
ヒトラーが民衆の気持ちを掴み、ユダヤ人虐殺を行ったというのは皆が知っていることではありますが、そこに至る過程については私も調べる前までは多くの人と同じく表面的な理由しか知りませんでした。
以下簡単にそのことに触れたいと思います。
もともと西欧のユダヤ人はもう昔から嫌われながらも主に西欧で暮らしてきました。そこに20世紀初頭以後ヒトラーがアーリア人以外劣等だと言い出し、段々ユダヤ人が迫害されてくる。 2次大戦前ドイツ国内でも60万人、ポーランドに300万人、ソ連に250万人ほか西欧諸国に大勢。 ナチスドイツが2次大戦で東欧を征服するとその多くのユダヤ人の処置の問題が段々と大きくなり、占領地を広げれば広げるほど嫌いなユダヤ人が増える結果となった。
最初東欧占領地に移動させて本体は純粋民族だけにしたかったところ、東欧も負けてくるともって行き場がなくなり、いとっきはゲットーを作ったり、ある時は真剣にアフリカ隣のマダガスカル島に移住させるということが真剣に討議されるも他国に占領されるとあっという間にその案は没となり、その処理に困ってくるのであった。
途中何十万人という人を銃殺するも限界を感じもっと効率的な案を考えるのであった。
その最終案(ユダヤ人の最終的決着=虐殺)が太平洋戦争開始翌月(昭和17年1月)に決まり(ベルリン郊外バンゼー会議・ヒトラーはそこには参加していなかった)、それ以後組織的継続的に例の有名なユダヤ人虐殺が始まるのでした。
ポイントだけ言うとこういうことのようです。
それにしてもこういうことが国家の命令で行われてきたのは今後も行われないという保証はないし国家権力というのは本当に怖いものです。
悪事であっても大勢のそれに従わなければ自分の命・立場がなくなるのですから。 
こうい為政者が出てこないよう人々は過去のことをしっかり学び取らなければ悲劇が繰り返されます。

以上
  

 
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ギネス裏話4 第1回申請(JR分)をする (5組の杉原です)
2014-08-14 20:06:46
同窓の皆様へ

毎日暑い日が続いています。 ご機嫌如何でしょうか。 こちらも年をとるとともに暑さ、寒さに弱くなるばかりで年を感じてしまいお話も滞りがちですがそこを我慢して続きを記そうと思います。 毎回読んで頂いている方がいると思うと頑張らないと。 

前回のベルリンの追記ということで、参考までに全下車駅数を示しますと
国内9,875駅(未下車10駅程度あり)
外国1,383駅 (6大都市地下鉄のみ)計11,258駅(2014.8.14.現在)
となっていますが、それにしても多い。
国内は最近は滞り気味。 行ってもまた出来るからまとめて行かないと効率が悪い。 今日も朝、品川新駅の駅名の候補がテレビ番組で言っていました。 2020年に開業予定でまだ先だなと思いつつ、中学高校が高輪だったから個人的希望としては高輪がいいなと。 芝浦というのも候補らしい。 今は地下鉄があって便利になったが、昔(もう半世紀以上前になってしまった。)通学していたころは品川駅から歩いて15分位、都電もあったが急用の時くらいしか皆乗らなかった。 都電が10円とか13円とかの時代。 皆夏は陽の当たらない1国の歩道側、冬は陽の当たる側を通って通学するのでした。 高輪の名前がマスコミに出る度に昔の通った頃のことを思い出します。 

さて本題に戻します。

前回まではビデオや証人宣誓文の準備のお話でした。
京都の申請案内会社の提案であと若干の下車駅の写真とかイメージとしての駅の状況説明、パソコンでベタ打ちしたA4版の駅名のデータ、国交省発行の鉄道要覧等を入れて提出の準備をします。 箱内殆どテープが一杯です。 重さも相当です。 
その前に提出したものは認定不認定にしろすべて返却されないというので提出分の大学ノートはすべてコピー。 きれいに書いた沢山のノートは返してほしかったのだが、やむを得ない。
提出後もノート形式でないと見づらいのでそのコピーしたのを見ながらそっくり大学ノートに記載。 これも時間がない間もコツコツと毎日地道にやる作業でした。 半年以上かかりました。

すべてを入れてもちろん初めて英国のギネス社へ郵送。 人事を尽くして天命を待つ、の心境であとの結果は神様のみが知る。 まあ、やることはすべてやったのだからあとは天に任せるしかない。

先方の案内では1か月位で結果を知らせるということだが、数か月たっても何も言ってこない。 どうなっているのだろう。 やはり天下のギネスだからそう簡単にはいかないのだろう、とも思ってくる。
ところがそれからしばらく、先方から初めて連絡が来る。 それを見ると向こうも関心があるらしい。 今までこういったジャンルでは記録にしたことはないという。 一瞬矢張りダメかなと思う。 だが更に読むとギネス申請というのは初めてというのは原則認められていなく、数量的に計測できるものでないといけない(記録を打ち破るというのが信条だから)、そこで提案だがそのやった期間での記録ではどうかと言う。 それは別にかまわないと伝えた。 JR分として2年7か月余(もちろん正確な日数で記録申請)。
更にはたと困ったのが下車記録ノートの全訳(full translation)を送ってほしいという。
英国だから日本語が分かるスタッフがいなのか。 エー!? 簡単に言っても困る。 全訳と言っても大変な量のこと細かに書いた記載。 自分ではとても時間的、物理的に全訳などできるものでない。 申請を諦めさせる口実なのかなと勘繰ってしまう。 弱った。 矢張り簡単には認定されないのかなとも。 ハードルは高い。 
例の京都の会社の人に問い合わせたところ、なんとやってくれるという。 期間も3か月、低廉な価格で引き受けてくれるという。 有難かった。
勿論ここまでやってきたのだから全訳をお願いする。 自分が考えても大変な手間だと思う。

時間が過ぎ、訳したA4のパソコン打ち出しのデータが出来た。 完全には訳されてはいないが。 先方には商売とはいえ、よくやってくれたと大いに感謝する。
(認定されるのに多くの人の協力があった。これだけは人の情けといったものを感じ生きている限り心に残る)
これをさっそく先方に提出。
出し終わってどうなるのか気になるのは当然。
やることはすべてやった。 あとは結果を待つよりほかない。
そのあとある日突然やってきます。
続きは次回にします。

以上暑中見舞いを兼ねて。 
皆様暑さ本番の候ご自愛下さいませ。 

杉原
 




  

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ギネス裏話5 第1回申請(JR分)の結果 (5組の杉原です)
2014-09-10 20:18:14
皆様今晩は。 皆様やっと酷暑から解放されほっとしているところだと思います。

さて、前回は第1回の申請を終えてのその結果待ちのことまで記しました。 もうじっと我慢するよりありません。
遅れましたがその最初の申請が2002年5月。
もう大分前のお話になってしまいましたが。
(私の諸話忘れていたりして内容がダブっているかもしれませんが、そこは悪しからず。)

待っている間も一種の惰性みたいで今度は2001年3月寒い頃青森県の下北交通大畑線田名部駅から始めた私鉄も引き続き続行。
JRが終わりに近づくともう先が見えてきて、次に考えることは私鉄をやるかどうかということでした。

私鉄はJR以上の数があって内心また同じことをやるのはまいるといったところなのだが、逆に便数が多かったり、割と交通便利なところが多くその点ではやりやすい。
風景は断然JRの方がよくいい風景を見る楽しみがあるが、私鉄、特に都市圏ではもう駅は人を通すだけで野球の消化試合みたいで面白くないのは分かっていたが。
日本の知らない色々なところを駅を通して見たり聞いたりする楽しみを見つけようと考える。
だけど、また同じ位の労力、時間、金銭がかかりそうだし本当にどうしようかと迷う。
今まで苦労したのだからJRだけでは中途半端だし、私鉄も立派な鉄道会社だから敬意を表してやるべきという気持ちに段々傾く。
そういった気持ちがまとまるとまた精力的に今までと同じ気持ちで続けるのでありました。

結果的に最終まで5001の私鉄駅があったのですが、最終越前鉄道の勝山駅が2003年10月19日。 その間2年7か月少し。
今になって思うとよくこれだけの期間で5000駅も回ったと自分ながら驚きです。
その間の旅の状況、いちいち事細かに記することはできないのですが、特に記憶に残っていることを後日掲載しようと思っています。

それはそれとして、申請した分、途中で1回先方から言ってきただけでそのあと何の連絡もありません。 頭の片隅にはその結果がどうなっているのかの思いがいつもあり。 早く知りたいし。
通常遅くとも数か月で結果を教えてくれるというしそれにしても遅い。 どうなっているのだろうと。 もうそればかり思っているとこちらもいらいらしだす。 そういっても仕方がないし。
半年、1年、1年半が過ぎダメかなと思い始める。 
そしてとうとう結果が認定書の到着で分かった。2004年2月27日付で、書留でもない普通の書類の外国郵便で。 何の前触れもなく。 余り目にしたことのない外国郵便で、最初何の郵便だろうと訝しがるが。
中を開けるとB4のよくマスコミで見るロゴの入ったCertificateでありました。
責任者のサイン入りでその能書きを見ると、JR全駅下車最速記録(直訳では最短期間記録)ということで、当社の記録に留める、ブックにはすぐには載らない、Guinness World Record Holder おめでとうと書いてある。  
あの世界一の記録として認めてくれた。 何か夢を見ているようで。 翌日朝起きても昨日のことは間違いなかった。
昔テレビでその記録の番組などやっていたりしたのをおぼろげながら覚えていたり、きんさんぎんさんがもらったようだがそんなの自分とはお門違いで関係ないと思っていたのに。
今まで学業関係では多少賞状をもらってはいたが、スポーツではもらったこともないし、これといった自慢できるものはなかった自分が。

この世の中、タレントや有名人であの人があんな記録を持っているのかと驚くことがあります。 
タモリ、黒柳徹子(テレビ徹子の部屋で飾ってあるのはご存知の方多いと思います)、みのもんた(最もマスコミ露出度が高い、という記録。 最近お目にかからないですが)岩下志麻(化粧品の長年宣伝)、観月ありさ、劇団ひとり(レモン早食い。)、三浦雄一郎、スポーツ選手で超有名なのは高橋尚子、瀬古利彦、体操の白井他。
縄跳びで5つ持っている鈴木さん(NHKの 熱中時間 の番組にいらしてました)などが日本人最多記録か?

最近個人的には余り好かないのですが団体で大勢でやってもらうというのがよく出ます。
何か目立つことをやっているだけで。 

これもこういっては何ですが、この賞をもらったのとそうでないのと全然世間の評価が違うということも後々感じるのでありました。
でも前にも書きましたがこれも多くの人の協力でもらったものでこれらの人には死ぬまで恩を感じ、決して慢心したりせず、別の形のお返しをしなければならないと思っています。

因みに私の正式の表現は「ギネス記録に認定された」ということです。 ギネスブックには残念ながらまだ載っていません。 
そのうち載るかもしれませんが。 多分ダメかな。
ギネスブックはG(ギネス)社が今年はこのジャンルの世界一の人を載せようという基準に従ってそれにあてはまったものだけが記載されます。 スポーツなどは毎年必ず載りますが。

本日の発表で、昭和39年の東京オリンピックで最終ランナーをつとめた坂井義則さんが突然亡くなりました。 ご冥福をお祈りします。 時々テレビでお顔を拝見しました。 我々高校1年の時、坂井さんの颯爽とした走りが目に残ります。 その記憶は大分なくなりましたが、6年後皆さんまた見ましょう。

それでは皆様、ご機嫌よう、さようなら。

以上




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ギネス裏話6 第2回目申請(全鉄道分)をする (5組の杉原です)
2014-09-30 22:06:19
今晩は。 今日は朝はひんやりするも昼間は暑い日でした。 

本題の前に小話を少し。

我が郷土の名士、村岡花子さんの物語が先月末終了しました。 一時は蓮子さんとの仲がこじれどうなるか、ハンカチを用意しなければならない場面もありましたが、最後は仲良くなりまずはハッピーエンドで終りほっとしたというところです。
発刊記念会で自分の講話もそこそこに新しい作品の翻訳に辞書を求めて自宅に戻る場面もありきたりの筋書とはいえ、何か同氏の熱意を感じるものがあり、窓から行方を捜す蓮子さん達の顔はやはり悲しい顔より明るい笑みのある顔の方が似合うとも思うのであります。

先月のお彼岸の中日、大森警察のロータリーのところで、大森第3小の高橋幹事とばったり出会ったのであります。
同氏には6月の合同同窓会で初めてお会いし、お世話になって以来で、お顔もお互い覚えていて人間違いではない対面をしました。

小生は1小の時は学校の西門(というのか。産業道路のところ。)から歩いて30秒の所に住んでいて、会ったのはこの以前住んでいたあたりを懐かしい思いで散策していた時でした。

散策した所をざっと記してみると
・谷戸(第一京浜国道の大森町ー梅屋敷駅間の交番のところ。)の小さな神社が拡幅のため工事中。
・付近沢山の同窓生が住んでいたあたり。別の建物が立っているところが多くある。みんな今はどこで何をしているのだろうか。元気なのだろうか。あの子とはあんな思い出があったなとか。
今の東中のところの鍛冶屋さんは建物の形はそのまま。今見てみると狭いところだなと。何か鉄を叩いていたのをかすかに記憶している。
・用事は厳正寺のお墓参りだったのだが、その正門前の魚屋さんは古く薄くなった看板もそのまま。何とまあ50年以上も同じままと思うと何かタイムスリップした感じで異様な感じもしてくる。
昔の小さい頃に戻ったみたいでうれしいような何というか。
看板は変わらずで人は変わる・・・
・同寺のすぐわきの細い道のところは小さいころは小さな川があってそこで地元でとれた海苔洗い(だったか)をやっていた。海苔を分けてもらったことも。今そこは狭い所にアパートが立っている。
・駿河屋通りには親戚もいてお世話になったことも。今見ると随分狭い道だが昔もこんなだったのかなと。行ったことのある近くの銭湯もなくなっていた。
・(今回は行かなかったが)信号のところの伊藤病院。小学低学年の時一緒の組だった伊藤君の所。私も同氏のお父さんから、高1の時、腹膜炎で入院手術してもらった。お父さんとは別の件でお世話になったりと。伊藤君元気ですか。

以上記したあたりみな小生の遊び場でありました。

ということを観想にふけりながらロータリーのところで高橋氏とばったり出会うのでした。

会社のこととか、お互い好きな旅のことなどとりとめのないことを、こちら40分位路上で立ったまま話が続くのでありました。
色々なことがあるようです。(この中身は不記述)

この前何気なくテレビを見ているとアドホックの司会をやっている愛川欽也氏が情報番組現役最高齢司会者ということでギネス認定を受けたということをやっていました。
80歳ということですが、同氏昔見城美枝子さんと番組をやっていたという記憶があるのですが、80歳ですか。元気ですね。うーん。
番組で認定証を渡したのは石川という日本人正式ギネス認定員で、私が3年前ロンドンの地下鉄全駅下車を終えて本社に挨拶に行ったときお会いした方でした。(余談)

ということで、今回小話のつもりが長くなって本文が書けなくなりましたので、本題は次回にします。
それでは。






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