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in the name of ending the war Chord : 05 東條英機 ②

2023-08-13 21:00:00 | 日記

 大日本帝国に殉じた男
       ー 東條英機② ー

 ▼大東亜戦争

 ▶開戦

 1941年(昭和16年)12月8日、日本はマレー作戦と真珠湾攻撃を敢行、大東亜戦争が始まった。
 両作戦が成功したのちも日本軍は連合国軍に対して勝利を重ね、海軍はアジア太平洋圏内のみならず、インド洋やアフリカ沿岸、アメリカ本土やオーストラリアまでその作戦区域を拡大した。
 開戦4日後の12月12日の閣議決定において、すでに戦闘中であった支那事変(日中戦争)も含めて、対連合国の戦争の呼称を「大東亜戦争」とするとされた。
 この時の東條はきわめて冷静で、天皇へ戦況報告を真っ先に指示し、また敵国となった駐日の英米大使館への処置に関して、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っている。
 しかし8日夜の総理官邸での食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である」、「予想以上だったね。
 いよいよルーズベルトも失脚だね」などと発言し、緒戦の勝利に興奮している面もないわけではなかった。
 同じ8日夜には、日本放送協会ラジオを通じて国民に向け、開戦の決意を「大詔を拝し奉りて」という演題で表明した。

 開戦時に内務大臣を兼任していた東條は、12月8日の開戦の翌日早朝を期して、被疑事件の検挙216(このうち令状執行154)、予防検束150、予防拘禁30(このうち令状執行13)の合計396人の身柄を一方的に拘束した。
 これは二・二六事件のときにも同様に満州国において関東軍憲兵隊司令官として皇道派の軍人の拘束や反関東軍の民間人の逮捕、監禁などの処置を行った経験に基づくものだと保阪正康は推察している。

 ▶海軍による真珠湾攻撃と東條首相

 連合国は「東京裁判(極東国際軍事裁判)でハワイへの攻撃は東條の指示」だったとし、その罪で処刑した(罪状:ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)が実際には、東條首相(当時)が、日本時間1941年(昭和16年)12月8日にマレー作戦に続いて行われた真珠湾攻撃の立案・実行を指示したわけではない。
 開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は持たなかった。
 東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、1944年2月に参謀総長を兼任して以降である。
 小室直樹は栗林忠道に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としているが、1941年(昭和16年)8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され、11月3日には海軍軍令部総長・永野修身と陸軍参謀総長・杉山元が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を上奏するため列立して読み上げた。
 ハワイ奇襲実施についてもこのときに遅くとも正式な作戦として陸軍側に伝わっており、東條自身、参謀本部作戦課に知らされている。
 また、11月30日には天皇よりハワイ作戦の損害予想について下問されており、「知らなかった」とするのは正確ではない。

 しかし、そもそも東條自身が東京裁判において、開戦1週間前の12月1日の御前会議によって知っていたと証言しているとおり、海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知った状況であるが、攻撃前に知っていながらそれを止めなかったことから是認したと捉えられている。

 ▶戦局の行き詰まり・東條首相罵倒事件・求心力の低下

 緒戦、日本軍は自らの予想を上回るスピードで勝ち進み、当面の目標である蘭印を含めた東南アジア一帯を1942年の3月にはほぼ手中におさめた。
 この時点において陸軍は、占領した東南アジアの防衛に専守したい方針だったが、海軍は、オーストラリアを孤立化させるためソロモン諸島をも占領し、米豪の連絡線を遮断するという進撃案を主張した。
 結果、FS作戦等が考案され、陸海共同でガダルカナル島を確保するべくこの付近に大兵力が投入されることとなったが、連合国側もここを反撃の足場とする作戦に出たため、この地域で激しい戦闘が行われることとなった。
 なかには、第一次ソロモン海戦や南太平洋海戦など日本側が勝利を得た海戦もあったが、日本側の損害は常に甚大で、とくに陸軍輸送船団は海軍の護衛が手薄なこともあって、ガダルカナル到着以前にその多くが撃沈され、輸送作戦のほとんどが失敗に終わった。
 このためガダルカナル方面の日本軍地上部隊は極度の食糧不足と弾薬不足に陥り、餓島とよばれるほどの悲惨な戦場となった。
 しかし参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込むことをやめようとはせず、民間輸送船を大幅に割くことを政府に要求したが、東條はこれを拒否した。
 元々東條はガダルカナル方面の作戦には補給の不安などから反対であったが、何よりそれをすれば、国内の軍事生産や国民生活が維持できなくなるためであった。

 東條の反対に怒った参謀本部作戦部長・田中新一は閣議待合室で12月5日、東條の見解を主張する陸軍軍務局長・佐藤賢了と討論の末とうとう殴り合いにまでなった。
 さらに田中は翌日、首相官邸に直談判に出向いたさいにも、東條ら政府側に向かって「馬鹿野郎」と暴言を吐いた。
 東條は冷静に「何をいいますか。統帥の根本は服従にある。
 しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねば」と穏やかに諭した。
 これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させたが、代わりにガダルカナル方面作戦の予算・増船を政府側に認めさせた。
 しかしガダルカナル作戦は新局面を開けず、1943年(昭和18年)2月にはガダルカナル島からの撤退が確定する。
 その後も、ニューギニア方面に陸軍の輸送船団が送られたが、戦線の伸び切りによる補給線の長さと、海上護衛の手薄さのために、多くが撃沈され、南方方面の日本軍は1943年の末には補給不足となっていた。
 対して、軍事生産の大拡充計画をスタートさせていたアメリカは、同年の中頃にはこの結果を出しはじめていた。
 1943年(昭和18年)と1944年(昭和19年)を通して日本が鉄鋼材生産628万トン、航空機生産44,873機、新規就役空母が正規空母5隻・軽空母(護衛空母)4隻だったのに対し、アメリカは鉄鋼生産1億6,800万トン、航空機生産182,216機、新規就役空母は正規空母14隻、軽空母65隻に達した。
 加えてレンドリースによって他の連合国にも大量の兵器・物資を供給していた。また航空戦力でも新型艦上戦闘機F6Fや、ヨーロッパ戦線で活躍していたP47、P51が登場。さらには大型四発爆撃機B29が登場するのも間近となっていた。
 また戦前に日本が軽視していた電子兵器レーダーや音響兵器のソナーの性能差はいよいよ顕著となり、その他、VT信管などの新技術の開発においても連合国のほうが格段に進められていた。
 開戦から2年間を経て1944年に入ると、日本軍と連合国軍の攻守は完全に逆転していた。

 そして、日本軍が各方面で次第に押され始めた1943年8月頃から、東條の戦争指導力を疑問視する見解が各方面に強くなり始め、後述の中野正剛らによる内閣倒閣運動なども起きたが、東條は憲兵隊の力でもってこれら反対運動を押さえつけた(中野正剛事件)。

 ▶大東亜会議主催

 日本軍の優勢が揺らぎ始める中、東條は戦争の大義名分を確保するため、外相・重光葵の提案を元に1943年(昭和18年)11月、大東亜会議を東京で開催し、同盟国のタイ王国や満洲国、中華民国(汪兆銘政府)に併せて、イギリスやアメリカ、オランダなどの白人国家の宗主国を放逐した日本の協力を受けて独立したアジア各国、そして日本の占領下で独立準備中の各国政府首脳を召集、連合国の「大西洋憲章」に対抗して「大東亜共同宣言」を採択し、欧米の植民地支配を打倒したアジアの有色人種による政治的連合を謳い上げた。
 旧オランダ領でまだ独立準備中にあったインドネシア代表の不参加などの不手際もあったが、外務省や陸海軍関係者のみならず、当時日本に在住していたインド独立運動活動家のA.M.ナイルなど国内外から幅広い協力を受けて会議は成功し、各国代表からは会議を緻密に主導した東條を評価する声が多く、今なおこのときの東條の功績を高く評価している国も存在する。
 『大東亜会議の真実』(PHP新書)の著者の深田祐介は係る肯定的な評価を挙げる一方、念には念を入れマイクロマネジメントを行う東條を「準備魔」と表現している。

 東條は会議開催に先立って、1943年(昭和18年)3月に満州国と中華民国汪兆銘政府、5月にフィリピン、6〜7月にかけてタイ、昭南島(シンガポール)、クチン(サラワク王国)、インドネシアなどの友好国や占領地を歴訪している。
 また会議の開催に先立つ1942年(昭和17年)9月に、東條は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。
 我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁しているが、この会議の成功を見た東條は戦後「東條英機宣誓供述書」の中で、「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。
 また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」と述べている。

 ▶三職の兼任

 大東亜会議が開催された1943年(昭和18年)11月にタラワ島が陥落、1944年(昭和19年)1月には重要拠点だったクェゼリンにアメリカ軍が上陸、まもなく陥落した。
 また1944年に入ると、戦力を数的・技術的にも格段に増強したアメリカ海軍機動艦隊やオーストラリア、ニュージーランド海軍艦艇が太平洋の各所に出現し日本側基地や輸送艦隊に激しい空爆を加えるようになった他、ビルマ戦線やインド洋においてもイギリス軍の活動が活発化してきた。
 戦局がますます不利になる中、統帥部は「戦時統帥権独立」を盾に、重要情報を政府になかなか報告せず、また民間生活を圧迫する軍事徴用船舶増強などの要求を一方的に出しては東條を悩ませた。
 1943年(昭和18年)8月11日付の東條自身のメモには、無理な要求と官僚主体の政治などからくるさまざまな弊害を「根深キモノアルト」と嘆き、「統帥ノ独立ニ立篭り、又之ニテ籍口シテ、陸軍大将タル職権ヲカカワラズ、之ニテ対シ積極的ナル行為ヲ取リ得ズ、国家ノ重大案件モ戦時即応ノ処断ヲ取リ得ザルコトハ、共に現下ノ最大難事ナリ」と統帥部への不満を述べるなど、統帥一元化は深刻な懸案になっていく。

 1944年(昭和19年)2月17日、18日にオーストラリア海軍の支援を受けたアメリカ機動艦隊が大挙してトラック島に来襲し、太平洋戦域最大の日本海軍基地を無力化してしまった(トラック島空襲)。
 これを知り、東條はついに陸軍参謀総長兼任を決意し、2月19日に、内大臣・木戸幸一に対し「陸海軍の統帥を一元化して強化するため、陸軍参謀総長を自分が、海軍軍令部総長を嶋田海相が兼任する」と言い天皇に上奏した。天皇からの「統帥権の確立に影響はないか」との問いに「政治と統帥は区別するので弊害はありません」と奉答。2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱えて杉山元に総長勇退を求め、自ら参謀総長に就任する。
 参謀総長を辞めることとなった杉山は、これに先立つ20日に麹町の官邸に第1部〜第3部の部長たちを集め、19日夜の三長官会議において「山田教育総監が、今東條に辞められては戦争遂行ができない、と言うので、我輩もやむなく同意した」と辞職の理由を明かした。
 海軍軍令部総長の永野修身も辞任要求に抵抗したが、海軍の長老格・伏見宮博恭王の意向もあって最後は折れ、海相・嶋田繁太郎が総長を兼任することになった(そのため東條も嶋田も軍服姿の時には、状況に応じて参謀飾緒を付けたり外したりしていた)。
 2月28日には裁判官たちに戦争遂行に障害を与えるなら非常手段を取る旨の演説をした東條演説事件が発生している。

 行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(および嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。
 統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。
 この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮雍仁親王は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している。
 東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。
 このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。
 前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携し始める。
 しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという。

 ▶退陣

 1944年(昭和19年)に入り、アメリカ軍が長距離重爆撃機であるボーイングB29の量産を開始したことが明らかになり、マリアナ諸島がアメリカ軍に陥落された場合、日本本土の多くが空襲を受ける可能性が出てきた。
 そこで東條は絶対国防圏を定め海軍の総力を結集することによってマリアナ諸島を死守することを発令し、サイパン島周辺の陸上守備部隊も増強した。東條はマリアナ方面の防備には相当の自信があることを公言していた。
 しかし圏外での決戦思想に拘る海軍と中国大陸での作戦に拘る陸軍の思惑が入り乱れる事態となったためにマリアナ周辺の戦力の増強は想定したほど進まなかった。後に海軍はマリアナ防衛のために持てる艦艇戦力の全力をつぎ込み、1944年(昭和19年)6月19日から6月20日のマリアナ沖海戦で米海軍と相対したが、こちらのアウトレンジ戦法は米軍の新兵器とその物量の前にはまったく通じず大敗を喫してしまった。
 連合艦隊は498機をこの海戦に投入したがうち378機を失い、大型空母3隻を撃沈され、マリアナにおける制空権と制海権を完全に失ってしまった。
 地上戦でも同年6月15日から7月9日のサイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕する結果となった(日本軍の実質的壊滅は7月6日であった)。
 サイパンでマリアナ方面の防衛作戦全体の指導を行っていたのは中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一であり、東條が直々に「何とかサイパンを死守して欲しい。サイパンが落ちると、私は総理をやめなければならなくなる」と激励しているが、この敗戦の責任を取って南雲は自決した。こうして絶対国防圏はあっさり突破され、統帥権を兼職する東條の面目は丸潰れになった(ただし、これらの作戦は海軍の連合艦隊司令部に指揮権があり、サイパンの陸軍部隊も含めて東條には一切の指揮権は無かった。
 サイパンに続いてグアム島、テニアン島も次々に陥落する。

 マリアナ沖海戦の大敗・連合艦隊の航空戦力の壊滅は、その後に訪れたサイパン島の陥落より遥かに衝撃的ニュースであった。
 連合艦隊に空母戦力がなくなった以上、サイパン島その他の奪回作戦は立てられなくなったからである。
 こうして、マリアナ沖海戦の大敗後、サイパン島陥落を待たずして、東條内閣倒閣運動は岡田・近衛ら重臣グループを中心に急速に激化する。
 6月27日、東條は岡田啓介を首相官邸に呼び、内閣批判を自重するように忠告する。
 岡田は激しく反論して両者は激論になり、東條は岡田に対し逮捕拘禁も辞さないとの態度を示したが、二・二六事件で死地を潜り抜けてきている岡田はびくともしなかった。
 東條を支えてきた勢力も混乱を見せ始め、6月30日の予備役海軍大将に対する戦局説明会議で、マリアナ海戦敗戦に動揺した嶋田繁太郎が、末次信正らの今後の戦局に関しての質問に答えられないという事態が出現、さらにそれまで必勝へ強気一点張りだった参謀本部も7月1日の作戦日誌に「今後帝国は作戦的に大勢挽回の目途なく、戦争終結を企画すとの結論に意見一致せり」という絶望的予想が書かれている(実松譲『米内光政』)。

 東條はこの窮地を内閣改造によって乗り切ろうと図り内閣改造条件を宮中に求めた。
 7月13日、東條の相談を受けた木戸幸一は、

 1.東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと。

 2.海軍大臣・嶋田繁太郎の更迭。

 3.重臣の入閣。

 を要求。
 実は木戸はこの時既に東條を見限っており、既に反東條派の重臣と密かに提携しており、この要求は木戸に東條が泣きつくだろうと予期していた岡田や近衛文麿たち反東條派の策略であった。
 木戸の要求を受け入れて東條は参謀総長を辞任し(後任は梅津美治郎)、国務大臣の数を減らし入閣枠をつくるため、無任所国務大臣の岸信介(戦後に首相歴任)に辞任を要求した。
 岸は長年の東條の盟友であったがマリアナ沖海戦の大敗によって今後の戦局の絶望を感じ、講和を提言したために東條と対立関係に陥り、東條としては岸へ辞任要求しやすかったためである。
 しかし重臣グループはこの東條の動きも事前に察知しており、岡田は岸に「東條内閣を倒すために絶対に辞任しないでくれ」と連絡、岸もこれに賛同し同意していた。
 岸は東條に対して閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する(旧憲法下では総理大臣は閣僚を更迭する権限を有しなかった)。
 東條は岸の辞任を強要するため、東京憲兵隊長・四方諒二を岸の下に派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ」と岸に辞任を迫ったが岸は「兵隊が何を言うか」「日本国で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ」と整然と言い返し、脅しに屈することはなかった。
 同時に重臣である米内光政の入閣交渉を佐藤賢了を通じて行うも、既に東條倒閣を狙っていた米内は拒否したため失敗、佐藤は米内の説き諭しに逆に感心させられてしまって帰ってくるという有様であった。

 とうとう追い詰められた東條に、木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に続投を直訴する。
 だが天皇は「そうか」と言うのみであった。頼みにしていた天皇の支持も失ったことを感じ万策尽きた東條は、7月18日に総辞職、予備役となった。
 東條は、この政変を「重臣の陰謀である」との声明を発表しようとしたが、閣僚全員一致の反対によって、差し止められた。
 後任には、朝鮮総督の陸軍軍人である小磯國昭首相が就任し、小磯内閣が成立した。
 東條の腹心の赤松貞雄らはクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけた。
 東條は次の内閣において、山下奉文を陸相に擬する動きがあったため、これに反発して、杉山元以外を不可と主張した。
 自ら陸相として残ろうと画策するも、参謀総長・梅津美治郎の反対でこれは実現せず、結局杉山を出すこととなったとされる。
 赤松は回想録で、「周囲が総辞職しなくて済むよう動きかけたとき、東條はやめると決心した以上はと総辞職阻止への動きを中止させ、予備役願を出すと即日官邸を引き払ってしまった」としている。

 広橋眞光による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と証言しており、東條の内閣存続への執念が潰えた無念さが窺われる。

 ▶東條英機暗殺計画

 戦局が困難を極める1944年(昭和19年)には、複数の東條英機暗殺が計画された。
 その中に、高松宮宣仁親王と細川護貞によって計画された東條の暗殺計画があった。
 9月には陸軍の津野田知重少佐と東亜連盟所属の柔道家の牛島辰熊が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。
 この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる木村政彦が鉄砲玉(実行犯)として使われることになっていた。
 軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。
 この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がおり、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。
 津野田は陸軍士官学校時代に同級生であった三笠宮崇仁親王に計画を打ち明けた。
 しかし、三笠宮はこの計画に困惑して母親の皇太后節子(貞明皇后)に相談した。それが陸軍省に伝わって憲兵隊が動くことになり、津野田も牛島も逮捕されるという結果となり計画は破綻した。
 予定されていた計画実行日は東條内閣が総辞職した日であった。
 ただし、三笠宮は戦後の保阪正康のインタビューに対し自分から情報が漏れたことは否定している。
 津野田は大本営への出勤途中に憲兵隊に逮捕されており、その際に憲兵から三笠宮のルートから漏れたと告げられたようであった。
 また、三笠宮によれば当時、結核で療養中だった秩父宮雍仁親王が何度も東條へ詰問状を送っている。
 東條は木で鼻をまた、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった。
 くくったような回答を返しており、サイパン陥落時に東條への不満が爆発し、結果として暗殺計画もいくつか考えられたのである。

   〔ウィキペディアより引用〕



 

in the name of ending the war Chord : 05 東條英機 ③

2023-08-13 21:00:00 | 日記

 大日本帝国に殉じた男
      ー 東條英機③ ー

 ▶重臣会議

 辞任後の東條は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。
 鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、重臣の多数が推薦する鈴木貫太郎首相案に不満で、畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。
 岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東條は黙ってしまった。しかし現実に、小磯内閣は陸海軍が統帥権を楯に従わず、苦境に陥っていた[注釈 9]。正しく「軍がソッポを向いた」のであり、東條の指摘は的確であった。
 唯一の同盟国のドイツも降伏が間近になり、日本も戦局が完全に連合国軍に対して劣勢となったこともあり、重臣の大半が和平工作に奔走していく中で、東條のみが徹底抗戦を主張し重臣の中で孤立していた。

 ▶終戦工作への態度

 1945年(昭和20年)2月26日には、天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまこと遺憾であります」と徹底抗戦を上奏、この上奏の中で、「アメリカはすでに厭戦気分が蔓延しており、本土空襲はいずれ弱まるでしょう」、「ソ連の参戦の可能性は高いとはいえないでしょう」と根拠に欠ける楽観的予想を述べたが、この予想は完全に外れることになった。
 終戦工作の進展に関してはその一切に批判的姿勢を崩さなかった。
 東條はかつて「勤皇には狭義と広義二種類がある。
 狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。
 広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。
 私は後者をとる」と部内訓示していた。
 また、広島・長崎への原爆投下後も、降伏は屈辱だと考え戦争継続にこだわっていたことが手記によりあきらかになっている。
 だが、御前会議の天皇の終戦の聖断が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がありたる以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。
 御前会議の結果を知った軍務課の中堅将校らが、東條にクーデター同意を期待して尋ねてくると、東條の答えは「絶対に陛下のご命令にそむいてはならぬ」であった。
 さらに東條は近衛師団司令部に赴き娘婿の古賀秀正少佐に「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだぞ」と念押ししている。
 だが、古賀は宮城事件に参加し、東條と別れてから10時間後に自決している。

 また陸軍の中には「東條は戦争継続を上奏して陛下から叱責された」という噂が流れた。

 しかし東條が戦時中、すべての和平工作を拒絶していたというわけではない。
 戦局が完全に日本に有利であった1942年(昭和17年)8月20日にアメリカでの抑留から戦時交換船で帰国した直後の来栖三郎に対して「今度はいかにしてこの戦争を早く終結し得るかを考えてくれ」と言ったと伝えられており、終戦について早い段階から視野に入れていなかったわけではないことが2000年代ごろに判明している。
 1945年8月13日の日記には「私はこんな弱気の国民と思わずに戦争指導にあたった不明を恥じる」と国民に責任転嫁する言葉を残している。

 ▶敗戦と自殺未遂

 1945年(昭和20年)8月15日に終戦の詔勅、9月2日には戦艦「ミズーリ」において対連合国降伏文書への調印が行われ、日本は連合国軍の占領下となる。
 東條は用賀の自宅に籠って、戦犯として逮捕は免れないと覚悟し、逮捕後の対応として二男以下は分家若しくは養女としたり、妻の実家に帰らせるなどして家族に迷惑が掛からないようにしている。     
 その頃、広橋には「大詔を拝した上は大御心にそって御奉公しなければならぬ」
 「戦争責任者としてなら自分は一心に引き受けて国家の為に最後のご奉公をしたい。
 …戦争責任者は『ルーズベルト』だ。
 戦争責任者と云うなら承知できない。
 尚、自分の一身の処置については敵の出様如何に応じて考慮する」と複雑な心中を吐露しており、果たして、1945年(昭和20年)9月11日、自らの逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こった。

 ▶GHQによる救命措置

 銃声が聞こえた直後、そのような事態を予測し救急車などと共に、世田谷区用賀にある東條の私邸を取り囲んでいたアメリカ軍を中心とした連合国軍のMPたちが一斉に踏み込み救急処置を行った。
 銃弾は心臓の近くを撃ち抜いていたが、急所は外れており、アメリカ人軍医のジョンソン大尉によって応急処置が施され、東條を侵略戦争の首謀者として処刑することを決めていたマッカーサーの指示の下、横浜市本牧に設置された野戦病院において、アメリカ軍による最善を尽くした手術と看護を施され、奇跡的に九死に一生を得る。
 新聞には他の政府高官の自決の記事の最後に、「東條大将順調な経過」「米司令官に陣太刀送る」など東條の病状が附記されるようになり、国民からはさらに不評を買う。
 入院中の東條に、ロバート・アイケルバーガー中将はじめ多くのアメリカ軍高官が丁重な見舞いに訪れたのに比べ、日本人は家族以外ほとんど訪問者はなく、東條は大きく落胆したという。

 ▶未遂に終わったことについて

 東條が強権を強いた大戦中のみならず、大戦終結後にも東條への怨嗟の声は渦巻いていたが、自決未遂以後、新聞社や文化人の東條批判は苛烈さを増す。
 戦犯容疑者の指定と逮捕が進むにつれ、陸軍関係者の自決は増加した。 拳銃を使用し短刀を用いなかった自殺については、当時の読売、毎日、朝日をはじめとする各新聞でも阿南惟幾ら他の陸軍高官の自決と比較され、批判の対象となった。
 東條が自決に失敗したのは、左利きであるにもかかわらず右手でピストルの引き金を引いたためという説と、次女・満喜枝の婿で近衛第一師団の古賀秀正少佐の遺品の銃を使用したため、使い慣れておらず手元が狂ってしまったという説がある。
 また「なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのか」として、自殺未遂を茶番とする見解があるが、このとき東條邸は外国人記者に取り囲まれており、悲惨な死顔をさらしたくなかったという説や「はっきり東條だと識別されることを望んでいたからだ」という説もある。

 ▶米軍MPによる銃撃説

 なお、東條は自殺未遂ではなくアメリカ軍のMPに撃たれたという説がある。
 当時の陸軍人事局長・額田坦は「十一日午後、何の予報もなくMP若干名が東條邸に来たので、応接間の窓から見た東條大将は衣服を更めるため奥の部屋へ行こうとした。
 すると、勘違いしたらしいMPは窓から跳び込み、いきなり拳銃を発射し、大将は倒れた。
 MPの指揮者は驚いて、急ぎジープで横浜の米軍病院に運んだ」との報告を翌日に人事局長室にて聞いたと証言しているが、言った人間の名前は忘れたとしている。
 歴史家ロバート・ビュートーも保阪正康も銃撃説を明確に否定している。
 自殺未遂事件の直前に書かれたとされて発表された遺書も保阪正康は取材の結果、偽書だと結論づけている。

 ▶戦陣訓

 下村定は自殺未遂前日の9月10日に東條を陸軍省に招き、「ぜひとも法廷に出て、国家のため、お上のため、堂々と所信を述べて戴きたい」と説得し、戦陣訓を引き合いに出してなおも自殺を主張する東條に「あれは戦時戦場のことではありませんか」と反論して、どうにか自殺を思いとどまらせその日は別れた。
 重光葵は「敵」である連合軍が逮捕に来たため、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に従えば東條には自決する以外に道はなかったのだと解した。
 笹川良一によると巣鴨プリズン内における重光葵と東條との会話の中で「自分の陸相時代に出した戦陣訓には、捕虜となるよりは、自殺すべしと云う事が書いてあるから、自分も当然自殺を図ったのである」と東條は語っていたという。

 ▶東京裁判

 出廷時には、他の被告が白シャツを着る中、佐藤賢了とともに軍服を着用(少なくとも1947年8月まで)し、メモを取り続けた。

 ▶東條の国家弁護

 「戦争は裕仁天皇の意思であったか?」の尋問に対し

 「ご意思に反したかも知れぬが、わが内閣及び軍統帥部の進言により、渋々同意なさったのが本当であろう。
 そのご意思は開戦の詔勅の『止ムヲ得サル事朕カ志シナラス』のお言葉で明白である。
 これは陛下の特別な思し召しで、我が内閣の責任に於いて入れた言葉である。陛下は最期の一瞬まで、和平を望んでおられた。
 この戦争の責任は、私一人にあるのであって、天皇陛下はじめ、他の者に一切の責任はない。
 今私が言うた責任と言うのは、国内に対する敗戦の責任を言うのであって、対外的に、なんら間違った事はしていない。
 戦争は相手がある事であり、相手国の行為も審理の対象としなければならない。
 この裁判は、勝った者の、負けた者への報復と言うほかはない」

 とアメリカの戦争犯罪を糾弾した。
 東條の主任弁護人は清瀬一郎が務め、アメリカ人弁護士ジョージ・ブルーウェットがこれを補佐した。
 被告も弁護人も個人弁護に徹しようという者、国家弁護を主張する者等様々であったが、東條の自己弁護の内容は、
 ①この戦争は欧米の経済的圧迫による自衛戦争である、
 ②天皇は輔弼者からの進言に拒否権を発動したことはなく、よって天皇に責任はない、
 ③大東亜政策は侵略でなくアジア植民地の欧米からの解放をめざしたもの、
 ④日本は国際法や条約に違反したことはないとの「国家弁護」をすることであり、彼は宣誓口述書で自身の負うべき責任は寧ろ自国に対する「敗戦の責任」だとしている。
 東條は、これらの自己の主張と対外交渉で実際に自身がとった言動の不一致を指摘されると、都度「外交は生きものである」「相手の出方によって変わる」と述べ、ときに此れについて長口舌を奮い、ウェッブ裁判長からそのような演説を聞きたいのではないことを注意されており、この「外交は生きもの」との東條の主張は、一部マスコミからは東條節と呼ばれた。
 一方で、東條の国家弁護は理路整然とし、アメリカ側の対日戦争準備を緻密な資料に基づいて指摘し、こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じた日本側が自衛を決意したと主張するなどして、キーナンはじめ検事たちをしばしばやり込めるほどであったと主張する者もいる。
 また「開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけである」と主張したという。

 判決文では、東條は厚かましくも(英文ではwith hardihood)全てを弁護しており、自衛戦争との主張は全く根拠が無いものとして、一蹴された。
 対して、日暮吉延は、他の被告の多くが自己弁護と責任のなすり合いを繰り広げる中で、東條が一切の自己弁護を捨てて国家弁護と天皇擁護に徹する姿は際立ち、自殺未遂で地に落ちた東條への評価は裁判での証言を機に劇的に持ち直したとする。
 一方で、被告らは早々に天皇には累を及ぼさないことで合意したとされ、また、後に東郷元外相が宣戦布告遅れに関し海軍に不都合なことを言わないよう嶋津らに脅されたことを暴露したとき、当時の報道には全共同被告に挑むといった表現も見られ、少なくともそれまでは自身に不都合が無い限り、彼らが極力協力し合っていた節もうかがえる。
 秦郁彦によると、東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、いわゆる『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであったという。

 ▶判決

 極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決は、1948年(昭和23年)11月4日に言い渡しが始まり、11月12日に終了した。
 7人が死刑(絞首刑)、16人が終身刑、2人が有期禁固刑となった。
 東條は平和に対する罪および通例の戦争法規違反(訴因54)で有罪となり、死刑(絞首刑)の判決を受けた。
 この判決について、東條をはじめ南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であった。
 これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの主張がある。
 しかし、例えば判決では東條が泰緬鉄道建設に「働かざる者、食うべからず」と指示して捕虜らを建設に駆り出し、彼らの状態に影響を与えたことが問題視されており、そもそも英米法系の国では、重い保護責任を有する者が故意・不注意で人を死に至らせた場合、日本のような保護責任者遺棄致死罪ではなく、謀殺と同視されて殺人罪となる。
 そのため、この当時の英国及び多くの大英帝国自治領では本来それだけで死刑判決の対象とされていた。
 なお、東條は、東京裁判の判決について、「この裁判は結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たるの性格は脱却せぬ」と遺書に書いている。

 ▶巣鴨での信仰

 死刑判決当時、巣鴨拘置所では教誨師として花山信勝が付いていた。
 戦犯容疑者として収容されてからは、浄土真宗の信仰の深い勝子夫人や花山信勝の影響で、浄土真宗に深く帰依した。花山によると、彼は法話を終えた後、数冊の宗教雑誌を被告達に手渡していたのだが、その際、東條から吉川英治の『親鸞』を差し入れて貰えるように頼まれた。後日、その本を差し入れたのだが、東條が読んでからさらに15人の間で回覧され、本の扉には『御用済最後ニ東條ニ御送付願ヒタシ』と書かれ、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅等15名全員の署名があり、現在でも記念の書として東條家に保管されているという。
 浄土真宗に深く学ぶようになってからは、驚くほど心境が変化し、「自分は神道は宗教とは思わない。私は今、正信偈と一緒に浄土三部経を読んでいますが、今の政治家の如きはこれを読んで、政治の更正を計らねばならぬ。
 人生の根本問題が書いてあるのですからね」と、政治家は仏教を学ぶべきだとまで主張したという。
 また、戦争により多くの人を犠牲にした自己をふりかえっては、「有難いですなあ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。私の如きは、最も極重悪人ですよ」と深く懺悔している。

 さらには、自分を戦犯とし、死刑にした連合国の中心的存在の米国に対してまで、「いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった」と、相手の仏縁を念じ、絞首台に勇んで立っていったといわれる。

 処刑の前に詠んだ歌にその信仰告白をしている。

 「さらばなり 有為の奥山 けふ越えて 彌陀のみもとに 行くぞうれしき」
 「明日よりは たれにはばかる ところなく 彌陀のみもとで のびのびと寝む」
「日も月も 蛍の光 さながらに 行く手に彌陀の 光かがやく」

 ▶死刑執行

 1948年(昭和23年)12月23日午前0時1分、巣鴨拘置所内で、死刑が執行された。
 64歳没。

 辞世の句は4首であり、

 「我ゆくも またこの土地にかへり来ん 国に報ゆる ことの足らねば」

 「さらばなり 苔の下にて われ待たん 大和島根に 花薫るとき」

 「散る花も 落つる木の実も 心なき さそうはただに 嵐のみかは」

 「今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」

 と記した。

 ▼死後

 ▶遺骨と墓

 絞首刑後、東條らの遺体は遺族に返還されることなく、後に公表された米国公文書によれば、いったん川崎市の米軍基地に車を入れた後、午前7時半、横浜市西区久保町の久保山火葬場に到着し、火葬された遺骨は粉砕され、骨の小さなカケラも残さないようにかき集め、横浜に臨時に設けられていた飛行場から飛び立った飛行機によって遺灰と共に太平洋沖合50kmあたりで広くまき散らすように投棄されたという。
 一方で、小磯國昭の弁護士を務めた三文字正平は東條らの遺骨について一般の戦犯と同じ(遺骨は遺族に渡さないという意味になる)と聞き、遺骨の奪還を計画していた。
 三文字は久保山火葬場で火葬されるとの情報を掴み、たまたま知り合いであった、その近隣にある興禅寺住職の市川伊雄と奪還を共謀した。
 同年12月26日の深夜、三文字らは火葬場職員の手引きで火葬場に忍び込み残灰置場に捨てられた、7人の分という残りの遺灰と遺骨を回収したという。
 回収された遺骨は全部で骨壷一つ分程で、熱海市伊豆山の興亜観音に運ばれ隠された。
 先の米国公文書との食い違いについては、遺灰についてはある程度残っていた、監視と廃棄にあたった米国将兵らが慌てていて火葬時に別に放り出していた遺骨をそのままにしてしまった、三文字らが火葬場長を事前に泣きながら説得していたため場長らが(他に火葬はなかったと言っていたが)実は他の無縁者の遺灰をやむをえずわたしたのではないかと諸説ある。
 1958年(昭和33年)には墳墓の新造計画が持ち上がり、1960年(昭和35年)8月には、愛知県旧幡豆郡幡豆町(現西尾市)の三ヶ根山の山頂に改葬された。
 同地には現在、殉国七士廟が造営され、遺骨が祀られている。

 墓は雑司ヶ谷霊園にある。

 ▶合祀

 東條英機は自らが陸軍大臣だった時代、陸軍に対して靖国神社合祀のための上申を、「戦死者または戦傷死者など戦役勤務に直接起因して死亡した者に限る」という通達を出していたが、彼自身のかつての通達とは関係なく刑死するなどした東京裁判の戦犯14名の合祀は、1966年(昭和41年)、旧厚生省(現厚生労働省)が「祭神名票」を靖国神社側に送り、1970年(昭和45年)の靖国神社崇敬者総代会で決定され、靖国神社は1978年(昭和53年)にこれらを合祀した。

   〔ウィキペディアより引用〕


in the name of ending the war Chord : 04 玉音放送

2023-08-12 21:00:00 | 日記

 玉音放送

 玉音放送(ぎょくおんほうそう)
 (旧字体: 玉音󠄁放送󠄁)

 天皇の肉声を放送すること。
 「玉音放送」と言えば、通常1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、当時日本唯一の放送局だった社団法人日本放送協会(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された「大東亜戦争終結ノ詔書(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)」の音読レコード(玉音盤)のラジオ放送を指すことが多く、この放送は、第二次世界大戦における枢軸国側の日本のポツダム宣言受諾による終戦(日本の降伏)を日本国民に伝える目的で、日本ではこの玉音放送の行われた8月15日を終戦の日(終戦記念日)と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式を日本武道館で行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。
 なお、正式に日本が降伏したのは、それから半月後の対連合国への降伏文書が調印された同年9月2日のことであり、それまでは国際法上交戦状態だった。

 《概要》

 ソビエト連邦からの宣戦布告を受けて「最早我が国に勝ち目はない」と判断した内閣総理大臣(海軍大将)鈴木貫太郎は、1945年(昭和20年)8月14日、の御前会議においてが昭和天皇の裁可を仰ぎ、7月26日に連合国から示されたポツダム宣言の受諾を最終決定し、昭和天皇の裁可(いわゆる聖断)を得た。
 なお、昭和天皇実録に記載されている一連の和平実現を巡る経緯に対し、歴史学者の伊藤之雄は「ソ連参戦がポツダム宣言受諾を最終的に決意する原因だったことが改めて読み取れる」と述べている。
 ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(第13条)などを定めていたため、その受諾は大東亜戦争において、大日本帝国の軍隊が降伏することを意味した(「大日本帝国の政府」ではない)。
 御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議(鈴木貫太郎内閣)にかけられ、若干の修正を加えて文言を確定した。
 詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)として発布された。
 この詔書は、天皇大権に基づいてポツダム宣言の受諾に関する勅旨を臣民(国民)に宣布する文書である。
 ポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイスおよびスウェーデン駐在の日本公使館を通じてイギリス、アメリカ合衆国、中華民国、ソビエト連邦など連合国の政府側に伝達された。

 昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ、翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。
 この玉音放送は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。
 当時より、敗戦の象徴的事象として考えられてきた。
 鈴木貫太郎以下による御前会議のあとも陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わった(宮城事件、録音盤事件)。
 前日にはあらかじめ「15日正午より重大放送あり、全国民は皆謹んで聞くように」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われた。
 当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電されることになっていた。
 また、当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置がとられた。 連合国軍の攻撃は、アメリカ軍は数日前から兵庫県宝塚市などに8月15日の空襲予告を行っていたが、15日未明の土崎空襲を最後に爆撃を停止した。
 しかしイギリス軍では、15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に向かったグラマン TBF アヴェンジャーらが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡した。
 なお、同作戦でスーパーマリン シーファイアが零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、脱出したフレッド・ホックレー少尉が陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により処刑される事件も発生した(一宮町事件)。

 放送は正午に開始された。
 冒頭に日本放送協会の放送員(アナウンサー)和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求めた。
 続いて情報局総裁下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、国歌「君が代」の演奏が放送された。
 その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送された。
 再度君が代の演奏、続いて「終戦の詔書をうけての内閣告諭」などの補足的文書のアナウンスが行われた。
 放送はアセテート盤[注 2]のレコード、玉音盤(ぎょくおんばん)再生によるものであった。
 劣悪なラジオの放送品質のため音質が極めて悪かった上、天皇の朗読に独特の節回しがあり、また詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人々の証言が多い。
 玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気などで事情を把握した人が大半だった。
 玉音放送において「朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」(私は米国・英国・支那・蘇連の4か国に対し、(ポツダム)共同宣言を受け入れると帝国政府に通告させた)という部分が主題であるが、多くの日本国民においては、終戦と戦後をテーマにするNHKなどの特集番組の、“皇居前広場でひれ伏して天皇に詫びる人々”の映像とともに繰り返し流される「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分が戦時中の困苦と占領されることへの不安を喚起させ、特に印象づけられて有名である(この文章は「以て万世の為に太平を開かんと欲す。
 朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚(しんい、信頼)し常に爾臣民と共にあり」(これ―被占領の屈辱に耐えること―によって世界を平和にして欲しい。
 私はここに国体を護持することができ、忠実なお前たち臣民の赤誠(真心)を頼って常にお前たち臣民とともにある)と続く)。

 《終戦詔書》

 大東亜戦争終結ノ詔書』(だいとうあせんそうしゅうけつノしょうしょ)は「終戦詔書」(しゅうせんしょうしょ)とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付で詔として発布され、同日の官報号外にて告示された。
 大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、さらに14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が刪修して完成し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。
 第7案まで議論された。
 喫緊の間かつ、きわめて秘密裏に作業が行われたため、起草・正本の作成に十分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣の阿南惟幾が「戦局日ニ非(あらざる)ニシテ」の改訂を求め、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施された。
 このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は御璽押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべき慣例のところ4行書かれており、文末の御璽を十分な余白がない場所に無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な詔勅である。
 全815文字とされるが、異説もある(本文は802文字)。
 終戦詔書の原本は、内閣総務課の理事官であった佐野小門太が浄書したものである。
 当初、迫水久常は「分かりやすい口語体による放送にしよう」と考えていた。内閣嘱託の木原通雄とともに案を創作し始めたが、「一人称と二人称をどうするか」という基本的な点で行き詰まってしまった。
 つまり、それまで天皇が国民に直接語りかけることなどなかったため、天皇が自分自身のことを何と呼ぶのか、また、国民に対して「おまえたち」と言うのか「みなさん」と言うのか、適当な表現を考えつかず、結局実現はできずに、無難で済む文語体にすることとなった。

 《録音と放送》

 終戦詔書を天皇の肉声によって朗読し、これを放送することで国民に諭旨するという着想は内閣情報局次長の久富達夫が内閣情報局総裁の下村宏に提案したものというのが通説である。
 日本放送協会へは宮中での録音について8月14日13時に通達があり、この宮内省への出頭命令を受け、同日15時に録音班8名(日本放送協会の会長を含む協会幹部3人と録音担当者5人)が出かけた(録音担当者は国民服に軍帽という服装であった)。
 録音作業は内廷庁舎において行われ、録音機2組(予備含む計4台)など録音機材が拝謁間に、マイクロホンが隣室の政務室に用意された。
 録音の用意は8月14日16時には完了し、18時から録音の予定であった。
 しかし、前述の詔書の最終稿の修正もあって録音作業はずれ込み、『昭和天皇実録』によると、昭和天皇は警戒警報発令中の23時25分に部屋に入り、宮内大臣や侍従長らが見守る中で朗読は行われた。
 2回のテイクにより、玉音盤は合計2種(テイク1が計7枚、テイク2が計5枚)製作された。
 2度目のテイクを録ることとなったのは、試聴した天皇自身の発案(声が低かったため)といわれ、さらに接続詞が抜けていたことから、天皇から「3度目の録音を」との話もあったが、「下村がこれを辞退した」という(下村宏『終戦秘史』)。
 玉音放送は、日本電気音響(現・デノン コンシューマー マーケティング)製のDP-17-K可搬型円盤録音機によって、同じく日本電気音響製の、SP盤規格準拠のアセテート盤(セルロースコーティング録音盤)に録音された。
 この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間の玉音放送は複数枚(テイク2は2枚組および3枚組)にわたって録音された。

 作業は翌8月15日午前1時ごろまでかかって終了。情報局総裁下村宏および録音班は、坂下門を通って宮内省から退出する際に、玉音放送を阻止しようとする近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉らによって拘束・監禁された。
 録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀古賀秀正少佐の指示により、録音盤の捜索が行われた(宮城事件)。
 録音盤は、録音後に侍従の徳川義寛により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫に、他の書類に紛れ込ませる形で保管されていたため発見されなかった。
 事件鎮圧後、宮内省は1回目に録音した録音盤を「副盤(「副本」とも呼ばれる)」、2回目に録音した録音盤を「正盤(「正本」とも呼ばれる)」と定め、「正盤」は東京放送会館へ、「副盤」は第一生命館の予備のスタジオへと持ち込まれた。
 当日正午の時報のあと、重大放送の説明を行ったのは日本放送協会の放送員(アナウンサー)和田信賢である。
 国際放送(ラジオ・トウキョウ)では平川唯一が厳格な文語体による英語訳文書(Imperial Rescript on the Termination of the War)を朗読し、国外向けに放送した。
 この放送は米国側でも受信され、1945年8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載されることとなった。

 《玉音放送と前後のラジオ放送》

 正午以降の玉音盤を再生した玉音放送は約5分であったが、その前後の終戦関連ニュース放送などを含む放送は約37分半であった。
 また、放送を即時に広く伝達するため10 kWに規制されていた出力を60 kW[注 7]に増力し、昼間送電のない地域への特別送電を行い、さらに短波により東亜放送を通じて中国占領地、満洲、朝鮮、台湾、南方諸地域にも放送された。

 ▼予告放送

 玉音放送の予告は14日21時のニュースと15日7時21分のニュースの2回行われた。
 内容として「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後1時ごろに配達されるところもあること」などが報じられた。

 ▼15日正午の放送内容

 特記なき文は、和田信賢によるアナウンス。

 1.正午の時報

 2.「只今より重大なる放送があります。全国の聴取者の皆様、ご起立願います」

 3.「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給うことになりました。
 これより謹みて玉音をお送り申します」(情報局総裁・下村宏)

 4.国歌君が代奏楽

 5.大東亜戦争終結ノ詔書(昭和天皇の録音盤再生)

 6.国歌君が代奏楽

 7.「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村)

 8.玉音放送の解説(以下全文)・「謹んで詔書を奉読いたします」

 9.終戦詔書の奉読(玉音放送と同内容)

10.「謹んで詔書の奉読を終わります」 以降、終戦関連ニュース(項目名は同盟通信から配信されたニュース原稿のタイトル)

11.内閣告諭(14日付の内閣総理大臣・鈴木貫太郎の内閣告諭)

12.これ以上国民の戦火に斃れるを見るに忍びず=平和再建に聖断降る=(終戦決定の御前会議の模様を伝える内容)

13. 交換外交文書の要旨(君主統治者としての天皇大権を損しない前提でのポツダム宣言受諾とバーンズ回答の要旨、これを受けたポツダム宣言受諾の外交手続き)

14.一度はソ連を通じて戦争終結を考究=国体護持の一線を確保=(戦局の悪化とソ連経由の和平工作失敗と参戦、ポツダム宣言受諾に至った経緯)

15.万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん(昭和天皇による終戦決意)

16.ポツダム宣言(ポツダム宣言の要旨)

17.カイロ宣言(カイロ宣言の要旨)

18.共同宣言受諾=平和再建の大詔渙発=(終戦に臨んでの国民の心構え)

19.緊張の一週間(8月9日から14日までの重要会議の開催経過)

20.鈴木総理大臣放送の予告(14時からの「大詔を拝し奉りて」と題する放送予告。
 実際には内閣総辞職を決定する閣議が行われたため、19時のニュースに続いて放送された)
 
 8. の昭和天皇の録音盤再生後の解説文(日本放送協会 和田信賢放送員)

 畏くも天皇陛下におかせられましては、万世の為に太平を開かんと思し召され、きのう政府をして、米英支蘇四国に対して、ポツダム宣言を受諾する旨、通告せしめられました。
 畏くも天皇陛下におかせられましては、同時に詔書を渙発あらせられ、帝国が四ヶ国の共同宣言を受諾するのやむなきに至った所以を御宣示あらせられ、きょう正午、畏き大御心より詔書を御放送あらせられました。
 この未曾有の御事は拝察するだに畏き極みであり、一億等しく感泣いたしました。
 我々臣民は、ただただ詔書の御旨を必謹誓って国体の護持と民族の名誉保持のため、滅私の奉公を誓い奉る次第でございます。

   謹んで詔書を奉読いたします。
            (詔書奉読)

  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ▼15日の放送

 1945年(昭和20年)8月15日のラジオ放送は下記の6回であった。

 1.7時21分(9分間)

 2.正午(37分半、玉音放送を含む)

 3. 15時(40分間)

 4.17時(20分間)

 5.19時(40分間)

 6.21時(18分間)

 《全文》

 ▼原文

 朕󠄁深ク世界ノ大勢ト帝󠄁國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ吿ク 朕󠄁ハ帝󠄁國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受󠄁諾スル旨通󠄁吿セシメタリ 抑〻帝󠄁國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦󠄁共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺󠄁範ニシテ朕󠄁ノ拳󠄁拳󠄁措カサル所󠄁

 曩ニ米英二國ニ宣戰セル所󠄁以モ亦實ニ帝󠄁國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵󠄁スカ如キハ固ヨリ朕󠄁カ志ニアラス 然ルニ交󠄁戰已ニ四歲ヲ閱シ朕󠄁カ陸海將兵ノ勇󠄁戰朕󠄁カ百僚有司ノ勵精朕󠄁カ一億衆庻ノ奉公󠄁各〻最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス

 世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ殘虐󠄁ナル爆彈ヲ使󠄁用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害󠄂ノ及󠄁フ所󠄁眞ニ測ルヘカラサルニ至ル

 而モ尙交󠄁戰ヲ繼續セムカ終󠄁ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延󠄂テ人類ノ文󠄁明ヲモ破却スヘシ

 斯ノ如クムハ朕󠄁何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ 是レ朕󠄁カ帝󠄁國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所󠄁以ナリ

 朕󠄁ハ帝󠄁國ト共ニ終󠄁始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦󠄁ニ對シ遺󠄁憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス 帝󠄁國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及󠄁其ノ遺󠄁族ニ想ヲ致セハ五內爲ニ裂ク

 且戰傷ヲ負󠄁ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕󠄁ノ深ク軫念スル所󠄁ナリ 惟フニ今後帝󠄁國ノ受󠄁クヘキ苦難ハ固ヨリ尋󠄁常ニアラス 爾臣民ノ衷情󠄁モ朕󠄁善ク之ヲ知ル

 然レトモ朕󠄁ハ時運󠄁ノ趨ク所󠄁堪ヘ難キヲ堪ヘ忍󠄁ヒ難キヲ忍󠄁ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平󠄁ヲ開カムト欲ス

 朕󠄁ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ

 若シ夫レ情󠄁ノ激スル所󠄁濫ニ事端ヲ滋󠄁クシ或ハ同胞󠄁排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道󠄁ヲ誤󠄁リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕󠄁最モ之ヲ戒ム

 宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道󠄁遠󠄁キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建󠄁設ニ傾ケ道󠄁義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進󠄁運󠄁ニ後レサラムコトヲ期スヘシ

 爾臣民其レ克ク朕󠄁カ意󠄁ヲ體セヨ

 御名御璽 昭和二十年八月十四日
    內閣總理大臣男爵󠄂鈴木貫太郞

 ▼現代仮名遣い・常用漢字・ひらがな

 朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ
 朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
 さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
 然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
 世界の大勢また我に利あらず しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る

 しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず
 ひいて人類の文明をも破却すべし かくの如くは 朕何をもってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
 是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり 朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し
 遺憾の意を表せざるを得ず 帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉じ 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
 且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり 思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず 汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
 然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す

 朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し
 常に汝臣民と共に在り もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし
 或いは同胞排擠 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うが如きは 朕最も之を戒む
 宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
 汝臣民それ克く朕が意を体せよ
 御名御璽
 昭和二十年八月十四日
    内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎

 ▼現代語訳

 私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。
 私は、帝国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。
 そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、全ての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。
 先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、正に日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は、元より私の本意ではない。
 しかしながら、交戦状態も既に4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。

 それ所か、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。
 それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、更には人類の文明をも破滅させるに違いない。
 そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)に詫びることができようか。
 これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。

 私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。
 日本国民であって戦場で没し、職責の為に亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。
 更に、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。 考えて見れば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。
 あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。
 然し、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いを堪え、永遠に続く未来の為に平和な世を切り開こうと思う。

 私は、ここにこうして、この国の形を維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごす事ができる。
 感情の高ぶりから節度なく争い事を繰り返したり、或は仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、その為に人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒める所である。
 正に国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。

 あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動して欲しい。

 御名御璽
 昭和二十年八月十四日

    内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎

 〔ウィキペディアより引用〕



TV Games Retro Vol.09

2023-08-10 21:00:00 | 日記

 Game人生、Games Lifeをこれまで綴ってきましたが、今回で終止符を打つ事になりそうです。

 『ROOMMANIA#203』(ルーマニア にいまるさん)

 2000年1月27日にセガから発売されたドリームキャスト用ゲーム。PlayStation 2で、2002年にリメイク版
 『ROOMMANIA#203』を、2003年に続編『ニュールーマニア ポロリ青春』を発売する。
 プレイヤーは、アパートの一室に住み着く神様となって、アパートの住人ネジタイヘイを見守りつつ、平凡な彼の人生を波乱に富んだ物へと変化させる、人生介入型アドベンチャーゲーム。

 なお、タイトルは『Room+Mania』の造語とされ、舞台となるアパートも日本国内に所在し、ゲームと同名の東ヨーロッパに存在する国家「ルーマニア(Romania)」とは無関係である。

 《ゲームシステム》

 プレイヤーはカレンダーを進めながら主人公ネジの部屋を定点カメラの覗きモードとネジのいない間にいたずらするガサ入れモードを使って彼の人生に介入していく。
 一定の条件を満たすと「ナビ」が発動しシナリオが変化していく。
 操作は3Dで表現されるものの、カメラやカーソルを移動して、クリックする事が基本になる。

 ▼覗きモード

 ネジの部屋を覗きながら、ちょっかいを出すモード。
 画面上にはネジの姿勢と気分を表示する「チビネジ」、のぞき見できる制限時間、そして「ネジ脳」と呼ばれる行動の優先度が表示されている。
 プレイヤーはカメラを切り替えながらカーソルをクリックすることでボールを投げることができ、ボールが当たった場所にネジの意識が向くようになる。
 ボールを投げ続け行動順位を繰り上げることで彼の日常が微妙に変化、そして「ナビ」を達成することでシナリオが進んでいく。

 ▼ガサ入れモード

 ネジが外出している間に覗くと制限時間だけ表示され、主観視点を自由に動かし部屋の中を観察することができる。
 この時クリックした物を指定回数だけ動かしたり、変化させることで「いたずら」することができる。
 いたずら内容がナビの達成条件になっていることもあるため慎重に選択する必要がある。
 この時ネジの書いた日記の内容を確認したりミニゲームが発生することもある。

 《登場人物・用語》

★ネジ タイヘイ
 声・モーションアクター:清水聖
 とあるアパートの203号室に住む、ごくごく平凡な大学生。
 部屋に住み着く神様(プレイヤー)の気まぐれによって、平凡な人生から一転、波乱に満ちた人生を歩む(歩まされる)。
 ちなみに、何も起こさずに過ごすとゴミ屋敷となった部屋の中で孤独死する事になる。

 ★タカハシ ヒデヒロ
  ネジの親友。

 ★チビネジ
  セラニポージ
 ネジが大ファンであり、ゲーム中に何度もCDを聞くシーンがあるミュージシャン。
 ゲーム内のみの架空のアーティストであったが、実際に同名義でCDが発売された。
 当初その正体はシークレットだったが、後に作詞・作曲はゲーム製作元WAVEMASTERの佐々木朋子、ボーカリストは東野佑美(1stアルバム「まなもぉん」のみCECILのゆきち)であることが明らかになった。

 《シナリオ》

 計4つのシナリオがある。
 れぞれはじめの『ナビ』により物語が異なる。

 ★シナリオ1
 『ワンダーウォール』 ナビ16(空耳では、ありません。)から開始。
 真夜中に子供のすすり泣く声が聞こえてくる。

 ★シナリオ2
 『過去から来たメール』 ナビ14(はじまりは、その一通から。)から開始。
 チャットメンバーのエレナから謎のメールが届く。

 ★シナリオ3
 『サークルゲーム』 ナビ15(20歳にして、立つ。)から開始。
 大学の演劇サークルに入り、一人の女性と恋仲に。

 ★シナリオ4
 『鏡の中にあるが如く』 ナビ28(掘り出し物、掘り出し放題。)から開始。
 フリーマーケットで買ってきた鏡には不思議な世界が。

 ラストゲームは、

 『Dの食卓2』(ディーのしょくたく ツー、D2)
 株式会社ワープが開発し、1999年12月23日に発売されたドリームキャスト用ゲームソフト。


 《概要》

 本作は『Dの食卓』の続編として発表されたが、内容はまったく別物と言っても良いほど変わっている。
 タイトルロゴやパッケージ、宣伝活動に使われた広告でも正式名称の「Dの食卓2」よりも「D2」と呼ぶ場合が多い。
 制作発表として1998年5月23日に東京国際フォーラム(5000人×2回)と全国4ヵ所の会場(大阪日本橋など)に中継を行っている。
 これに先立ち、セガに対して制作発表のため次世代機の公開を要望し、1998年5月21日、22日の新聞発表にてドリームキャストの開発と発売時期を公開した。

 《ゲーム内容》

 プレイヤーは「ローラ・パートン」となり、真冬のカナダを散策し、雪原からの脱出を試みる。
 建物の中を『Dの食卓』のように決められたポイントを歩いて探索する「アドベンチャーパート」と、外に出ている間は歩いていると怪物とエンカウントし、手持ちの銃器で応戦して戦う「ガンシューティングパート」に分かれている。
 このガンシューティングパートで勝利し経験値を得るとレベルが上がる。
 体力の回復は要所にあるベッドで眠るか、回復スプレーを使ったり、普通の動物をハントして得た肉を食べる事で回復する。
 体力バーは炎の揺らめきで表現されており、ダメージを受けるごとに次第に弱まって、消えると死んでしまう。
 ゲーム途中で現れる怪物はすべて人間がモンスターに変化したもので、モンスター化することを「咲く」と表現する。
 道中では「咲いていない人間」とも出会う事があり、また「咲いていない」と思っていた人間も突然「咲き始めて」プレイヤーに襲い掛かってくる。

 《ストーリー概要》

 2000年12月25日、カナダ上空を航行している飛行機の中で、ノートパソコンで文書を書いていた女性、ローラ・パートンが思わず居眠りをしてしまっていた。
 キーの押しっぱなしで画面に大量に表示される「d」の文字。周りの席にはぐっすりと眠りこける男性、物思いにふける黒人女性や熊のぬいぐるみを持った女の子、そして黒装束に身を包み、怪しげな呪文を唱えている老人。
 眼が覚めた拍子に母親の形見のコンパクトを落としてしまったローラだが、隣の席に座っていた白人男性がそれを拾い上げてくれる。
 男性がローラにコンパクトを渡そうとした瞬間、ハイジャックが発生。
 混乱に陥る機内の中、先ほどの男性が隠し持っていたピストルを取り出し、テロリストに応戦しようと試みる。
 その時、コンパクトが突然光り始め、何かを察知した男性がローラをかばうように飛びつくと同時に、隕石が飛行機に命中、雪原の中へと墜落してしまう。

 《登場人物》

 ★ローラ・パートン
  声 - 駒塚由衣
 前作「Dの食卓」のローラ・ハリス、「エネミー・ゼロ」のローラ・ルイスと同名の主人公。
 墜落事故の生存者で、記憶を失っている。

 ★キンバリー・フォックス
  声 - 幸田直子
 墜落事故の生存者。詩人。
 ローラを介抱し、常に行動を共にする。

 ★デイビット・ブレナー
  声 - 大塚明夫
 墜落事故の生存者。FBI捜査官。

 ★パーカー・ジャクソン
  声 - 山野井仁 墜落事故の生存者。
 CETI(地球外知的生命体生物調査機関)のメンバー。

 ★ジェニー
  声 - 小桜エツ子
 墜落事故の生存者。少女。

 ★ジョン
  声 - 大塚芳忠
 謎の薬を服用している科学者風の男。

 ★ケニー
  声 - 山野史人
 デイビットの父。

 ★リンダ
  声 - 麻生美代子
 ケニーの妻。

 ★ラリー・デヴェルー
  声 - 荒川太郎
 テロリスト。
 劇中で一番最初に咲き、ローラとキンバリーを襲う。

 ★クリフ
  声 - 中井和哉
 テロリスト。
 墜落事故後も生存していたが、何者かに殺害される。

 ★ノレックス・ゲオルギータ
  声 - ケン・サンダース
 黒魔術師。

 ★ジェニーの祖父
  声 - 永井一郎
 ローラと出会った際には既に咲いており、車で彼女を襲撃する。

 ★スチュワーデス
  声 - 一木美名子
 ローラと出会った際には既に咲いており、飛行機内で彼女を襲撃する。

 ★ルーシー・パートン
  声 - 榊原良子
 ローラの母。

 ★グレートマザー
  声 - 北浜晴子

 ★マーサ
 
 ★トム
  声 - 野島健児

 ★司祭
  声 - 藤本譲

     〔ウィキペディアより引用〕




in the name of ending the war Chord : 03 宮城事件 

2023-08-08 21:00:00 | 日記

 宮城事件

 宮城事件(きゅうじょうじけん)

 1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。
 終戦反対事件(しゅうせんはんたいじけん)、あるいは八・一五事件(はちいちごじけん)とも呼ばれる。

 日本の降伏(ポツダム宣言受諾)を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳陸軍中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。
 しかし、陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕された。これにより、玉音放送と日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。

 《背景》

 ▼ポツダム宣言の受諾決定

 大東亜戦争(太平洋戦争)に於いて日本の敗色が濃くなっていた1945年(昭和20年)8月上旬、6日の広島市への原子爆弾投下、9日未明のソビエト連邦参戦、同日の長崎市への原子爆弾投下を受けて、政府内部では1945年7月26日にイギリスとアメリカ合衆国、中華民国の連合国3国の首脳により発されたポツダム宣言の受諾による降伏を支持する意見が強まっていた。
 9日に宮中において開かれた最高戦争指導会議では、鈴木貫太郎首相を始め、米内光政海軍大臣と東郷茂徳外務大臣が天皇の地位保証(国体護持)を条件として、阿南惟幾陸軍大臣と梅津美治郎参謀総長はさらに幾つかの条件を付けた上での降伏を主張した。
 午前10時から断続的に開催された会議が終了した後、鈴木首相は昭和天皇臨席の御前会議として再度、最高戦争指導会議を招集した。
 10日午前0時から宮城内御文庫[注釈 1]地下の防空壕において開かれたこの御前会議の席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は東郷外務大臣の意見に賛成し、これによりポツダム宣言の受諾が決定された。
 連合国軍への連絡は、午前6時45分から中立国であるスイスおよびスウェーデンの日本公使を通して行われている。

 スイスルートは、駐スイス加瀬俊一公使よりスイス外務次官へ手交、スウェーデンルートは駐スウェーデン岡本季正公使より、スウェーデン外務大臣へ手交された。
 この時に、東京とスイス・スウェーデンの間で交わされた一連の電報は、国立国会図書館の「ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係」において閲覧することができる。

 ▼陸軍内の動揺

 御前会議での決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。
 ポツダム宣言には「全日本軍の無条件降伏」という項目があり、陸海軍は組織存亡の危機にたっていた。
 午前9時に陸軍省で開かれた会議において、終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣総辞職すべきだとにおわせた幕僚に対し、阿南陸相は「不服な者はまずこの阿南を斬れ」と述べて沈静化を図った。
 8月12日午前0時過ぎ、サンフランシスコ放送は連合国の回答文を放送した。
 この中では日本政府による国体護持の要請に対して、「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従う (subject to) ものとする」と回答されていた。
 外務省はこの文章を「制限の下に置かれる」と訳し、あくまで終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では「隷属するものとする」であると解釈し、天皇の地位が保証されていないとして戦争続行を唱える声が大半を占めた。
 不満を持つ将校たちの指導者格であり阿南陸相の義弟でもあった竹下正彦中佐は阿南陸相に終戦阻止を求め、さらにそれが無理であれば切腹するよう迫っている。

 15時から開催された皇族会議の出席者たちはおおむね降伏に賛成したが、同時刻の閣議および翌13日午前9時からの最高戦争指導会議では議論が紛糾した。
 閣議において最後までポツダム宣言受諾に反対していたのは、陸軍代表の阿南陸相、松阪広政司法大臣、安倍源基内務大臣の3名であった。
 しかし、15時の閣議においてついに回答受諾が決定された。
 陸相官邸に戻った阿南陸相は6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)に面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られた。
 「兵力使用計画」と題されたこの案では、東部軍及び近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一内大臣府、東郷外相、米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続すると記されていた。
 面会を求めた6人はいずれも参謀や内政班長で、最前線の現状をよく知らなかった。
 阿南陸相は彼らに「梅津参謀総長と会った上で決心を伝える」と返答し、一同を解散させた。

 《8月12日》

 午前9時、近衛歩兵第二連隊第一大隊が完全武装で宮城(皇居)に入城する(その後宮城(皇居)から出ることなくクーデターに参加)。

 《8月14日》

 午前7時に陸軍省で阿南陸相と梅津参謀総長の会談が行われた。
 この席で梅津はクーデター計画に反対し、阿南も同調した。
 一方、鈴木首相は陸軍の妨害を排除するため、天皇出席の上での御前会議開催を思い付き、全閣僚および軍人・民間人の要人数名を加えた会議を招集した。
 正午ころ宮中の防空壕にて行われた会議において鈴木首相から再度聖断の要請を受けた昭和天皇は、連合国の回答受諾を是認し、必要であれば自身が国民へ語りかけてもよいと涙ながらに述べて会議は散会された。
 昭和天皇の聖断と涙に心打たれた阿南陸相は、ポツダム宣言受諾を容認しクーデター計画を止める方向へと舵を切ることになった。
 直後に阿南陸相が陸軍省で詰め寄る青年将校に聖断を伝えると、将校の一人だった畑中は周囲が怯えるほど号泣したとされる。
 閣議が始まった13時頃、社団法人日本放送協会の大橋八郎会長は内閣情報局に呼び出され、「終戦詔書が天皇陛下の直接放送となる可能性があるので至急準備を整えるように」と指示を受けている。
 同じ頃、竹下と畑中は古賀秀正少佐と、陸相と参謀総長に否定されたクーデター計画案に替わる代案「兵力使用第二案」を練っていた。

 15時過ぎ、阿南陸相は陸軍省で陸軍課員以上を第一会議室に集め陸軍の無条件降伏の受け入れを告げ、「諸官においては、過早の玉砕は任務を解決する道でないことをよく考え、泥を食み、野に伏しても、最後まで皇国護持のために奮闘してもらいたい」と訓示した。
 この場に畑中はおらず、この時東部軍管区司令部で司令官の田中静壱大将に面会を求めていた。
 彼は東部軍のクーデター参加を求める予定であったが、入室した途端に田中に怒鳴られ、萎縮し転がるように退室した。
 22時過ぎ、畑中は井田と面会し、井田の陸軍大学校時代の師である森赳師団長の説得を依頼。
 23時、閣議が終了し中立国のスイスを通じ連合国側へポツダム宣言受諾を通告。
 昭和天皇による玉音放送の録音は23時30分から宮内省政務室において行われ、録音盤(玉音盤)は徳川義寛侍従に渡されて、皇后宮職事務室内の軽金庫に保管された。

 《8月15日》

 ▼決起

 午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉により身柄を拘束された。
 彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛隊司令部の建物内に監禁された。
 井田と椎崎は、近衛第一師団司令部で第二総軍参謀白石通教中佐(森師団長の義弟)と会談中であった師団長森赳中将に面会を強要し、クーデターへの参加を求めた。
 井田の記録によると、森は否定的な態度を堅持していたが、「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と約束したとされる。
 井田はこの言葉を聞き一時部屋を退出したと述べている。
 午前1時30分、入れ替わりに師団長室に入った畑中は、しばらくすると部屋を出てきて、この日別件で近衛第一師団司令部を訪れていた航空士官学校の上原重太郎大尉とその同志である陸軍通信学校の窪田兼三少佐を引き連れ再度入室した。
 畑中は無言のまま森を拳銃で撃ち、さらに上原大尉が軍刀で斬殺した。
 同席していた白石も上原と窪田によって斬殺された。
 井田によると入室から10分ほどで突如師団長室が騒がしくなり、その後畑中が「時間がなくてやりました」と顔面蒼白で師団長室を出てきたという。
 森師団長と白石中佐の殺害の詳しい経緯については、窪田が東部憲兵隊で聴取を受けた際の聴取記録が残っており、概ね明らかである。

 ▼宮中占拠

 森の殺害後、畑中らは森の印鑑を盗み、畑中が起案したと考えられる「近作命甲第五八四号」に押印し師団参謀古賀秀正少佐が各隷下部隊に口頭下達、近衛歩兵第二連隊に展開を命じた(ただし、古賀がクーデター計画にどの程度積極的に関与したかについてははっきりとしていない)。
 この近作命甲第五八四号により、陸軍による皇居と放送局の占拠が実行された。
 偽の作戦命令を受け、近衛兵は皇居の門を封鎖。宮内省では電話回線が切断され、皇宮警察は武装解除された。
 玉音放送の実行を阻止する為に内幸町の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣され、放送会館職員は監禁された。
 放送会館職員への脅迫で玉音盤が宮内省内部に存在することを知った古賀少佐は、宮内省を占拠し第二大隊長北村信一大尉や佐藤好弘大尉らに捜索を命じている。
 宮内省内にいた石渡荘太郎宮内大臣および木戸幸一内府は金庫室などに隠れて難を逃れた。
 一方で「近作命甲第五八四号」では戦車中隊を代官町通へ進出させることとされた近衛騎兵連隊(牛込区戸山)は、命令に不審を抱いた連隊長伊藤力大佐が東部軍司令部と連絡を取った結果、出動を見合わせている。

 井田は水谷一生近衛第一師団参謀長に随行して東部軍管区司令部へと赴き、東部軍管区(第十二方面軍司令部を兼務)のクーデター参加を求めたが、田中軍司令官と高嶋参謀長は既に鎮圧を決定していた。
 これを受け井田は畑中に夜が明ける前に兵を引くよう説得するも、畑中は聞き入れず第一中隊の占領する放送会館へと向かった。
 高嶋参謀長は午前4時過ぎに芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡に成功し、森の殺害を知り畑中らの言動に疑問を感じていた連隊長に対し、師団命令が偽造であることを伝えた。
 芳賀はその場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し即刻宮城から退去するように命じた。
 宮内省内では御文庫へ反乱発生を伝えた後に帰還していた徳川義寛侍従が兵士と口論になり、第一大隊の若林彦一郎軍曹に殴打されている。
 殴打した理由について若林は後日、 「周囲の人間は殺意をもって徳川侍従を包囲しており、このままでは侍従が殺されてしまうと思った。
 それを防ぐためにとっさに本人を殴り、気絶させることで周囲を納得させた」 と親族に語っており、機転を利かせた行動であった。実は徳川が自身の軽金庫に玉音盤を入れて皇后宮職事務官室に保管しており、結果的に若林の咄嗟の行動により玉音盤は守られたのであった。

 午前4時30分ころ、畑中は放送会館のスタジオ内に居座り、決起の声明の放送を要求した。
 本来応対すべき放送協会の幹部はいずれも不在で、副部長級の職員や一般の技術職員が兵士からピストルを突きつけられながら対応にあたった。
 その際に職員たちは、空襲警報発令中の放送の権利は東部軍管区司令部内の放送室に移るため、警報が解除されるまで放送会館からは放送が出せない、という規則を盾に、「今空襲警報が出ており、東部軍から許可がなければ放送できない」の一点張りで突っぱね、さらに畑中本人が東部軍管区司令部へ電話して放送の許可を受けるよう懇願した(当時放送会館と司令部の間には直通電話が引かれていた)。
 畑中はそれに応じ、スタジオを出て電話室へ向かった。

 ▼鎮圧

 日が昇ってすぐの午前5時頃、東部軍司令官の田中が数名のみ引き連れ、自ら近衛第一師団司令部へと向かい、偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵第一連隊の渡辺多粮連隊長を止めた。
 連隊長のそばに居た近衛第一師団参謀石原貞吉少佐は東部憲兵隊により身柄を保護された(逮捕されたのではなく、石原は当日夕方には師団司令部に復帰している)。
 午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。
 その頃、陸相官邸では阿南陸相が自刃した(「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」との記録もあり)。
 竹下は陸相印を用いて大臣命令を偽造しようと井田に示唆したが、井田は既にクーデターの失敗を悟っていた。
 田中は乾門付近で芳賀に出会い兵士の撤収を命じると、そのまま御文庫さらに宮内省へ向かい反乱の鎮圧を伝えた。
 これを境にクーデターは急速に沈静化へと向かった。
 このとき既に畑中らは断念しており田中が鎮圧したという俗説は誤りとする説もある。

 放送会館では、東部軍へ電話で決起放送の許可を求めた畑中が拒絶を受けた(東部軍側から放送中止を求める電話連絡を受けたとする説もある)ことで放送を断念し、部隊を撤退させた。
 守衛隊司令部では拘束されていた下村情報局総裁らが解放された。
 午前8時前には近衛歩兵第二連隊の兵士が宮城から撤収し、宮内省内の地下室に隠れていた石渡宮相と木戸幸一内府はここを出て御文庫へと向かった。
 2枚の録音盤は1回目に録音された録音盤を「副盤」、2回目に録音された録音盤を「正盤」として皇后宮職事務室から運び出され、正盤は放送会館へ副盤は第一生命館に設けられていた予備スタジオへと無事に運搬された。
 運搬に際しても副盤をいかにも正式な勅使らしい偽物を仕立てつつ、正盤は粗末な袋に入れて木炭自動車で運搬するという念の入れようであった。
 最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎と畑中は宮城周辺でビラを撒き決起を呼び掛けた(佐藤大尉と藤原憲兵大尉が撒布したとの証言もある)が、午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自害した。放送用の檄文は二人の死に伴い散逸し失われた。
 また古賀は玉音放送の放送中、近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自害した。
 午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとしたが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。
 そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が無事行われた。
 上記のようにクーデター首謀者中の生存者である井田および稲葉等の証言では、自分達より階級の低い自決した畑中が森殺害以降のクーデターを主導したと示唆されている。

 《その他の動き》

 他にも、「皇軍の辞書に降伏の二字なし」として徹底抗戦を唱え、東京警備軍横浜警備隊長の佐々木武雄陸軍大尉をリーダーとして、尾崎嘉男、上田雅紹、村中諭、川島吾郎など勤労動員中の横浜高等工業学校(佐々木の母校)の生徒達によって編成された「国民神風隊」が、同15日の午前4時30分に首相官邸を襲撃したのを皮切りに、鈴木首相や平沼騏一郎枢密院議長、木戸幸一内府、東久邇宮稔彦王らの私邸にも火を放った。

 《戦後》

 事件鎮圧の功労者である田中司令官は、8月24日の夜に拳銃で心臓を撃ち抜き自殺した。
 田中は戦時中に宮中への空襲を許したことなどに責任を感じており、24日に発生した陸軍通信学校教官窪田兼三少佐や予科士官学校生徒による川口放送所占拠事件の解決を待っての行動であった。
 近衛第一師団参謀の石原貞吉少佐は、8月15日に発生した水戸教導航空通信師団事件の一部である上野公園占拠事件に際し、第十二方面軍参謀神野敏夫中佐からこれの説得役を依頼された。
 これは水戸から上京した部隊の指揮官岡島哲少佐が、石原の陸軍士官学校本科教練班長時代の教え子だった縁による。
 8月19日に東京美術学校に赴いた石原は、説得に納得しない林慶紀少尉によって拳銃で射殺された。
 石原の遺体は同夜近衛第一師団司令部配属憲兵の境芳郎憲兵曹長により収容された。戦後になり石原は勲四等に叙せられ、靖国神社にも合祀されている。 一方、森殺害のキーパーソンであり、また兵力使用計画に関与した井田は、15日に陸軍省で自殺する決心を固めていたが、これを予期した見張りの将校に止められ断念した。
 戦後は電通に入社し、総務部長と関連会社電通映画社の常務を務めた。
 戦後の1955年になり離婚して岩田に復姓している。同じく兵力使用計画に関与した稲葉正夫は防衛庁戦史編纂官を経て防衛研究所で研究員を務めた。
 事件に関係した将校たちは明らかに当時の軍法・刑法に違反する行為を行ったにもかかわらず、敗戦によって彼らを裁くべき軍組織が解散させられたため、軍事裁判にかけられることも刑事責任を問われることもなかった。

 関連項目 ー 森 赳 ー

 森 赳(もり たけし)
 (1894年(明治27年)4月25日〜1945年(昭和20年)8月15日)

 日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲一等功三級。


 《生涯》

 ▼経歴

 高知県高知市八軒町にて銀行員の森杪の長男として生れる。
 広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年5月、陸軍士官学校(28期)を卒業し、同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第13連隊付となる。
 陸軍騎兵学校で学び、陸士付、陸士教官などを経て、1927年12月、陸軍大学校(39期)を卒業。
 騎兵第13連隊中隊長、参謀本部付勤務(支那課)、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、関東軍参謀、騎兵学校教官、陸大教官などを経て、日中戦争に第1軍参謀として出征。
 陸大教官を経て第6軍参謀副長に就任し、1941年8月、陸軍少将に進級し、太平洋戦争を迎えた。
 第6軍参謀長、憲兵司令部本部長などを歴任し、第19軍参謀長となりアンボンに進出、ジャワ島の守備などを担当。
 1945年3月、陸軍中将となった。参謀本部付を経て近衛第1師団長に就任し、宮城警備に従事。

 ▼終戦

 1945年8月14日、ポツダム宣言受諾に際し、東部軍管区参謀不破博中佐の訪問を受け、「承詔必謹」の方針を確認する。
 その後、蓮沼蕃侍従武官長のもとを訪ね、師団長室に戻ってまもなく、東部軍管区司令部に参集を命ぜられ、田中静壱司令官から正式に終戦の大命を伝達される。
 8月15日未明、宮城事件が勃発する。
 このとき近衛師団司令部の師団長室において義弟の白石通教中佐と談話中であったが、井田正孝中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐、窪田兼三少佐らに面会を強要される。
 井田中佐に決起を迫られたが、クーデターへの参加を拒否したため、畑中少佐から発砲を受け、更に航空士官学校の上原重太郎大尉に軍刀で斬りつけられ殺害された。
 上原大尉は、上司である陸軍航空士官学校長徳川好敏陸軍中将の強唆もあり、その後自決した。
 なお、窪田兼三少佐は白石中佐の首を刎ねたものの、森中将には手をかけていないことが東部憲兵隊の公式記録や事件現場の状況、本人の証言等から判明。   
 上原重太郎大尉は森師団長の肩を斬ったことが同様に判明。墓所は静岡県駿東郡冨士霊園。

 関連項目 ー 愛宕山事件 ー

 愛宕山事件(あたごやまじけん)

 1945年8月15日東京都芝区(現在の港区)の愛宕山で右翼団体構成員が第二次世界大戦の日本の降伏終戦に反対して篭城した事件である。

 《概要》

 1945年(昭和20年)8月15日の昼に、日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏することが昭和天皇による玉音放送によって発表されると、降伏に反対する右翼団体「尊攘同志会」の首領・飯島与志雄ら12名が愛宕山に篭城した。
 飯島らは抗戦派軍人の決起を期待し、これに呼応するため日本刀や拳銃、手榴弾等で武装していた。
 これを知った警視庁では約70名の警官隊を動員し、愛宕山を包囲、投降を呼びかけた。
 飯島らは説得を拒否し立て篭り続けたため、22日午後6時頃、警官隊が発砲し突入、追いつめられた飯島らは手榴弾で自決を図り、10名が死亡、2名が捕えられた。

 関連項目 ー 川口放送所占拠事件 ー

 川口放送所占拠事件(かわぐちほうそうじょせんきょじけん)

 1945年(昭和20年)8月24日に埼玉県川口市所在の社団法人日本放送協会(現在のNHK)川口放送所及び鳩ヶ谷放送所が、第二次世界大戦の終戦に反対して徹底抗戦を主張する大日本帝国陸軍の兵士らにより占拠された事件のことである。

 《経緯》

 宮城事件で、クーデターに失敗した陸軍通信学校教官窪田兼三少佐は、日本の降伏に納得できず、政府が降伏を決定した8月15日以降も横須賀鎮守府などを訪問して、抗戦決起を呼びかけ同志を募っていた。
 8月21日には以前に勤務していた陸軍予科士官学校に向かったが、その途中、陸軍予科士官学校生徒隊寄居演習隊第23中隊第1区隊長・本田八朗中尉(当時20歳)に偶然出会った。
 本田中尉は振武台陸軍病院に入院中であったが、15日に玉音放送を聞いて急遽退院し、朝霞の予科士官学校から埼玉県大里郡寄居町に疎開している隊に戻るところであった。
 窪田少佐は本田中尉に宮城事件の詳細を語り、力になってくれるよう依頼して別れた。
 本田中尉は汽車で寄居の隊に戻ったが、隊内でも今後の軍の動きを巡って混乱しており、8月17日、本田中尉は再び上京し、近衛歩兵第二連隊長・芳賀大佐や竹下正彦中佐などに面会し陸軍内部の動向を探った。
 8月19日、本田中尉は寄居の隊に戻り、高島中隊長に状況を報告した。
 隊内の士官らの間では、終戦の詔勅に従うか、抗戦するかが激論されていたが、8月21日、高島中隊長は「承詔必謹」し降伏することを士官に指示した。  
 各士官はこれに従ったが、本田中尉は強く反対していた。

 このような状況の中、窪田少佐が寄居演習隊を訪れ、本田中尉に、ラジオ放送所を占拠して国民に徹底抗戦を呼びかける計画を打ち明けた。
 本田中尉はこれに賛同し、演習を名目に部隊を動かすため、8月24日に夜間演習を行う許可を高島中隊長から得た。
 8月23日朝、高島中隊長は隊員らを集め、詔勅に従って終戦を受け入れる事を訓示し、隊員は兵器を返納し復員の準備を始めたが、本田中尉は第1区隊生徒らに夜間演習の準備を指示していた。
 午後7時、本田中尉、伊吹曹長以下、第1区隊生徒(16~18歳)ら67名は装備を整え隊庭に集合した。
 しかし、演習名目であったため実弾は支給されず空砲のみの装備であった。
 午後8時、東武東上線寄居駅から、事前に依頼しておいた臨時列車に乗り込み、新倉駅(現・和光市駅)に移動、同駅で窪田少佐が合流した。

 関連項目 ー 厚木航空隊事件 ー

 厚木航空隊事件
(あつぎこうくうたいじけん)

 1945年8月15日に、厚木海軍飛行場で第三〇二海軍航空隊司令の小園安名大佐が起こした騒乱事件。
 第二次世界大戦(大東亜戦争)での日本の降伏を受け入れず、連合国軍と徹底抗戦する目的で起こされたが、6日後に鎮圧された。

 《経緯》

 1945年(昭和20年)8月15日に行われた玉音放送により日本は降伏し終戦し、小園は三〇二空司令官を解かれて横須賀鎮守府付になることが決定していた。
 しかし、国体不滅を信じていた小園はこのまま日本が降伏すればソ連により皇室は根絶やしにされ、日本は滅亡すると危惧していたうえ、月光の斜銃装備や特攻反対などの提案を却下し、敗北を重ねた末に降伏を決めた海軍上層部への反感を強めていた。
 そして連合艦隊司令部と全艦隊に「302空は降伏せず、以後指揮下より離脱する」と伝達。部隊に「日本は神国、降伏はない、国体に反するごとき命には絶対服さない」と訓示を行う。
 翌日から陸海軍、国民などに対して軍用機で各地に『皇軍厳トシテ此処ニアリ』『重臣ノ世迷言ニ惑ワサルルコトナク我等ト共ニ戦へ』などと書かれた檄文を撒き呼びかけて回った。
 しかし、第三四三海軍航空隊飛行長・志賀淑雄少佐や筑波海軍航空隊飛行長・進藤三郎少佐らが302空の使者を一喝して追い返すなど、各航空隊の支持を得ることはできなかった。
 また、302空によるフィリピンへ向かう軍使機の撃墜は失敗に終わった。

 海軍大臣米内光政大将、第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将、海軍大佐高松宮宣仁王が説得に当たるが小園は納得しなかった。
 これにより小園は16日16時を以て解職され、山本栄・第七一航空戦隊司令官が三〇二空司令を兼任した。
 しかし小園が16日以降持病のマラリアを悪化させて行動不能に陥り、8月21日に軍医により麻酔で眠らされて野比海軍病院(現・国立病院機構久里浜医療センター)へ運ばれて精神病棟で監視下に置かれる。
 それまでは毎日戦闘機などを飛ばしていた302空は、8月20日に海軍大佐高松宮宣仁王の説得を受けた副長の菅原英雄中佐によって武装解除され、小園が連行された21日に反対者も大半が鎮圧された。
 この際、若手を中心とした一部抗戦派は狭山飛行場(第三十九教育飛行隊)へ士官10名と下士官兵15名が、児玉飛行場(飛行第九十八戦隊)へ士官17名と下士官兵44名が向かった(他に零戦に搭乗した改田義徳中尉が途中で東京湾へ飛び込んで死亡している)。
 山本司令官により、21日を以て三〇二空は解散された。
 狭山飛行場へ向かった抗戦派は協力を得られずに22日に厚木へ帰投。
 児玉飛行場の抗戦派も、23日に厚木から派遣された恭順派によって全機のタイヤをパンクさせられて戦闘不能に陥った。
 飛行長・山田九七郎少佐は、この件の責任を痛感して24日に妻と共に服毒自決した。
 25日に抗戦派の岩戸良治中尉が出頭し、26日に抗戦派全員が東京警備隊に拘束され、事件は終結した。

 なお、小園がマラリアに罹患したという点について、小園の長男は「マラリアではなく、軍が寝室に秋水の燃料補助剤をまいて錯乱状態にした」と主張している。

 《事件後》

 1945年10月16日に横須賀鎮守府臨時軍法会議は、判士海軍少将小柳冨次(裁判長)・法務官海軍法務大佐由布喜久雄・判士海軍大佐小野良二郎の3名の裁判官で、党与抗命罪(海軍刑法56条)により小園に対し「被告人ヲ無期禁錮ニ処ス」という判決を下した。
 検察官は海軍法務少将小田垣常夫干与であった。
 また官籍剥奪も行われた。
 青年将校以下69名も四年から八年以下の禁錮刑に処せられた。
 軍法会議法における「戦時事変に際し海軍部隊に特設された臨時軍法会議」であるため、法令により弁護人はいなかった。
 小園らは横浜刑務所に収監された。
 1946年11月3日、日本国憲法の公布を機会として公布された大赦令第1条の赦免対象に海軍刑法の党与抗命罪も含められ、事件関係者は主犯である小園を除き赦免された。
 小園は無期禁錮から禁錮二十年に減刑される。
 1950年9月4日、特別上申により禁錮十年に減刑、同年12月5日熊本刑務所を仮釈放された。
 1952年、平和条約の発効に際し、政令百十七号の大赦令によって同年4月28日に赦免された。
 小園は事件についての手記『最後の対米抵抗者』を残し、1960年に死去した。 国会において阿具根登、大橋敏雄らは、「この判決で小園が海軍軍人としての一切の名誉を奪われて軍人恩給の支給対象から外れ、もともと恩給資格のない基地隊員60名も元受刑者として何らかの身分制限がつきまとったことは、ビラをまいただけであるのに対し理不尽、不公平」と主張した。

 終戦前後に抗命罪に値するものは厚木航空隊だけではなかった。
 宮城事件で玉音放送用の録音盤の奪取ならびに放送の阻止を図った陸軍将校は、武力による実害が発生したにもかかわらず、自決した者以外は裁判もなされずに釈放されている。
 また厚木と全く同様の抗戦を企てた者として、陸軍飛行九十八戦隊(児玉飛行場)の宇木素道少佐、あるいは陸軍狭山基地の山田少佐、台湾の海軍一三二航空隊がいた。
 1974年に行われた恩給法の附則改正により、小園の未亡人は遺族扶助料を受給できることになる。
 小坂徳三郎総務長官は「小園氏の名誉回復は今回の恩給法の改正によりまして、まず第一段階は到達されたというふうにわれわれは認識しております」と説明した。
 しかし、その後の進展はなかった。

   〔ウィキペディアより引用〕