米百俵
2016年09月10日 | 本
米百俵
長岡藩とは
戊辰戦争といえば会津戦争や函館戦争のイメージが強いですが、北越戦争もその戦場の爪痕が残っています。そう新潟県長岡市。そして中越地震の時にも被災した小千谷も。そもそも長岡藩家老「河合継之助」と土佐藩士『岩村精一郎』とが小千谷会談で衝突いた事が発端。
長岡藩は中立を宣言していたのですが、若い岩村精一郎は武力制圧しか考えていなかったのでしょう。長州藩の世良修蔵も同じでしたが下級武士が急に権力を持つと失敗するパターンです。
そんな長岡藩ですが新政府と決別し、奥羽列藩同盟に加入、奥羽越列藩同盟へと規模が拡大。越後周辺の藩も旧幕府側へつきます。
長岡藩7万4千石と決して大藩ではありませんが、藩主牧野氏は三河以来の徳川家臣であったため幕末期は老中に就いていた。幕末期の家老「河合継之助」は変わり者だが先見性も高く、長岡藩江戸屋敷などに所蔵されていた家財や宝物を売り、軍備強化をしていたのだが、この事が政府軍から危険視された要因でもある。
まだ日本に3台しかなかった〈ガトリング砲〉を長岡藩が2砲所有していた。ちょうどアメリカでの南北戦争が終結し使い古した武器が日本へ流れ出た頃だったが、見た事のない武器だったため大変高価だった。河合は惜しむことなく2砲購入し武力故に中立が保てると信じていた。
北越戦争敗北
河合の期待とは反対に危険視され攻撃を受けた長岡藩は河合の指揮により劣勢を跳ね除け一時的に新政府軍を退けた。しかしその河合も負傷。そこから長岡藩の苦戦が続きついに落城。町は荒廃した。人の真価とはこのようなときに発揮するのだろう。
ここからは主役が小林虎三郎に変わる。
長岡の人以外で小林虎三郎を知っている人は少ない。
小林虎三郎は17歳~18歳の頃には長岡藩藩校の学問も修めて藩主の薦めで江戸遊学が決まるほどの秀才。父と交流のあった【佐久間象山】の塾で学ぶ。同期生で意気投合していたのが長州の吉田寅三郎こと吉田松陰だった。虎三郎と松陰は互いに認め郷里に戻ってからも手紙のやり取りが
あったそうだ。電話やメールがない時代にマメなことですね。本当に相手を尊敬していたのでしょうね。
明治3年になっても北越戦争で荒廃した長岡の町は復興出来ず、武士は食うにも困る困窮した生活を余儀なくされた。そんな中、親戚藩の三根山藩から救済措置として米百俵が送られて来る事になった。その日の食べ物に困っていた長岡藩士たちは大いに喜び、この米をどのように分配してくれるのか楽しみにしていた。家禄なのか家族構成なのか。とにかく何年も毎日粗末なお粥のようなものしか口にしていない藩士たちはこの話題で大盛り上がりだったようだ。が、長岡藩の大参事に就いていた小林虎三郎の考え方は違っていた。
本当の意味での復興とは何か。
この事を本当に考えされられます。米百俵は困窮した藩士とその家族に配ると1人五合程度で2~3日で食べ終わってしまう。それよりも、この百俵をお金に換えて人材育成をする学校を建てようというのが小林の考えであった。この事から長岡藩士たちは小林を斬るために小林宅に押し入ったほどだ。
刀を抜いて小林の前に迫った。しかし小林は「長岡藩士家族が食うに困っている実情はわかっている。しかし五合程度の米を食べても3日後には何が残る?三根山藩からは困窮した藩士のための見舞い米という事はわかっているが、最初から米百俵などなかったと思って、次世代の育成に使おう。自分たちはこの困窮に我慢できるが子供や孫にまでこの困窮をさせるつもりか!長岡藩に伝わる【常在戦場】の気持ちを思い出し、腹が減っただの疲れただの言わず、常に戦場にいる気持ちで臨めば乗り切れる。それが長岡藩士の戦だろう」と説いたのです。押し入った藩士たちはもっともな事だと涙ながらに納得し、学校を建てました。今の長岡中学。山本五十六長官もこの中学出身です。
河合と小林のこぼれ話
この二人。実は親戚です。ただいつも意見が合わず絶交していたのですが、小林の家が火事になりすべてを失った時の河合の行動が素晴らしい。着る者や身の回りの品々を用意して小林に届けた。小林も河合の粋な行動に感謝した。小林はお礼にと河合の性格や行動をここぞとばかりに批判した。そう、河合は他人の意見に耳を傾ける事がなかったため藩内でも敵ばかりだった。普通なら弱っている自分に世話をしてくれた人に対しては卑屈に出てしまうところを、痛烈に批判した。河合にしてみたらこの小林の親身になって批判する事に感謝したという。
男の友情とはこのようにありたいものです。
長岡藩とは
戊辰戦争といえば会津戦争や函館戦争のイメージが強いですが、北越戦争もその戦場の爪痕が残っています。そう新潟県長岡市。そして中越地震の時にも被災した小千谷も。そもそも長岡藩家老「河合継之助」と土佐藩士『岩村精一郎』とが小千谷会談で衝突いた事が発端。
長岡藩は中立を宣言していたのですが、若い岩村精一郎は武力制圧しか考えていなかったのでしょう。長州藩の世良修蔵も同じでしたが下級武士が急に権力を持つと失敗するパターンです。
そんな長岡藩ですが新政府と決別し、奥羽列藩同盟に加入、奥羽越列藩同盟へと規模が拡大。越後周辺の藩も旧幕府側へつきます。
長岡藩7万4千石と決して大藩ではありませんが、藩主牧野氏は三河以来の徳川家臣であったため幕末期は老中に就いていた。幕末期の家老「河合継之助」は変わり者だが先見性も高く、長岡藩江戸屋敷などに所蔵されていた家財や宝物を売り、軍備強化をしていたのだが、この事が政府軍から危険視された要因でもある。
まだ日本に3台しかなかった〈ガトリング砲〉を長岡藩が2砲所有していた。ちょうどアメリカでの南北戦争が終結し使い古した武器が日本へ流れ出た頃だったが、見た事のない武器だったため大変高価だった。河合は惜しむことなく2砲購入し武力故に中立が保てると信じていた。
北越戦争敗北
河合の期待とは反対に危険視され攻撃を受けた長岡藩は河合の指揮により劣勢を跳ね除け一時的に新政府軍を退けた。しかしその河合も負傷。そこから長岡藩の苦戦が続きついに落城。町は荒廃した。人の真価とはこのようなときに発揮するのだろう。
ここからは主役が小林虎三郎に変わる。
長岡の人以外で小林虎三郎を知っている人は少ない。
小林虎三郎は17歳~18歳の頃には長岡藩藩校の学問も修めて藩主の薦めで江戸遊学が決まるほどの秀才。父と交流のあった【佐久間象山】の塾で学ぶ。同期生で意気投合していたのが長州の吉田寅三郎こと吉田松陰だった。虎三郎と松陰は互いに認め郷里に戻ってからも手紙のやり取りが
あったそうだ。電話やメールがない時代にマメなことですね。本当に相手を尊敬していたのでしょうね。
明治3年になっても北越戦争で荒廃した長岡の町は復興出来ず、武士は食うにも困る困窮した生活を余儀なくされた。そんな中、親戚藩の三根山藩から救済措置として米百俵が送られて来る事になった。その日の食べ物に困っていた長岡藩士たちは大いに喜び、この米をどのように分配してくれるのか楽しみにしていた。家禄なのか家族構成なのか。とにかく何年も毎日粗末なお粥のようなものしか口にしていない藩士たちはこの話題で大盛り上がりだったようだ。が、長岡藩の大参事に就いていた小林虎三郎の考え方は違っていた。
本当の意味での復興とは何か。
この事を本当に考えされられます。米百俵は困窮した藩士とその家族に配ると1人五合程度で2~3日で食べ終わってしまう。それよりも、この百俵をお金に換えて人材育成をする学校を建てようというのが小林の考えであった。この事から長岡藩士たちは小林を斬るために小林宅に押し入ったほどだ。
刀を抜いて小林の前に迫った。しかし小林は「長岡藩士家族が食うに困っている実情はわかっている。しかし五合程度の米を食べても3日後には何が残る?三根山藩からは困窮した藩士のための見舞い米という事はわかっているが、最初から米百俵などなかったと思って、次世代の育成に使おう。自分たちはこの困窮に我慢できるが子供や孫にまでこの困窮をさせるつもりか!長岡藩に伝わる【常在戦場】の気持ちを思い出し、腹が減っただの疲れただの言わず、常に戦場にいる気持ちで臨めば乗り切れる。それが長岡藩士の戦だろう」と説いたのです。押し入った藩士たちはもっともな事だと涙ながらに納得し、学校を建てました。今の長岡中学。山本五十六長官もこの中学出身です。
河合と小林のこぼれ話
この二人。実は親戚です。ただいつも意見が合わず絶交していたのですが、小林の家が火事になりすべてを失った時の河合の行動が素晴らしい。着る者や身の回りの品々を用意して小林に届けた。小林も河合の粋な行動に感謝した。小林はお礼にと河合の性格や行動をここぞとばかりに批判した。そう、河合は他人の意見に耳を傾ける事がなかったため藩内でも敵ばかりだった。普通なら弱っている自分に世話をしてくれた人に対しては卑屈に出てしまうところを、痛烈に批判した。河合にしてみたらこの小林の親身になって批判する事に感謝したという。
男の友情とはこのようにありたいものです。
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