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銭の花《商魂》 ♯014ーC

2023-09-13 21:00:00 | 日記

 ■キューピー?キユーピー? ③

 中島董一郎

 中島 董一郎
(なかしま とういちろう)
1883年8月22日〜1973年12月19日)は、日本の実業家。キユーピー創業者。


 《来歴・人物》

 愛知県幡豆郡今川村(現・西尾市今川町)に生まれる。
 中島家は代々眼科医の家柄で、祖父も父も当地では名のある医者であった。
 祖父は郡の医師会の会長を務めていた。
 父も京都の医学校に出て祖父の医院を継ぎ、当時では大変繁盛した町医者になっている。
 ところがその父は世間事に疎く人の良い人だったようで、親戚に頼まれるままに借金の保証人になってしまい破産をしてしまうことになる。
 夜逃げのような状態で名古屋に引っ越すことになり、1893年(明治26年)には9歳で母を亡くし、弟二人と妹一人が親戚に貰われていった。
 同年末に上京し、明治29年(1896年)に東京府尋常中学校(のちの府立一中)入学。
 同期に鳥類学者の内田清之助など。明治35年(1902年)、府立一中を卒業し、明治37年(1904年)、水産講習所(現:東京海洋大学)へ入学。上級生に高碕達之助、林田甚八(ニチモウ創業者)らがいた。

 明治40年(1907年)、講習所卒業後、採掘工場の帳簿係などを経て近衛輜重兵大隊に一年間入隊。
 除隊後の明治42年(1909年)、缶詰会社の若狭商店へ入社。
 高碕の勧めで農商務省の海外実業実習生に応募し選ばれ、大正元年(1912年)、欧米に派遣される。
 この頃マヨネーズに出会い、当時日本の栄養不足の改善(特に野菜など)をしようと思い立つ。
 大正5年(1916年)、帰国し、大正7年(1918年)に缶詰販売業の中島商店(1938年に中島董商店と改称)を設立し食品業界に進出。
 大正8年(1919年)に食品工業株式会社(現キユーピー)を設立して各種食品を製造開始する(マヨネーズ製造自体は1925年に開始し、販売は1972年まで中島董商店が行っていた)。
 昭和3年(1928年)、高碕の意見を押し切ってみかん缶詰の販売に乗り出し成功させ、広島県に旗道園(現:アヲハタ)を設立する。
 なおアヲハタ(青旗)ブランドは中島が欧米に派遣されたときに見たボートレースを見てすがすがしいフェアプレーと青い旗に感動して「缶詰は中身が見えないからこそ製造するものは正直でなくてはならない」という理念を創業者の廿日出要之進が青い旗をブランドとして決めたことによる。

 水産講習所卒業の後は上記のように董一郎の先見の明のよさか運の良さか分からないが、とんとん拍子に事業が発展していく。
 会社が大きくなると同時に自分を育ててくれた地域(西尾市や幡豆郡など)に恩返しをしている。
 地域の若者のために奨学金制度を設け、多くの人材を育てている。
 昭和48年(1973年)12月19日死去。享年91(満90歳没)。
 菩提は西尾市今川町の養林寺[3]にある。
 なお董一郎の関係の先祖(本家)の係累は同じ市内の上道目記町にある不退院の過去帳に残っている。

 関連項目 ー アヲハタ ー

 アヲハタ株式会社(あをはた)
(英: AOHATA Corporation)

 広島県竹原市に本社を置く食品会社。「アヲハタ」ブランドで缶詰・ジャム類を製造している。
 東京証券取引所スタンダード市場に上場。


 《沿革》

 ・1932年(昭和7年)
 廿日出要之進が中島董商店の全額出資を得て株式会社旗道園として創業。

 ・1948年(昭和23年)
 地元企業出資の下、青旗缶詰株式会社として再度設立。

 ・1988年(昭和63年)
 アヲハタ株式会社に商号変更。

 ・1998年(平成10年)
 7月24日広島証券取引所に上場。

 ・2000年(平成12年)
 3月1日 - 広島証券取引所廃止により、東京証券取引所2部に上場。

 ・2008年(平成20年)
 6月 自社生産品の販売先を中島董商店からキユーピーに変更。

 ・2012年(平成24年)
 4月5日 ジャム工場敷地内に、体験施設「アヲハタジャムデッキ」開設。

 ・2014年(平成26年)
 12月1日 キユーピーの会社分割によりパン周り商品の販売事業を引き継ぎ、一部製品を主に自社で販売化。
 これに伴う株式移動などにより筆頭株主となったキユーピーが親会社となる。

 ・2018年(平成30年)
 12月3日 中島董商店からアヲハタの商標権を譲受すると同時に、中島董商店に対して第三者割当増資を実施。

 《「アヲハタ」のルーツ》

 中島董商店創業者である中島董一郎が、イギリス滞在時に、ロンドンのテムズ川でのケンブリッジとオックスフォード大学の伝統のボートレースのフェアプレーに感動して、両校の青い旗に強い印象を受けた。

 帰国直後の1918年(大正7年)に、「アオハタ」を商標登録したが、「オ」は頭が出てバランスが悪いと感じ、1928年に「アヲハタ」 で再出願した。

 1918年(大正7年)の出願時には、青以外に、緑、赤、黄色の旗マークを登録した。
 これは、中身が見えない缶詰だからこそ正直者たれという、中島の信念によるもので、カニ缶詰の特級品に青旗マーク、1級品に緑旗、2級品に赤旗を付し、格付けを明確にした。

 アヲハタの商標権は長年中島董商店が保有していたが、前述の通り2018年12月3日付でアヲハタへ譲渡された。

 関連項目 ー 廿日出要之進 ー

 廿日出 要之進
(はつかで ようのしん)
(1898年11月30日〜1973年9月26日)
 広島県出身の実業家。
 アヲハタ創業者。

 《来歴》

 広島県豊田郡大長村(現在の呉市豊町)生まれ。
 大長村は広島ミカン発祥の地で廿日出の実家も果物農家を営んでいた。
 旧制忠海中学校(現広島県立忠海高等学校)~農林省水産講習所(現・東京海洋大学)卒業(1923年)。
 同講習所の先輩で中島董一郎が創業した中島董商店に入社。
 大長村の同郷で、ミカン缶詰のアルカリ剥皮法で名を残す加島正人に協力して郷里でみかんの缶詰作りに取り組む。
 ところが加島が中島董商店を通さず、直接英国と取り引きを始めたことから、中島の全額出資を得て1932年、みかんの缶詰加工とオレンジママレードなどジャム類の製造を目的として広島県竹原市忠海に「旗道園株式会社」を創業した。
 「農産加工の美味しさは、その原料によって七割が決まる」の信念のもと、当時柑橘類の最優良産地であった瀬戸内に位置する場所を選んだといわれる。

 太平洋戦争中に閉鎖を余儀なくされ、広島県合同缶詰に整理統合されるが戦後の1948年地元資本を導入して「青旗缶詰」として再スタート。
 この時、廿日出は中島に会社の返却を申し出たが、中島は廿日出に社を任せた。
 社名は中島が英国滞在中に、ケンブリッジ大学とオックスフォード大学の伝統のボートレースのフェアプレーに感動して、両校の「青い旗」に強い印象を受けたものといわれる。
 以降、廿日出は缶詰・ジャム類の製造に従事し、1980年代にジャム類缶、びん詰生産日本一になるなど、キユーピー・アヲハタグループの中核企業として成長させた。
 1972年、農産缶詰の品質、およびジャム類の品質向上の貢献により食品産業功労賞(技術部門)受賞。
 二男で二代目社長・廿日出多真夫も1999年に低糖度ジャムの商品化により同賞を受賞している。

 関連項目 ー レオン・イェッセル ー

 レオン・イェッセル
 (ドイツ語: Leon Jessel,)
 (1871年1月22日〜1942年1月4日)

 ドイツの作曲家である。
 とりわけオペレッタの作曲家として著名だが、日本では日本テレビ系列で放映される「キユーピー3分クッキング」のテーマ曲として有名な『おもちゃの兵隊の観兵式』(『おもちゃの兵隊の行進』、
 (ドイツ語: Parade der Zinnsoldaten)作品123の作曲家として知られる。

 《生涯》

 商人の息子としてシュテティーン(現在ポーランド領)に生まれる。
 1891年からゲルゼンキルヒェンやミュールハイム・アン・デア・ルールを振り出しに楽長としての活動に入り、その後フライベルクやキール、シュテティーン、ケムニッツを転々とする。
 1896年にクララ・ルイーゼ・グリューネヴァルトと結婚。
 1899年から1905年までリューベックのヴィルヘルム劇場の楽長を務めた後、リューベック通商連合声楽協会の総裁におさまる。
 1909年に娘エヴァ・マリアが誕生し、1911年よりベルリンに転居するも、1919年に離婚して1921年にアンナ夫人と再婚した。
 ベルリン時代の1911年からオペレッタ作曲家として精力的な活動に転向。イェッセルのオペレッタやジングシュピールは、ベルリンで初演された後、ミュンヘンやハンブルク、ケーニヒスベルクでも上演された。
 わけてもアウグスト・ナイトハルトの台本によるオペレッタ『シュヴァルツヴァルトの娘』
(ドイツ語: Das Schwarzwaldmädel)は最大の成功作で、1917年にベルリンのコーミッシェ・オーパーで初演された後、10年の間におよそ6000回もの公演を重ねたと見積もられており、海外では、たとえば1922年にブエノスアイレスのコリセオ劇場の舞台にもかけられた。
 1973年の映画化では、名ワーグナー歌手のヴォルフガング・ヴィントガッセンや、カラヤンとの共演で知られるジャネット・ペリーらが主演している。
 『シュヴァルツヴァルトの娘』に次ぐ成功作は、1921年に初演されたオペレッタ『女郵便局長』(ドイツ語: Die Postmeisterin)である。

 自らの愛国的な見解から、ナチスをさしあたって好意的に見ていたイェッセルは、ナチスの権力掌握の後で、アルフレート・ローゼンベルクのドイツ文化闘争同盟(ドイツ語: Kampfbund für deutsche Kultur (KfdK))に登録を求める。
 だがユダヤ系であることを根拠に入会を拒絶されたうえ、その後まもなく上演禁止の憂き目に遭う(イェッセル家は改宗ユダヤ人の家系であり、1894年にユダヤ教を棄教しキリスト教徒になっていた)。
 1941年12月15日にイェッセルは、ベルリン・ミッテ地区のゲシュタポ司令部に召喚されて、逮捕された。
 逮捕の理由は、1939年に家宅捜査の際に発見された、脚本家ヴィルヘルム・シュテルク宛てにウィーンに送られたイェッセルの私信から窺われる。
 「私はひとときたりとも働くことが出来ません。ユダヤ人嫌いの煽動家によって人間関係を壊されてしまったからです。
 おぞましい運命がいつどこで私の扉を叩くやら見当もつきません」。
 アレクサンダー広場の警察本部の地下牢に投獄されたイェッセルは、虐待を受けたために重体に陥り、1942年1月4日にベルリン・ユダヤ人病院で死去した。

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 食育コンテンツ「食生活アカデミー」に教員向けページを新設

 キユーピーは、同社公式サイト内の食育コンテンツ「食生活アカデミー」に、教員向けページ「教育関係者・保護者のみなさまへ」を新設したことを、3月22日に発表した。
 今回の「教育関係者・保護者のみなさまへ」の新設は、2022年に同社が開催した教員向け研修において、企業に求める食育活動を尋ねたところ、「Webコンテンツの充実」「出前授業の実施」「動画の制作」といった回答が寄せられたことを受けて、もっと食について考える機会の創出が必要であるとの考えから行われた。同ページでは「食生活アカデミー」を授業や自主学習で活用する方法についてまとめられている。

 「食生活アカデミー」は、小学校高学年から中学生を対象に、食の知識や体験を通して生活を豊かにして新たな関心や興味につなげ、将来に役立ててほしいという思いが込められた食育のためのコンテンツ。
 学習指導要領や小学校家庭科、中学校技術・家庭(家庭分野)の教科書に基づきつつ、キユーピー独自の知見を交えて制作された。

 子どもたちが食の大切さを理解し、生涯にわたって心身ともに健康な食生活を送るための情報を、「つくる・食べる」「からだと栄養素」「食生活のぎもん」「食べものとSDGs」「自由研究」の5つのテーマに分けて掲載しており、授業での活用や長期休暇時の自主学習などに適している。

 ◆食生活アカデミーとは?

 「食生活アカデミー」は、 おいしいごはんのレシピ、 食材のえらび方、からだをつくる栄養素えいようそ、 お料理の楽しさ、環境かんきょうや未来につながる 食生活など、 食とそれにまつわる生活のことを 学べるサイトです。
 知ることで考えるきっかけになる、 体験することでだれかに話したくなる。
 そんな食生活の情報じょうほうを、 読み物やレシピ、クイズなどで、知り、 体験してください。

 〔情報元 : キユーピー公式サイト内食育コンテンツ〕https://edtechzine.jp/article/detail/9089

 関連項目 ー 食育 ー

 食育(しょくいく)

 様々な経験を通じて、食に関する知識と食を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てることである。
 2005年に成立した食育基本法においては、「生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきもの」と位置づけられている。
 単なる料理教育ではなく、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化についての総合的な教育のことである。
 この言葉を造語した石塚左玄は、食品の与える影響に関する独自の説によって、子どもに食べさせる食品の影響によって子どもの心身を養うという意味で用いた。

 《語源》

 「食育」という言葉は、石塚左玄(福井県)が1896年(明治29年)と1898年(明治31年)の著作(『化学的食養長寿論』、『通俗食物養生法』)で「体育智育才育は即ち食育なり」と造語し用いられている。
 1903年(明治36年)には報知新聞編集長・村井弦斎が、連載していた人気小説「食道楽」の中で「小児には徳育よりも、智育よりも、体育よりも、食育がさき。
 体育、徳育の根元も食育にある」と記述している。

 《経緯》

 小説家の村井弦斎が石塚の著書を読んで共感しており、1903年(明治36年)に著し、一大ブームを起こした『食道楽』秋の巻第252「食育論」で「食育」という言葉を使用した。
 村井弦斎の妻で料理研究家の村井多嘉子も著書『弦齋夫人の料理談』の中で食育の重要性を説いた。
 左玄の説を実践する団体として「帝國食育會」という団体があった。
 その後、政財界の援助により石塚の食物養生法を啓蒙する団体として「食養会」が結成された。食養会の関係者が「食育」を唱えていた。
 しかし、一般にはほとんど知られていなかった。
 戦後、食養会の会長にも就任したことのある桜沢如一の起したマクロビオティックや、玄米健康法の関係者、有機農業・自然食品業界に石塚説が伝承された。
 1970代に財団法人オルトビオス研究会(現日本ウエルネス協会)理事長であった蓬田康弘氏が食育を提唱し、77年にソニー創業者・井深大元会長が創立した財団法人幼児開発協会・機関誌『幼児開発』へ『食育のすすめ』を連載。
 83年、フジテレビの「テレビ寺子屋」でも食育について啓蒙した。
 2002年(平成14年)11月21日、自民党の政務調査会に「食育調査会」が設置された。
 その目的は、産地偽装など食の安全を揺るがす事件が多発したことから、食育で消費者の不安や不信感を取り除くことだった。
 だが一連の事件の多くは、消費者を蔑ろにした私利追求が原因だった。
 消費者の不安不信を取り除けば、事件の反省や再発防止策が不要になる上、一般人の知らない言葉をスローガンに掲げたことから、マスコミや研究者等が関心を抱き、語源を探した。
 この結果、歴史に埋もれていた石塚・村井が再び日の目を見る。
 翌15年に時の総理・小泉純一郎の施政方針演説に取り上げられて「食育」が一般化した。

 1988年(昭和63年)には、小泉純一郎が厚生省としては食が一番大事なのではないかと述べていた。
 1993年に厚生省監修で『食育時代の食を考える』という著書が出版されている。
 服部幸應は自分の書いた1998年出版の『食育のすすめ』を厚生大臣の頃の小泉純一郎が読んだからと説明している。
 またマクロビオティックの久司道夫は議員会館で講演を行っていた。
 多いときには議員が80人ぐらい集まるときもあった。

 《ファストフードへの批判》

 国会で、無国籍で脈絡のない料理では「ファストフード予備校」であり食育とはいえないのではという指摘がなされ、政府としても米食や日本型食生活を増やしたいとの意向が表明されている
 食育基本法の訂正に伴ってマクドナルドが食育に力を入れることを表明し、そして学校でハンバーガーの授業が行われるようになった。
 これに対して、「企業が社会貢献するのは結構だが、こうした食品では食育と矛盾するのではないのか」という批判も起こった。
 幕内秀夫は、食育基本法の制定に伴ってジャンクフードの販売業者が食育という言葉を利用して出張授業などを行うようになったことを自身のウェブサイト「フーズアンドヘルス研究所」で批判している。

 《関連法令》

 2005年(平成17年)6月10日、食育基本法が成立した。
 食育によって国民が生涯にわたって健全な心身を培い、豊かな人間性を育むことを目的としている。
 食育基本法は、総理大臣と12省庁の大臣と国家公安委員長までが参加した国家レベルで食事をどうにかしようと捉えた、世界的に例のない法律とされる。

 《関連政策》

 関連した政策としては、厚生省による21世紀における国民健康づくり運動において、病気を予防するために目標を設定して目標達成を目指す運動を行っているが、甘味料の特に砂糖が虫歯(う蝕)を発生させるとして、甘味料に関する正確な知識の普及と甘味食品・飲料の間食の摂取回数の減少を目標としている。
 また、10.7%いる児童・生徒の肥満児を7%以下にすることも目標とされている。

 《ビジネスとしての食育》

 関連法令の発令により、様々な企業や公共団体が食育をビジネスとして取り込んでいる。
 ビジネス方法としては、食育に関する商品の発売やセミナー、講演会の場を設けることにより収益を上げている。
 これら食育ビジネスに関し12省庁も非常に協力的であり、農林水産省は外食産業や中食産業、中小企業に対しての活動を推進するページをしている。
 また、厚生労働省は従業員や職員、住民に対して、生活習慣病の啓発、健康増進のための優れた取り組みをしている自治体、団体、企業の表彰を行う「健康寿命をのばそう!アワード」を開催した。
 健康ビジネスニュースを配信しているヘルスビズウォッチは、海外の食育ビジネスモデルに関して詳細に説明している。

 〔ウィキペディアより引用〕




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