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CTNRX的文學試行錯誤 No.006

2023-04-21 21:00:00 | 出来事/備忘録

 『確執と覚悟』


『シズコさん』佐野洋子著

 本書は、題名が端的に示すように、著者の母親佐野シズを描いたものです。           
 母親への積年の恨み辛み、無念と自己嫌悪など一切合財の想いを宿すシコリが、シズの認知症と死を経て和解するまでを描いたのが、『シズコさん』のあらすじということになります。
 豪放かつ繊細な感受性で記された母親との悪縁の内訳は、同時に戦前戦後の時代背景を生々しく浮き彫りにもしていて感性に素直な筆致は、佐野洋子のエッセイすべてに通じる特徴で、荒ぶる時は小さなスサノオの如し。露悪的にすら映る乱暴狼藉が四方八方に吐き出されはするものの、底意地の悪さがないものだから愛嬌になる。
 正直なことは「裸の王様」の少年の如し。
 けれども著者が指さすのは、心の内を晒して怖じけない佐野洋子自身である 。      心の裸身を呆気ないほど無防備に見せてしまう危なっかしさは、それ以上の痛みや剥奪を先制防御する煙幕のようですらあります。
 本書が母親への愛憎に苦しむ世の娘たちに希望や慰安をもたらすのかどうか、私には分らない。そもそも、老いた娘が更に老いた母のベッドにもぐって寄り添うとは、なんとも無粋な所作ではないか。何も同衾しなくたってよかろう、と鼻白んでしまうのは私だけだろうか?冷静に考えれば、幾つになっても、要はこども心の落とし前なのだから、添い寝に辿りつくのは道理でもある。認知症の母親も折良くこども返りしていることで、過不足なかろうと思わないでもない。それでも興醒めを免れないのは、私のつむじか臍が曲がっているからだろうか?私の母子関係など佐野洋子の足元にも及ばず、ちっともドラマティックではないからだろうか?それとも、これは単なる意固地な美意識の問題な のだろうか? 無益な詮索はどうであれ、『シズコさん』から佐野親子の葛藤を引き算したものこそがわたしには悩ましい。「母を金で捨てた」、「愛の代わりを金で払った」と繰り返す佐野洋子は、母親を老人ホームに託すことになるが、母親の末期は自分のガン告知と軌をひとつにする。
 事実、本書刊行(2008年4月)の2年後に著者は他界している。『死ぬ気まんまん』(死後刊行2011年)では、より直栽に自らの死を語った著者が、『シズコさん』執筆時にどれほどの切迫感をもって余命をカウントダウンしていたのかはわからない。死の予感が執筆に深い影を落としていたには違いないが、『シズコさん』の佐野洋子は「死ぬ気まんまん」には未だ至らず、生者としての務めを気丈に果たしている。 生者は、死者を見送り、想起し、悼む。著者は『シズコさん』によって、見事に母親を見送り、想起し、悼んでいる。けれども、さらに痛ましいのは、著者のこども時代に他界した父親、兄1人弟2人に捧げられている深い哀悼である。兄については、『右の心臓』(1988年) において、既に切なる追悼がなされているとはいえ、著者の晩年の声には異なる含蓄がある。死という不気味な事態への覚悟が読める。


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